小柄で華奢だけど最強な私、婚約破棄されたので追放令嬢ライフを満喫していたら皇帝陛下に求婚されて成り上がっちゃいました

白月つむぎ

小柄で華奢だけど最強な私、婚約破棄されたので追放令嬢ライフを満喫していたら皇帝陛下に求婚されて成り上がっちゃいました

 侯爵家の大広間。

 リリーナ・ヴァルデンは、冷たく告げるアルフォンスの声に立ちすくんでいた。


「リリーナ、君との婚約は破棄する」


「え……な、なぜ……?」


 リリーナは声を震わせながら問い返す。


「君の力は、令嬢として社交界に相応しくない」


 リリーナは、小柄で華奢な体に、淡い水色のドレスをまとっていた。

 柔らかな絹の裾が床にかかり、袖口には細やかなレースが揺れる。長い巻き髪を肩に流し、華奢な首には小さな真珠のペンダント。

 まるで、手のひらに乗せられそうなほど繊細な少女――だが、その小さな体には、誰も想像できないほどの力が秘められていた。


「力で……私の存在の理由まで否定するつもり?」


 アルフォンスは目をそらしつつ、こう告げた。


「俺は……君を、守ってあげたいと思っていたんだ。だけど君は、華奢なのに重い荷物を軽々と持ち上げ、巨大な剣まで振るう――そんな君を見ていると、俺は手に負えない。守るどころか、逆に君を怖い存在だと感じてしまう」


 そう、私は怪力だった。


 誰もが小さくて可憐だと思う私が、石灯篭を片手で持ち上げることもできる。

 だけど、小さな体に秘められたこの力は、誰かを守るため、誰かを助けるために使うもの――それが私の誇りだったのに。

 それが原因で婚約破棄されるなんて――悔しくて、悲しくて、胸がぎゅっと締め付けられた。


 私だって、好きでこんな力を持って生まれたわけじゃない。


 でも、私の力を気味悪がる人ばかりじゃなかった。

 ケガをした侍女を抱えて運んだときだって、重い荷物を小間使いの代わりに運んだときだって、みんなは驚きながら喜んでくれた。

 ――私にも、役に立てる場所があると信じていた。


 でも、たった一人の婚約者には理解されなかった。

 それがこんなにも胸に痛いなんて、私は知らなかった。


「……そんなに、嫌だったの?」


 小さくたずねると、アルフォンスは戸惑うように眉を寄せた。


「嫌とかじゃない。ただ……君と並ぶ自分が、みじめに思えることがあったんだよ。君の力の前で、俺は何もできなかった」


「……私が、強すぎたから?」


「そうだ。君の力は、俺の自尊心ごと押しつぶしてしまう」


 その言葉に、胸がキュッと痛んだ。


 私は誰かの誇りを奪うつもりなんてなかった。

 ただ、一緒に未来を歩けると思っていただけ。

 支え合える関係になれると思っていたのに。


 ――どうして、理解してもらえないんだろう。


 華奢で、弱々しく見える外見と、何十倍もの力を秘めた身体。

 その「矛盾」を、人は不気味だと言う。

 でも私は、それでもいいと思っていた。いつか分かってくれる人が現れると信じて。


 けれど今、目の前の婚約者は私の誇りを否定し、私自身を拒絶した。


 「……わかったわ。そこまで言われたら、何も言えない」


 静かにそう告げたつもりだったのに、声が震えていた。


 アルフォンスは気まずげに視線をそらす。

 まるで、私を見ることすら怖いというかのように。


 その瞬間、胸の奥の何かがすっと冷えた。


 ――私はもう、ここにはいられないのだと。


 彼が恐れているのは、私ではなく私の「力」。

 だからきっと、どれだけ寄り添おうとしても埋まらない距離なのだ。


 悔しさと悲しさが渦巻いて、呼吸が苦しくなる。

 でも同時に、薄く気づいてしまった。

 こんな場所に縛られる必要は、もうないのだと。


 だって、私は力を使って誰かの役に立ちたかっただけなのだから。

 それを怖がる人のそばにいても、きっと幸せにはなれない。


 たとえ追放されても――。

 私の力を「必要だ」と言ってくれる人のところへ、いつか辿り着けるはず。


 その未来がまだ見えなくても、私は胸を張って歩いていく。


 ◇


 追放の日の朝は、驚くほど静かだった。

 いつもは侍女たちの声が飛び交う廊下なのに、今日は誰も目を合わせてこない。

 ――もう、私はこの家の人間ではないから。


 与えられたのは、粗末な茶色いワンピース一枚。

 飾りもレースもない、布を縫い合わせただけの簡素な服。

 華奢な体を包むその軽い布は、不思議と動きやすかった。


「……軽いわね」


 思わずつぶやくと、そばにいた侍女が一歩距離を取る。

 力を怖がるのは今に始まったことじゃない。

 でも、今日のそれは特に冷たかった。


 玄関ホールには、もうアルフォンスがいた。


「……リリーナ。君の持ち物はその袋にまとめてある」


 テーブルには小さな紙袋がひとつ。

 片手でつまめるほど軽い。


「本当に……これだけ?」


「君の物は処分した。必要ないだろう」


 胸がざわりと痛む。

 でも、それがこの家の答えなのだ。


「じゃあ、行くわね」


 私は振り返らずに屋敷の門を出た。

 朝の冷たい風が頬に触れ、胸の奥がすっと軽くなっていく。


「……いいのよ。力を怖がる人のそばにいても、何も始まらないわ」


 小さくつぶやき、前を向いた。


 ◇


 街に降りて、まずは仕事探し。

 だが、貴族上がりの町娘に手を貸す店は少なかった。


 それでも――生活は待ってくれない。


 市場で、困っている声が聞こえた。


「す、すみません、お嬢さん……荷車が壊れて動かせなくて……!」


 荷車は前輪が外れ、今にも食料袋が崩れ落ちそうだ。


「任せてください。持ち上げますね」


「え、ちょっと! そんな簡単には――」


 片手で荷車の前をぐいっと持ち上げると、周囲がどよめく。


「うそだろ、あの華奢な子が……」


「芋袋が何十も入ってるやつだぞ……」


 私は軽く持ち上げたまま、反対側に回って器用に車輪をはめ込む。


「はい、もう大丈夫です」


「お、お嬢さん……! ありがとうよ!」


 拍手が起こり、頬が少し熱くなる。


 ――この瞬間のために、私は力を使いたかったんだ。


 ◇


 翌日、今度は酒場の裏手で騒ぎが起きた。


「誰か来てくれ! 樽が転がって娘が……!!」


 巨大な木樽が坂道を転がり、店主の娘が壁に挟まれそうになっている。


 危険――!


 私は走り込み、樽の前に立ちはだかった。


「止まりなさいっ……!」


 ごん、と衝撃。

 体が少し押されるが、踏ん張って受け止める。


「な、なに……? 人間が止めたのか?」


「この娘……いったい……」


 私はそのまま樽を持ち上げ、安全な位置へ置いた。


 店主の娘が泣きながら抱きつく。


「お姉ちゃん……ありがとう!」


「ううん。怪我がなくてよかったわ」


 店主は深く頭を下げて言う。


「昼飯は毎日無料にするから食べにおいで! 助かったよ!」


 ありがたすぎる。

 だが、それ以上に――また力が役に立てたことがうれしい。


 ◇


 それからというもの、街での私はひたすら忙しかった。


 荷車の修理、倒れた家畜の救出、市場の荷上げの手伝い――

 力を必要とする場面があると、誰かが言うのだ。


「怪力のお嬢ちゃん呼んでこい!」


「いや、“天使”だろ? 助けを断らないし、優しいし」


 そんな呼び名、くすぐったくて仕方ない。

 でも嬉しくて、胸の奥がじんわりあたたかくなる。


「……天使、なんて」


 ぽつりとつぶやくと、果物屋のおばちゃんが笑った。


「だって本当だよ。あんた、ちっこくて可愛らしい顔してるのに、困ってる人がいたら真っ先に飛んでくるんだもの。神さまより頼りになるよ」


 内心ちょっと泣きそうになる。

 私の力は、誰かを怯えさせるためにあるんじゃない。

 助けるためにあるんだって、ようやく肯定してくれる人たちが現れ始めたのだ。


 ◇


 ある日、市場で荷卸しを手伝っていると、背後から声がかかった。


「君がリリーナ嬢だね?」


 振り返ると、鎧姿の大柄な男が立っていた。

 胸当てに刻まれた紋章は――冒険者ギルドの上位隊員。


「はい。なにか……?」


「いや、噂になっていてね。町中の救助活動をしてる細腕の娘がいるって。腕試しの依頼を受けてみないか?」


「腕試し……ですか?」


「荷運びや救助だけじゃもったいない。魔物退治の依頼もある。君の力なら、きっと戦える」


 魔物退治……。

 戦うことに抵抗はない。

 でも、過去を思い出して胸の奥がちくりと痛む。


「……武器を使ったことが、ないわけじゃないんですけど」


 言葉を選びながら答える。


「お、そうなのか?」


「ええ……昔、庭に落ちていた“巨大な剣”を持ち上げてしまって……。すごく重い剣だったのに、意外と振れてしまって。それ以来、周りからは“危ない”って言われて、触らないよう注意されてきました」


 男は目を丸くした。


「巨大な剣を……? その華奢な体で?」


「はい……。でも、ちゃんとした訓練は受けていないので……」


 するとギルド隊員は大きく笑った。


「いいじゃないか! 才能の塊だな!  大剣を振れる娘なんて滅多にいないぞ。しかも独学で怪我ひとつなしか?」


「え、ええ……」


「ならなおさら、ギルドで鍛える価値がある。君みたいな逸材、放っておけるか!」


 胸がどくんと跳ねた。


「……やってみたいです!」


「よし、決まりだ!」


 その日から私は、日中は市場の手伝い、夕方はギルドの基礎訓練という生活が始まった。


 ◇


 ギルドの訓練場で、私は想像以上の結果を出した。


 木製の訓練人形は、軽く突いただけで吹き飛ぶ。

 重い模擬剣は、当然のように片手で扱える。

 荷車どころか、鉄塊も持ち上げられた。


「おい……あの子、何者だよ……」


「こんな化け物じみた力、俺らの隊にはいないぞ……」


 ざわめきが広がる。

 でも、その声の中に恐れよりも期待の色が混じっているのが嬉しかった。


「すごいな、リリーナ。お前、絶対に頭角を現すぞ」


 そう言って肘で軽くつついてくるのは、ギルドでも面倒見のいい青年、アレン。

 初めて“怖がられない男の人”だった。


「ありがとうございます。もっと、できるようになりたいんです」


「その意気だ! だったら――これ、やってみるか?」


 彼が指差したのは、訓練場の中央に置かれた巨大な岩。


 ギルドの歴史上、持ち上げられたことがない“記念岩”。

 挑戦した者は皆、腰を痛めて終わったという代物。


「これを……ですか?」


「さすがに無理だろって思うけどな。でも君なら、もしかしたら――」


 私は前に出る。


 両手を岩に添え、ゆっくりと力を込める。


 ぐ、ぐぐ……


「動いてる!?」


「おい、嘘だろ……」


「ちょっと、浮いてないか……!?」


 私は、そのまま――岩を胸の位置まで持ち上げた。


 沈黙。

 次いで、爆発したような拍手。


「すげえええええ!!」


「ギルド史上初だぞ!!」


 頬が熱くなった。

 こんなに認められたのは、初めてだった。


 ◇


 そして、この活躍はすぐに街中の噂となり――

 やがて、遠く皇都にまで届いてしまう。


「皇帝陛下が……? 私のことを……?」


「そうだ。『怪力にして優しき娘がいると聞く。実際に見てみたい』と仰られたそうだ」


 ギルド長が頭を抱えていた。


「皇帝陛下が直々に召喚を……? どれだけ大事なんだよ……」


 私の胸もどくどくと脈を打つ。


「え、ええと……断れませんよね?」


「断った瞬間、ギルド全員が終わる。いいから行ってこい」


「……はい」


 まさか、皇帝陛下と会うことになるなんて。

 追放されたただの町娘だったはずの私が。

 なんの後ろ盾もない、怪力の令嬢だった私が。


 胸の奥で、何かが静かに動き出していた。


 ◇


 皇城の謁見の間は、圧倒されるほど広かった。

 高い天井、壁一面に飾られた絵画や歴代の武具。

 それらすべてが“権威”という名の重さを放っている。


 けれど、その中央に立つ人物は――不思議なくらい静かな存在感があった。


 皇帝レオンハルト・ヴァルシュタイン。

 その名にふさわしい、凛とした美しさを備えた人だった。


 肩まで届かないくらいの漆黒の髪は、光を浴びるたびに青みがかった艶を見せる。

 乱れひとつないその髪は、ただ整っているだけでなく、どこか“戦場を知る者”の気迫を宿しているように見えた。


 眉は鋭く、しかしどこか優しさを含んだ形。

 金色の瞳は、宝石よりも深く輝き、見つめられると胸の奥がざわめくほど強い意志を帯びている。

 その視線が向けられたとき、威圧というより“見透かされている”ような感覚がするのに、不思議と嫌ではなかった。


 端正でありながら冷たすぎない輪郭。

 横顔は彫像のように整っていて、静かに立っているだけで周囲の空気が引き締まる。


 そしてなにより印象的だったのは、その立ち姿。

 黒を基調とした皇帝軍装は無駄のない線で仕立てられ、幅広い肩からまっすぐ落ちる姿は、強さと気品を同時に感じさせる。

 長身でありながら近寄りがたいほどではなく、むしろ“守る”という言葉が自然と似合うような体躯だった。


 若いのに、ただの若さではない――

 重責を背負い、生きてきた人間だけが持つ静かな風格。


 そのすべてが、皇帝という存在を形作っていた。


「……君が、リリーナ・ヴァルデンだな?」


 その声は低く、澄んでいて、威圧感よりも強い意志を感じさせた。


「は、はい……。このような場にお招きいただき、恐れ多く……」


 膝をつこうとした瞬間、陛下の声が遮る。


「膝を折らなくていい。ここまで来たのだ、君は客人だ」


 驚きに思わず顔を上げると、彼はわずかに口角を緩めた。


「噂は聞いている。町で多くの者を助け、重い荷も軽々と持ち上げたと。……本当なのか?」


「え、ええと……人助けは好きですし……力も、あるほうで……」


「あるほう? 君は岩を持ち上げたらしいな」


 噂の広まり方に顔が赤くなる。


「そ、それは……あの、訓練の一環で……!」


「恥じる必要はない。むしろ誇るべきだ。力は正しく使えば、誰よりも人を救う」


 陛下の言葉は厳かでありながら、真っ直ぐ心に響いた。


 私は――初めてだった。

 力を肯定する言葉を、こんなにも自然に向けられたのは。


「……ありがとうございます」


 胸の奥が、暖炉の火にあてられたみたいにじんわりと温かくなる。


 だが陛下は、すぐに表情を引き締めた。


「力は称賛されるべきだ。しかし同時に、扱い方を誤れば危険にもなる。だからこそ、私は君を見たかった」


 視線が、まっすぐ私を射抜く。

 けれど、それは恐怖を与えるものではなく――ただ真剣な人の目だった。


「ひとつ訊く。君の力は、誰のために使う?」


 その問いは、私の胸を深く突いた。


「……誰かのために、使いたいです。困っている人を守りたくて。私の力は……そのためにあると思うから」


 陛下の瞳が、わずかに揺れた。


「……そうか」


 短い返事だった。

 でもその声音には、どこか満足げな響きがあった。


 沈黙が落ちる。

 けれど、不思議と気まずくなかった。

 言葉を交わさなくても、陛下の眼差しは誠実で、丁寧で――強かった。


「シグルドから聞いている。君をギルドに預けておくだけでは惜しい、と」


「ギルド長が……?」


「君という存在が、国にとって利益となるかもしれない。だがそれ以上に――」


 言いかけて、陛下はほんの一瞬目を細めた。


「……君の生き方に興味がある」


「え……」


 胸が、跳ねた。


 でもそれは恋ではない。

 まだ恋だなんて呼べる距離じゃない。


 ただ――

 この人は、私を“怖い存在”としてではなく、“ひとりの人間”として見てくれている。


 それだけで十分に、心が揺れた。


「これからしばらく、皇城の近くに滞在してもらう。正式な任務に就く前に、いくつか試練を受けてもらうつもりだ」


「……試練、ですか?」


「安心しろ。危険なものではない。君の心と力の使いどころを知るためのものだ。君が望むなら――だが」


 そう言って、陛下は初めて穏やかに微笑んだ。


「選ぶのは君だ。力を誇りとして生きるのか、それとも恐れて生きるのか」


 答えは決まっていた。


「……やります。陛下の試練、受けたいです」


 彼の瞳がわずかに光を帯びる。


「よく言った」


 その瞬間、謁見の間の空気が少し変わったような気がした。


 まだ恋ではない。

 でも確かに何かが動き始めた。


 ――この日から、私は皇帝レオンハルトという人に少しずつ惹かれていく。


 ◇


 試練の日の朝、皇城の中庭に呼び出された私は緊張で心臓が跳ねていた。

 そこには、皇帝レオンハルトと、ギルド長シグルドの姿があった。


「リリーナ。最初の試練は“制御”だ」


「せ、制御……?」


「そうだ。力とは、ただ大きければよいわけではない。状況に応じた加減を覚えねば、助けるつもりが傷つけることにもなる」


 陛下の声は厳しいが、どこか信頼を含んでいるように聞こえた。


 広場の中央には、割れ物の水壺がずらりと並ぶ。

 その間に倒れ込んだ人形があり、まるで本物のけが人のようだ。


「壺をひとつも割らず、あの人形を救出してみろ」


「む、難しそうですけど……やってみます!」


 私は深呼吸をして足を踏み出す。

 壺はぎっしり並べられており、少し触れれば割れてしまいそうだ。


 ――いつものように力任せに動けば、間違いなく壊す。


 私は慎重に体を傾け、壺と壺の狭い隙間に手を伸ばし、人形をそっと抱き上げる。


「……重い荷物を扱うときの感じに似てる。力を入れすぎないように……」


 ゆっくり、ゆっくりと後退し――

 壺はひとつも揺れず、私は無事に人形を抱え出した。


「できました!」


 シグルドの口笛が響く。


「おお……本当にやりやがったな。壊れ物を割らずにあの体勢で動ける奴、普通はいないぞ」


 陛下は静かに近づき、私の手元を見つめた。


「丁寧な手だ。力任せの者にはできない芸当だな」


「え……」


「君は乱暴な力ではない。誰かを守るための力だ。誇るといい」


 胸が熱くなる。


 この人は――

 “力を怖がらず、正しく見てくれる人”。


 そのことが嬉しくて、ちょっとだけ目頭が熱くなった。


 ◇


 次の試練は城下町で行われた。


 市場のど真ん中で、陛下から突然命じられる。


「リリーナ。これから私の部下が“助けを求める演技”をする。だがその中には、偽の者もいる。――誰を助ければよいか、君自身の判断で選べ」


「えっ……た、助ける相手を……選ぶ……?」


「そうだ。全員を救えるとは限らない状況もある。君の心で選べ」


 試練開始。

 すぐにあちこちから声が上がった。


「うわあああ! 荷車が倒れる!」


「助けてくれ、子どもが落ちるぞ!」


「誰か! 怪我人が……!」


 私は必死に声の方向を見渡す。

 ……でも、どの声も本気に聞こえる。


 その中で――ひとり、小さく震える老婦人がいた。


 周囲が騒がしくて誰も気づかず、誰も助けに向かわない。

 その姿に胸が締めつけられる。


「ごめんなさい! すぐ行きます!」


 私は迷わず老婦人を抱え上げ、安全地帯へ連れていった。

 試練が終了すると、陛下が静かに歩み寄る。


「なぜあの者を選んだ?」


「あの方だけ、声を出せないほど困っていたからです。声が大きな人は誰かが気づけるけれど……叫べない人は、もっと危険ですから」


 陛下の瞳が、ほんの少し揺れた。


「……優しいな、君は」


 その声音は、初対面の日よりも近かった。

 私の胸がどくりと鳴る。


 ◇


 最後の試練は、まさかの共同作業だった。


「リリーナ。これから私と協力して、この巨大な門を持ち上げる」


「えっ、陛下と……!?」


「私も軍人だ。鍛えている。この程度なら動かせる」


 そう言って、陛下は私と同じ高さにしゃがみ込んだ。

 肩が触れそうなほど近い。


 私の心臓が跳ねる。

 こんなに近くで見る皇帝は、威厳よりも“ひとりの男性”に見えてしまう。


「合図を出す。せーの――!」


「っ……!」


 二人で力を込め、重い門を持ち上げる。

 陛下の手が震えるほどの重さだが、私は力を調整してバランスを保つ。


「リリーナ……君、絶妙な加減だな……! 私の力に合わせてくれている」


「協力するんですもの。陛下が怪我したら大変です!」


 すると、陛下が小さく笑った。


「……君に守ってもらう皇帝がどこにいる」


「ま、守りたいんです! 誰だって、怪我するのは嫌でしょう!?」


 ぽつりと呟いた私の言葉に、陛下は一瞬動きを止めた。

 そして――門を下ろしたあと、私を真っ直ぐ見つめる。


「リリーナ。私は……君のそういうところを、尊いと思う」


「え……」


「君の強さは腕力ではない。心が強い。私は、それを知れてよかった」


 胸がきゅっと高鳴った。

 それは、ただの称賛ではなかった。

 彼の声に、ほんの少し――温度があった。


「これで試練はすべて終わりだ。……合格だ、リリーナ」


「ほ、本当ですか!?」


「もちろんだ。むしろ――君のことが、もっと知りたくなった」


 その言葉に、息が止まりそうになる。


 まだ恋じゃない。

 でも確かに、心が少しずつ彼へ傾き始めていた。


 皇帝レオンハルト。

 力を怖れず、私を“ひとりの人間”として見てくれた人。


 ――この試練をきっかけに、私たちの距離はゆっくり、確かに近づき始めた。


 ◇


 試練に無事合格し、その日から私は皇城の宿舎で生活することになった。

 部屋は簡素だけれど清潔で、夜には巡回する騎士が挨拶してくれる。


「リリーナ殿、今日も訓練お疲れさまでした!」


「ありがとう。あなたたちも見回り、気をつけてね」


 町では“怪力の娘”と噂されるけれど、城では意外にもすんなり受け入れられていた。


「魔獣を素手で吹き飛ばしたらしいな」


「いやいや、あれは槍を持ってただけで……素手は流石に」


「でも片手で持ってたんだろ? すげぇよな!」


 騎士たちは私を怖がるどころか、頼もしがってくれた。


 ◇


 数日後の朝。

 私は訓練場で準備運動をしていると、背後から聞き慣れた声がした。


「リリーナ」


「レオンハルト陛下!? どうしてここに……!」


「余が来てはいけない理由があるのか?」


「い、いえ! そんなことは……!」


 皇帝が訓練場へわざわざ足を運ぶ時点で、騎士たちはざわついていた。


「それより、本題だ。……今日から君には、正式な任務に就いてもらう」


「っ……はい!」


「まずは宮廷内の巡回補助。そして、貴族院議会の日は余の護衛として側に立て。君なら、誰よりも余を守れる」


「わ、私が……護衛に……!?」


「そうだ。試練で証明しただろう。君は誰かを守るために力を使える人間だ」


 その言葉が、胸のいちばん深い場所に響いた。


「……ありがとうございます。精一杯、努めます!」


「うむ」


 レオンハルトは満足そうにうなずいたが、ふと私の手を見て、目を細めた。


「その手……まだ試練のときの傷が残っているな」


「あ、いえ! 大したものじゃ……」


「見せろ」


「っ……!」


 皇帝自らが私の手を取るなんて。

 温かさに触れた瞬間、心臓の鼓動が速くなる。


「……無理はするな。君に怪我をされると、余は困る。いや……困る以上の何かを感じるのだが、まだ言葉にならん」


「へ……?」


「いや、なんでもない。任務に戻るぞ」


 そう言って手を離すと、レオンハルトはわずかに咳払いした。

 珍しく動揺しているようで、なんだか可愛らしいと思ってしまった。


 ◇


 その日、私は初めて宮廷の中を巡回した。

 広い廊下、庭園、魔術研究塔への通路、貴族院の扉……

 覚えることは多いけれど、不思議と心は軽かった。


 途中、侍女たちがひそひそ声で話しているのが聞こえる。


「噂の怪力令嬢よ……!」


「皇帝陛下が護衛にって……本当なのかしら」


「しかも陛下がわざわざ訓練場に行ったんですって!?」


 視線を感じて振り向くと、侍女が顔を赤らめて逃げていった。

 侍女が逃げていった方向をしばらく見つめたまま、私は小さく息をついた。


 ――どうやら、皇城という場所は、静かに息をしているだけでも噂になるらしい。


 廊下の先から、甲冑の音が近づいてきた。振り向くと、先日の試練で顔を合わせた近衛騎士たちが、そろって会釈をしてくる。


「リリーナ・ヴァルデン殿、ここでお会いできるとは」


「試練、お見事でした。あの巨大な門扉を素手で……い、いえ、なんでもありません!」


 褒めているのか困っているのか分からない表情が少し可笑しくて、私は小さく笑った。


「そんなに噂になっているのですか……? 私、あまり目立ちたいわけではないのですが」


「そ、それが……」


「正直、城中があなたの話題で……!」


 彼らの後ろから別の騎士が駆けてきて、声を潜める。


「おい、あまり大声で言うな! 誰が聞いているか……!」


「だ、だってよ……! あの怪力だぞ!? リリーナ殿が側近候補として滞在すると――」


「ばか、それを言うなって!」


 ひそひそ声で話しているつもりなのだろうが、全部聞こえている。

 ……うん、なんだか、どこにいても私の話題が聞こえる気がする。


 近衛騎士たちは慌てて姿勢を正し、口々に言う。


「と、とにかく! 今後は護衛任務の基礎として、城内の警備区画の案内があります!」


「案内の担当は我々です。どうかご安心を!」


 私は軽く会釈して歩き出す。


 案内される廊下を進んでいくと、すれ違う侍女や文官たちが、さっと姿勢を正し、何やらひそひそ話し始める。


「ねえ、あの人よ……」


「試練を突破した、あの怪力の……!」


「皇帝陛下から信任状を受けたって聞いたわ……!」


 視線の熱に思わず頬がむずがゆくなる。

 私はただの町娘として生き直すつもりだったのに、たった数日でこんなことになるなんて。


 ――まあ、レオンハルト陛下が試練を出した張本人だから仕方ないのだけれど。


(落ち着かなくて仕方ないわ……)


 すると、案内役の若い騎士が言う。


「リリーナ殿、こちらは城内警備の中でも皇族が通る回廊です。普段は近衛しか通りませんが、側近候補として覚えていただく必要がありまして」


「わかりました。ありがとうございます」


 丁寧に答えると、騎士はなぜか赤面し、バタバタと前を向いた。

 どう反応していいのか分からず、私は少し肩をすくめる。


 そのとき、背後で若い侍女たちが声をあげた。


「ちょっと見て、今の! 笑ったわよね!?」


「怪力令嬢なのに、あんな可愛い顔で……!」


「ずるい……ずるいわ……!」


 なんで嫉妬されているのか全く分からない。


(可愛いって……そういうつもりで笑ったわけじゃ……)


 ただ、緊張を誤魔化しただけなのに。

 この城にいると、本当にどこでどう噂になるのか分からない。


 廊下を曲がったところで、案内役の騎士が振り返った。


「リリーナ殿、今日は訓練場に行かなくて大丈夫ですか? 皆があなたの来訪を待っているようでしたが……」


「えっ……待っているって、どうしてですか?」


「なんでも、“どれほど強いのか確かめたい”と……!」


 私は額に手を当てた。


 ――どうしてこうなるの。


「今日は城内の案内を受ける日ですし、訓練は後日にします」


「はっ、承知しました!」


 その返事に、騎士は妙に安心したように胸をなでおろした。


 城の中は広く、華やかで、それでいて緊張が絶えない。

 でも――


(ここで、私の役目が始まるのね)


 胸に手を当て、静かに息を吸った。


 皇帝陛下に頼まれたのは、ただの護衛ではない。

 側近候補として、これから日々を重ねていくのだ。


 噂がどうであれ、周囲がどうであれ――私は私の務めを果たすだけ。


 ◇


 翌朝。皇城の空気は今日も静かで、どこか張り詰めていた。


 側近候補となった私は、通常の侍女や文官と同じように、城の手伝いをしながら内部構造を学ぶよう指示されていた。

 任務と言っても、特別なものではない。書庫の整理や物資の運搬、貴族客の案内など、地味な作業ばかりだ。


 ……のはずだった。


「リ、リリーナ殿! そっちは我々が……!」


「大丈夫です。これくらいなら」


 私は笑って、文官たちが四人がかりで運ぼうとしていた巨大な書類棚を、ひょい、と持ち上げた。

 数秒、静寂。

 次の瞬間、文官たちの目が丸くなる。


「ひ、一人で……!? それ、百キロは……!」


「軽いので平気ですよ」


 私が何気なく言うと、さらに周囲の顔が青くなったり赤くなったり忙しい。


「軽い……!?」


「天井が落ちても助かりそうだぞ……!」


(そんなに言われるほどかしら……)


 私は棚を所定の位置に置き、埃を払う。

 すると、書庫で作業していた侍女たちがわらわらと集まり、そわそわと私を見つめている。


「本当に怪力なのね……」


「噂って、誇張じゃなかったのね……!」


 ……誇張どころか、わりとそのままなんだけど。


 ◇


 休憩のために庭園を歩いていると、侍女の悲鳴が聞こえた。


「きゃあっ!? 鳥籠が落ちる……!」


 見ると、庭園に吊られていた大きな鳥籠の鎖が切れ、侍女の頭上に落ちかけている。


 考えるより先に体が動いていた。


「危ない!」


 私は全力で駆け、真上から落ちてきた鳥籠を片腕で受け止め、そのまま軽々と持ち上げた。


「だ、大丈夫ですか?」


「は、はい……っ! た、助かりました……!」


 涙目の侍女に微笑むと、周囲の兵が駆け寄ってきた。


「リ、リリーナ殿!? いま一瞬で……!」


「すごい反応速度だ……!」


「まさか武の才まで……!」


(反応しただけなんだけど……)


 助けた侍女は、その場で何度も頭を下げてくる。


「怪力って聞いていましたけど……力だけじゃなくて、本当に優しいんですね……!」


 ……なんだか、恥ずかしい。


 ◇


 城の裏口で、物資を運ぶ台車が坂道で横転していた。

 兵士たちが必死に助けようとしているが、荷台が重すぎて動かないらしい。


「くっ……これ以上は無理か……!」


「リリーナ殿! 近づくと危険です!」


「大丈夫です。手伝わせてください」


 私は台車に近づき、ぐっと腕に力を込める。


 ――その瞬間。


 ずしん、と動かなかった荷台が、簡単に持ち上がった。


「よし、押し戻します!」


「ま、待って、そんな……!」


 兵士たちが慌てふためく間に、私は台車を起こし、荷が落ちていないか確認する。


「大丈夫そうですね。固定を強くしておいてください」


「……は、はい!!」


 なぜか兵士全員が姿勢を正し、敬礼してきた。


「リリーナ殿……あなたは一体……」


「ただ、力が強いだけですよ?」


「だけってレベルじゃない……!」


 ◇


 その日の夜、食堂に向かうと侍女も文官も騎士も、なぜか私を見るたび道を開けた。


「リリーナ殿……」


「“皇帝の新たな腕”って本当なのかしら……」


「いや、あれはもう“怪力”じゃなくて“化け物”」


「こら失礼だぞ!」


「でも優しいのよね……さっきも侍女を助けて……」


 あっちでもこっちでも噂されている。


 私はお盆を持って席に着きながら、小さくため息をついた。


(皇帝陛下がいなくても、なんだか慌ただしい一日だったわ……)


 明日は、もっと落ち着いた日になるといいのだけれど。


 ――ただ、この時の私は知らなかった。


 今日の出来事はすべて、皇帝レオンハルトの耳に届いているということを。


 ◇


 翌朝。

 皇城の空気が、いつもより張り詰めていた。


 侍女や文官、騎士たちまでもが落ち着かず、ひそひそ声が廊下に満ちている。


「今日って……“あれ”が発表されるらしいわよ……!」


「ええ、皇帝陛下が直々に……!」


「でも本当に、あのリリーナ殿が……?」


「試練突破、城内での功績、侍女救助……噂は全部事実ですし……!」


 皆が、私を見ては顔を赤くしたり青くしたりして逃げていく。


(“あれ”って何かしら……)


 胸の鼓動が少しだけ速くなる。


 そんな中、足早に近づいてきたのは近衛騎士の隊長スレインだった。

 いつも厳格な彼が、今日はどこか緊張しているように見える。


「リリーナ・ヴァルデン殿。至急、第一謁見の間へお越しください」


「謁見の間……ですか?」


「はい。皇帝陛下より、直々の伝達があります」


 私は思わず息をのんだ。

 レオンハルト陛下が、この私に直接――?


(まさか……)


 胸の奥に、理由の分からないざわめきが広がる。


 ◇


 高い天井、深紅の絨毯、荘厳な装飾。

 足を踏み入れただけで背筋が伸びるような空気。


 レオンハルト陛下は、玉座ではなく、一段下の階に立っていた。

 まるで、“上から見下ろす形にはしたくない”と言うように。


 金の瞳が、まっすぐ私を捉える。


「リリーナ・ヴァルデン」


「……はい」


 声が少し震えた。

 陛下の視線は鋭いのに、どこか優しい。

 その静かな熱に、胸がざわつく。


「これまでの働き、余はすべて報告を受けている。そなたは城内の手伝いにおいて、力のみならず、判断力、献身性、人を助ける勇気を示した」


 レオンハルトの言葉が、一つひとつ胸に落ちていく。


 彼は続けた。


「ゆえに、ここに正式に命ずる。リリーナ・ヴァルデン――これより余の側近として、皇城に常駐せよ」


 瞬間、謁見の間にいた文官や騎士たちがどよめき、すぐに静まった。

 その沈黙が、かえって決定の重さを感じさせる。


「わ、私が……側近に……?」


 声にすると、胸が熱くなった。


 追放され、行き場を失い、町娘として生き直そうとした私が――

 今は皇帝陛下の、側で働く人間に。


 レオンハルト陛下は一歩、私に近づいた。

 金の瞳が、揺るぎなく私だけを映す。


「そなたの力を、余は必要とする。力だけではない。そなたの“在り方”もだ」


 その言葉は、まるで心の奥の傷跡にそっと触れるようで――

 胸の奥がきゅっと締めつけられた。


(……アルフォンス様に否定された“力”も、私という存在も、陛下は必要だと言ってくれるの……?)


 思わず、胸に手を当てて頭を下げた。


「……謹んで、お受けいたします」


 レオンハルト陛下は小さく頷き、静かに言った。


「これより、そなたは余の側で務める者だ。誇りを持て、リリーナ・ヴァルデン」


 その言葉に背中を押され、私は深く息を吸う。


(ここが……私の新しい場所……)


 そんな思いが胸に広がった。


 ◇


 廊下に戻ると、案内してきたスレインが待っていた。


「……やはり、陛下は考えておられたか」


「スレイン様?」


「側近任命。噂はあったが……本当に正式になるとは」


 彼ははっきりと言った。


「あなたは、城に必要な人材です。胸を張りなさい」


 そう言われて、私はようやく実感が湧いてきた。


(私……側近になったんだ)


 でも同時に、胸の奥が少しだけざわめいた。


 喜びとも違う、緊張でもない――

 あの黄金の瞳を思い返すと、胸がふっと熱くなる。


(なんで、こんな……)


 ◇


 後日、城門前が騒がしかった。


「どけっ! 俺はリリーナに用があるんだ!」


「あっ、危ない!?」


 聞き覚えのある、懐かしくて、けれど胸の奥をざわつかせる声。


 振り返ると、乱れた髪と焦った顔の――アルフォンスが立っていた。


「リリーナ……! 君が、陛下の側近に……? どういうことなんだ……!」


 周囲がざわめき、私の胸中には言葉にしづらい感情が渦巻いた。


 でも、一つだけはっきりしている。


 私はもう、あの日の私じゃない。


 アルフォンスの視線が、かつての婚約者を見つめるものではなく、嫉妬と焦りを滲ませたものに変わっているのを見て――

 私は、ゆっくりと彼に向き合った。


「……アルフォンス様。ここは皇城前です。お気持ちは察しますが、少し落ち着いてください」


 静かにそう告げると、アルフォンスは一瞬言葉を失い、私を見つめた。


「……君、変わったな。前はもっと……俺の顔色を見て、怯えていたはずだ」


「怯えてなんていませんでした。ただ……あなたの言葉に、傷ついていただけです」


「っ……!」


 アルフォンスの肩がぴくりと揺れる。

 あの日、怪力を“怖い”と評されたことは、私の誇りを一度折り捨てるのに十分だった。


「リリーナ! 俺は……後悔している。あの時の俺は、王族としての体裁や、周囲の目ばかり気にして……君を真正面から見ようとしていなかった。あれは、間違っていたんだ!」


 周囲の貴族や騎士たちが息を呑む。

 王族の前で声を荒げるなど、本来なら一瞬で拘束されてもおかしくない。


 けれど――私は首を横に振った。


「その後悔を、私にぶつけないでください。あなたが怖いといったこの力で、私は救える人も、救いたい人も見つけました。今の私は……あの日あなたのもとにいた私とは違います」


「でも……! 君は俺の……」


 震える声。伸ばされた手。


 けれど、その手は途中で遮られた。


「――そのあたりにしていただきたい」


 すっと私の前に立ちふさがる影。


 スレインだ。

 近衛騎士隊長としての冷たい眼差しで、アルフォンスを見下ろしていた。


「皇城周辺での揉め事は、我々の管理下にあります。王家のご事情であっても、ここで騒ぎを起こすのはお控えください」


「……スレイン隊長。これは、私とリリーナの話だ」


「であればなおさらです。リリーナ殿は、すでに陛下直属の側近。あなたと“私的な感情のやり取り”をする立場にはありません」


 アルフォンスの顔が苦しげに歪む。


 ――ああ、本当に変わったんだ、私。


 かつてなら、こんな場面で縮こまり、言いたいことを飲み込んでいた。


 でも今は違う。


「アルフォンス様。私は――前に進みます。あなたの後悔に縛られるつもりはありません」


「……っ、リリーナ……!」


 アルフォンスの瞳が揺れる。

 その痛みも焦りも、全部わかってしまうほど、昔の私は彼が好きだった。


 でも――戻る気は、微塵もない。


「どうか、道を開けてください。私は、与えられた任務に向かいたいのです」


 毅然と告げると、アルフォンスは握りしめていた拳を震わせながら、一歩……二歩と後ずさった。


「……本当に、君は……もう、俺の隣には戻らないんだな」


「はい」


 その一言で、彼の表情は決定的に崩れた。


 沈黙。

 風が吹き抜け、落ち葉がひらりと舞う。


 やがてアルフォンスは、声を押し殺すように言った。


「……俺は……まだ、諦めない。君がどれだけ遠くへ行っても……俺は必ず取り戻す」


 そして、踵を返し、城下へと消えていった。


 騒がしさの残る空気の中、スレインが私を一瞥する。


「大丈夫か、リリーナ殿」


「はい……少し、胸が痛いだけです。でも……大丈夫です」


「そうか。ならば行こう。陛下がお待ちだ」


 私は深く息を吸い込み、顔を上げた。


 アルフォンスの未練も、過去の弱さも――すべて置き去りにして、私は前へ進む。


 皇帝レオンハルトの側近としての道へ。


 ◇


 皇城の夜は静かだ。昼の喧騒が嘘のように、広い回廊には灯火だけが揺れていた。


「……リリーナ。今日は随分遅かったな」


 振り返ると、深い紺の軍装をまとったレオンハルト陛下が立っていた。

 整った横顔に、薄い影。私を待っていたのが、誰の目にも明らかだった。


「訓練場の片づけをしていたら遅くなってしまって……すみません、陛下。お待たせしてしまいました」


「謝る必要はない。……ただ、心配しただけだ」


 ――心配?

 その言葉に胸がくすぐったくなり、私は思わず視線をそらす。


「今日は……元婚約者が来ていたとスレインから聞いた」


「……はい。でも、大丈夫です」


「大丈夫ではないだろう。あれは明らかに“未練”というやつだ」


 陛下は少し苦々しいように眉を寄せ、小さくため息を落とした。


「君の過去が、いまの任務に支障をきたすようなことがあってはならない。護衛を増やすか……いや、いっそ私が――」


「だ、だめです! 陛下自ら付き添うなんて……!」


 慌てて否定すると、陛下は一瞬だけ驚き、そのあと少し困ったように笑った。


「……ああ、いけないな。私は、皇帝である前に“男”として君を心配しそうになる」


「……っ」


 言葉が胸に落ちて、呼吸が止まりそうになる。

 それは、これまでの距離とは違う、ほんの少し踏み込んだ温度を持っていた。


「リリーナ。君は、自分がどれだけ特別か分かっているか?」


「特別……?」


「ああ。力だけではない。君の誠実さも、優しさも……誰かのために迷わず動けるその心も。皇城に来て以来、どれほどの者が君に救われたと思っている」


「わ、私はただ……目の前の人を助けたかっただけです」


「それができる者は、そう多くない」


 レオンハルト陛下の声は、静かで優しかった。

 胸の奥がじんわりと熱くなる。そして、その熱を覚えている感情が私の中にある。


「……君が側近になったのは、正しい選択だった。けれど――それだけでは足りないと思うようになった」


「足りない……?」


「そうだ。私は……君を“もっと近く”に置いておきたいと思うようになった」


 息が止まる。


 皇帝陛下の金色の瞳が、私だけを見つめていた。

 近すぎて、心臓の音が漏れそうで――でも目をそらせなかった。


「私は……ずっと、君のことを見ていた。試練を突破し、人を助け、ここで日々力を尽くす君を。君の優しさ、強さ、すべてに――惹かれてしまった」


 耳まで熱くなる声で、陛下は静かに続ける。


「リリーナ・ヴァルデン、私は君を愛している。皇帝としてではなく、ただの私として、君を傍に置きたい」


 その瞬間、胸が震える。

 追放された日から、怪力の誇りを否定され傷ついた日々。

 それが、すべてここに結実するような感覚があった。


「……陛下……私も……」


 言葉が出そうで、でもまだ届かない。

 その時――突然、背後で石がぶつかる音がした。


「――っ!」


 不意の襲撃者。皇城を狙う何者かが、陛下を狙っている。

 咄嗟に私は飛び出す。


「陛下、危ないっ!」


 腕を伸ばし、身体ごと盾になった。

 ――怪力が、体を貫く覚悟が、全てを支える。


 襲撃者は私の力に押されてよろめき、陛下は無事。

 しかし、私の腕には痛みが走った。


「リリーナ……!」


 陛下は咄嗟に駆け寄り、私の肩を支える。


「大丈夫か?」


 私は小さく息を吐き、腕をさすりながらうなずいた。


「……はい、大丈夫です。でも、あの人を……」


 襲撃者は再び立ち上がろうとしている。

 私は思わず、力を込めて地面に押し付ける。


「ここで……止まれ!」


 しかし、完全に制圧するには私一人では不安が残る。

 その時、スレイン率いる近衛騎士たちが飛び込んできた。


「襲撃者を捕縛せよ!」


「はい、隊長!」


 数秒のうちに、襲撃者は騎士たちによって手錠をかけられ、安全に確保された。


 騎士たちは一礼し、陛下の側へ戻る。


「リリーナ殿の力で大事には至らなかった。よく踏ん張ったな」


 スレインは真剣な眼差しで私を見つめ、短く言った。


 私は肩をすくめて、少し恥ずかしそうに笑う。


「怪力……少しだけ、役に立ちました」


 陛下はその横で、柔らかく微笑む。


「君の力と勇気があったからだ。私は本当に、君を誇りに思う」


 胸の奥がじんわりと熱くなる。

 襲撃者の危険を乗り越えたあとに、こんな風に見つめられるなんて――。


「陛下……」


 自然に手が伸び、私たちの指が触れ合う。

 月光の下、二人の影がぴったり重なる。


「リリーナ、私は……君を手放さない」


 陛下の声は、今までよりもずっと近く、そして力強く響いた。


 私は小さく笑い、確信する。


(――私は、この人と未来を歩く)


 襲撃の危険も、過去の傷も、もうすべて乗り越えた。

 怪力令嬢と皇帝、二人の物語はここで、ようやく新しい一歩を踏み出したのだ。


 ◇


 晴れ渡る空の下、皇城の大広間は光に満ちていた。

 天井から吊るされたシャンデリアが煌めき、赤と金の絨毯が長く伸び、参列者の列は息を呑むほどの豪華さだ。


 私は純白のウェディングドレスに身を包み、胸を少しだけ緊張させながら、ゆっくりと歩を進める。

 肩にかかるヴェールの向こうには、見慣れた金色の瞳――レオンハルト陛下が立っていた。


「……リリーナ」


 静かに呼ばれる声に、胸が高鳴る。

 それは皇帝の声であり、私を愛する男性の声でもある。


 大広間には、スレイン隊長をはじめ近衛騎士団、侍女たち、文官、貴族の顔が揃っている。

 噂の怪力令嬢が皇帝の花嫁となると、誰もが目を見張った。


 でも――私はもう怖くない。

 怪力も、誇りも、すべてこの日を祝福するためにある。


 大広間の中央で、陛下は私を待っていた。

 整った顔立ちに優しい笑みが浮かび、そして誇らしげに私を見つめる。


「リリーナ・ヴァルデン。今日から私は、君と共に歩む」


 その言葉に、思わず微笑む。

 彼の手が差し伸べられ、私は迷わずその手を握る。


「はい、陛下。私も、ずっとそばに――」


 その瞬間、スレイン隊長が微笑みながら小さく会釈する。


 「さすがだ、リリーナ殿。皇帝陛下を守る力も、愛も手に入れたな」


 思わず笑い、私は軽く頷いた。

 怪力令嬢の誇りが、自然と花嫁としての華やかさと調和しているのを感じる。


 神父が厳かに儀式を進める中、私たちは指輪を交換し、誓いの言葉を交わす。


「私は、あなたを愛し、守り、支えます」


「私も、リリーナ。君を愛し、守り、そして未来を共にする」


 それは、怪力でも、皇帝でも、立場でもなく、ただ二人の心の誓い。

 胸が熱くなる。


 そして参列者の拍手と祝福の声が、広間いっぱいに響く。


「おめでとうございます!」


「素敵です、リリーナ殿!」


 みんなが笑顔の中、私は胸をそっと落ち着かせ、レオンハルトの手を握り返す。


(こうして……私は幸せになったんだ。怪力も、誇りも、すべて認めてもらえて……)


 夜空に打ち上がる花火のように、私の心も光に満ちた。


 ◇


 広間の祝宴も終盤に差しかかる頃、私はドレスの裾を軽く踏まないよう注意しながら、参列者の笑顔を眺めていた。


 ふと、遠くで誰かの視線を感じる。

 振り向くと、アルフォンスがひっそりと座っていた。顔は少し赤らんでいて、しかし、どこかすっきりとした表情だった。


「……リリーナ様、結婚、おめでとうございます」


 かつて婚約を破棄した彼の声は、以前の焦燥や嫉妬はなく、素直な祝福に変わっていた。

 私は微笑みながら軽く会釈する。


「ありがとうございます。アルフォンス様も、これからは自分の道を大切にしてくださいね」


 彼は少し考え込んだあと、肩をすくめて笑う。


「そうだな……俺も、自分の城下で立ち直らなきゃな。君に振られたことは悔しいけど、今日でやっと、前に進めそうだ」


 なんだか、肩の力がふっと抜けるような気持ちになった。


 その瞬間、宴会場の片隅で、スレイン隊長が小さく笑いながら私にささやく。


「リリーナ殿、やはり陛下と一緒だと笑顔が増えるな」


「そう……ですね。スレイン様も、いつも守ってくださって、ありがとうございます」


 スレインは無言で頷く。

 その落ち着いた姿に、私は少し安心する。側近としてだけでなく、仲間としても頼れる存在だ。


 宴会はそのまま和やかに進み、侍女たちが小さな花束を渡してきたり、子どもたちが私のドレスの裾をふざけて引っ張ったり――

 そんな光景に、私は心から笑顔になった。


 怪力令嬢と皇帝、そして城の仲間たち――

 これからの未来は、力も愛も、誇りも全部抱えて歩いていける。


 そう思った瞬間、陛下がそっと私の手を握った。


「リリーナ、これからもずっと――私の側にいてくれるな」


「はい、陛下。ずっと、ずっと一緒です」


 広間に満ちる祝福の拍手と笑い声に包まれながら、私は新しい人生の第一歩を踏み出した。

 怪力令嬢としての誇りも、愛する皇帝との幸せも――すべて手に入れた、最高のハッピーエンドだった。

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小柄で華奢だけど最強な私、婚約破棄されたので追放令嬢ライフを満喫していたら皇帝陛下に求婚されて成り上がっちゃいました 白月つむぎ @tmg_srtk

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