交代
雨人 咲(ウビト サキ)
交代
『交代』
今から、私が数年前に経験した話をここに綴ろうと思う。この話は今まで誰にも明かしたことがない。しかしもう隠す意味を成さなくなってしまったので、少しづつ頭を整理しながら書いていく。最後までお付き合い頂けたら幸いだ。
私は生来寝つきが悪く、度々理由もなく眠れぬ夜を過ごすことも少なくなかった。そういう時は決まって、知り得る限りの安眠ライフハックを試してみるのだが、いつも勝率は低く、大抵諦めて長い夜と付き合うことになる。
付き合い方はその日の気分によって変わるが、中でも好んでやっていたのは散歩だ。
誰もいなくなった街の中をたった一人孤独に歩いていると、開けた場所にいるはずなのにまるで自室にいるときのような、素の自分のままで外を歩いている事に何とも言えない充足感を覚えるのだ。その感覚が何とも快感で、眠れないことによる焦りで自己嫌悪に陥り、閉塞感を覚えた時は決まって静かな街へ繰り出すのだ。
その日も私はいつまでも閉じない眼に嫌気が差して外に繰り出していた。こうも日頃から自宅の近辺を歩き回っていると、徒歩で行ける範囲はとっくに制覇している。それでも飽きずに散歩を繰り返す事が出来るのは、近所に流れる一級河川のおかげだろう。都会で生まれ育っていても、やはり自然はいいものだ。この川沿いも何度も歩いてすっかり見慣れてしまった風景だが、いつも何かしらの新しい発見がある。何も考えずにただぼーっと水面に反射する団地の灯りを眺めるのも良い。あの小さな陰は水鳥だろうか。そんなことを考えていると、眠れない事への不安などいつの間にか大したことではないと思えてくるのだ。
そろそろいい具合に疲労も溜まってきた。今から帰るとちょうどよく眠気が来るだろう。小さくあくびを噛み殺しつつ来た道を戻ろうと踵を返した時、私の耳が聞き慣れぬ異音を捉えた。
ぱしゃ、ぱしゃ、ざぱん。ぱしゃ、ぱしゃ、ざぱん。
まるで誰かがバタフライの練習でもしているかのような規則正しく、意図のある水音。
川なのだから水音が聞こえるのは当たり前なのだが、川という場所で聞こえるはずの水音というのは、海の波とは違いフラットで起伏のない継続的な音だ。
軽く鳥肌が立っている私をよそに異音は変わらず続く。音のする場所をじっと眺めてみるも、土手に生えている少し背の高い木々に阻まれ全く見えない。そうしていると、少し先で立ち並ぶ木々に僅かながら途切れている場所があることを発見し、そこからなら何とか見えるかもしれないと、音のする方から目を離さないようにしながら歩みを進める。
ぱしゃ、ぱしゃ、ざぱん。ぱしゃ、ぱしゃ、ざぱん。
暗さと距離で視認性は良くなかったが、木々の隙間から何とか異音の主をこの目で捉えることができた。
一言で言い表すなら、河童だった。別に頭の上の皿とか、甲羅や緑色の皮膚があるわけではないが、『限りなく人に近い何か』が川に居る、という点では河童という印象を抱いた私の感性は強ち的外れでもないと思う。
側に建っているマンションの蛍光灯に照らされた青白い肌がぬらりと光り、全体的にヒョロ長い体型を荒ぶらせながらそいつは熱心に両手を水面に叩きつけていた。
ぱしゃ、ぱしゃ、ざぱん。ぱしゃ、ぱしゃ、ざぱん。
異常だと思った。仮にアイツが私の知らない新種の生き物だとして、合理的な理由があって水面に両手を叩きつける習性があるのだとしても見ていて耐え難い嫌悪感を感じてしまう。
それほどまでにその行為には悪意というか、何か邪悪な意思を感じずにはいられなかった。
体躯に比べてアンバランスに小さな頭を左右に振り続けながら前方に出した腕を振り回す姿は、上手く言い表せないが、まるで笑みを湛えているような、その行為に愉悦を感じているような、そんな印象を受けさえした。
私はかつて子供の頃、虫やトカゲの足や尻尾を引きちぎって遊んでいたが、子供の頃の未熟な精神性から来る残酷さ、容赦のなさ。アイツにはそれに近いものがあると思えた。
つまり何が言いたいかというと、あれは関わっていい存在ではないということ。我々人間の尺度に当てはまる生き物ではないと直感で分かる。こちらがどんな意図で身振り手振りあらゆる手段を講じても意思の疎通など叶わず、それどころかこちらの意を介することもなく等しくその悪意を向けるのだろう。なにも私は、アイツの不気味な見た目や動きにこのような批判をしているわけではない。気付いてしまったのだ。
ぱしゃ、ぱしゃ、ざぱん。ぱしゃ、ぱしゃ、ざぱん。
ぱしゃ、ぱしゃ、ざぱん。ぱしゃ、ぱしゃ、ざぱん。
あれは決して闇雲に両手を振り回しているわけではない。
ぱしゃ、ぱしゃ、ざぱん。ぱしゃ、ぱしゃ、ざぱん。
『両手に持った鳥を』水面に叩きつけているのだ。何度も何度も。
私がその音に気づく前から、気付いた後も。今も。
何度も何度も、一心不乱に、途切れることなく。
私は完全に恐怖していた。早急にこの場を離れなければ。しかしふと、最悪な想定をしてしまった。得てして最悪な想定は実際に起こるものだ。こういった虫の知らせのようなものは本能的な防衛反応から来る危機察知能力によるものだと私は解釈しているが、この場合は察知したとてどうしようもないのではないだろうか。
いつの間にか動きを止めたアイツがこちらに気付いたのだ。粘土に指を突っ込んで開けた雑な穴のような目で私をぢっと見つめている。鼻は起伏がなく、細長い鼻孔が閉じたり開いたりしているのが見て取れる。何よりも気味が悪いのはカッターで真っ直ぐ切り込みを入れたような無機質な口だ。ここからでは歯が生えているのかはっきりとは確認できないが、それは寧ろ幸いだと思った。きっと恐ろしい見た目に違いないから。
一刻も早くこの場を離れなければ。本能が警鐘を鳴らすまでもなく緊急事態なのは明らかだ。しかしいざという時、案外体は思うように動かない。振り回す手を止めたアイツは、緩慢な動きでゆっくりと川から上がってこちらに向かってくる。
動きは俊敏ではないらしい、これなら逃げられる。そう思った私は、決して目を離さないようにしつつ慎重に後ずさった。いつしかテレビで見た危険な野生動物と相対した際の逃げ方だ。
果たしてアイツに通用するのか分からないが、それ以上に今は無防備に背中を晒すのが怖かった。
劣化したアスファルトをジリジリと踏み締め、後もう少し距離を離したら振り返って走り出そう。
………………今だ。
私はくるりと向きを変え、慣れない動きにふらつきながら足に力を込めた。瞬間、頭に衝撃が走った。
中に芯を詰めた枕で殴られたような、独特な感触。あまり強い力ではなかったものの、驚きのあまり思わず腰が抜けてしまった。
尻餅をついた私の足元には、元の姿とは似ても似つかぬ程に首の伸びた鴨の死骸が転がっていた。おそらくアイツが投げたのだろう。確認している場合ではない、とにかく逃げなければ。
なんとか体勢を整えた私は無我夢中で走った。こんなことなら普段から散歩と言わず走り込みでもしておくべきだったろうか。急な運動に体がついていかず、途中何度もえづきながらどうにか川沿いを抜けて、何度も後ろを確認しながら帰路に着いた。
震える手で鍵を開け、滑り込むように家に入って鍵を掛けた途端に力が抜け、玄関のドアに凭れたままずるずるとへたり込んでしまった。
一体何だというのか。逃げ仰た安堵感と未知への恐怖心でなにも考えられないが、思考だけがぐるぐると回る。
十数年ぶりに全力で走ったため全身汗でびしょ濡れになっていたが、シャワーを浴びる気力もなくベッドに倒れ込んでそのまま気絶するように眠った。
それから数ヶ月、私は仕事以外で外に出ることを渋った。それほどまでに私にとってアイツは恐ろしかった。だが、人間の感情というものは大抵薄れゆくものだ。
仕事以外の外出も少しずつ増え、散歩も再びするようになった。アイツに出会った一件からは川沿いを歩くことは無くなったものの、当時の恐怖心などすっかり抜けてしまった。
何ならあの一件は、無意識のうちに私が見せた夢か幻なんじゃないかとさえ思えてくる。
一度そう思えば、ますます恐怖心など薄れ、また川沿いの散歩に興じてもよいと考え始めた。
そんなある夜。私にしては珍しく仕事の疲れだけで眠れそうだと風呂を明日の自分に任せて床に着いた。しかし、私は眠りにつくことができなかった。
不眠ではない。
ずざ、ずざ、ごぱん。ずざ、ずざ、ごぱん。
聞き覚えのある、異音。
水音でこそないが、規則正しく何かを叩きつける音。
ずざ、ずざ、ごぱん。ずざ、ずざ、ごぱん。
異音が、玄関の前で、聞こえる。確認するまでもなく、分かってしまう。
アイツの姿と、その動きが。
ずざ、ずざ、ごぱん。ずざ、ずざ、ごぱん。
眠気どころではない、私は直感した。これは警告であると。
私はアイツの存在を認識してはならない。川辺で経験したあの恐怖は、生涯記憶から掘り起こさず墓場まで持っていかなければいけない。
アイツは必ず狙っている。私が恐怖に屈するその瞬間を。だから、絶対にこの恐れを漏らすわけにはいかない。
私は固く目を瞑り、音が止むのをただ待った。どれくらい経ったか分からないが、いつの間にか異音は止んでいた。
これは戦いなのだ。アイツとの、そして私自身との。
その後、この事は誰にも話さず、思い出すこともないように年月を過ごしてきた。
そして私は、大きな過ちを犯していることを思い知らされた。
アイツが家に居たのだ。ベランダの窓から、あの雑な穴のような目でぢっとこちらを覗いているのだ。パニックを通り越し、現実逃避のつもりなのかアイツの後ろでたなびく洗濯物をぼんやりと眺めていた。
我に返った私は、家を飛び出し近くのネットカフェに駆け込んだ。未だ家には帰れていない。
私の考えは半分間違っており、半分当たっていた。
アイツの行動は、警告なんかではなかった。だからと言って目的は皆目見当もつかない。やはり、直感した通り人間の尺度で計り知れるような存在では無かったのだ。
私は何て愚かな思考をしてしまったのだろうか。
恐怖を抑え込んでいる内は安全だなんて、都合のいい解釈でしかなかった。全てはアイツの気まぐれでしかない。こちらが勝手に意味付けしているだけで、向こうにはなにも意図なんて無いかもしれないのに。
私の努力には何の意味もなかったのだ。身の安全の保証もない。
ならせめて、記録を残すべきだろう。私のいつ消えるか分からない存在と、得体の知れない化け物の、記録を。
アイツに狙われる条件が一体何なのか分からないため、この文章を読んだあなたが安全なのかは不明だが、いつ消されるのか、そもそも消されてしまうのかすら分からない私にとっては正直どうだっていいことだ。
とりあえずこれから私はどうなってしまうのか予想すらできないが、考えうる限り抗ってみようと思う。
無責任で申し訳ない。
そして最後マディおもぃl「;_尾rゔぇjfp
交代 雨人 咲(ウビト サキ) @satohkibi
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