朝食にはいつものパニーノを
路地裏乃猫
第1話
プレスから漂うチャパタとチーズの焦げる臭い。それが一定の香ばしさを纏うと、俺はようやくプレスを開く。縞模様の焦げ目がついたカリカリのパニーノ。今日もいい焼き加減だ。
この焼き加減は今は亡き祖母ちゃんの直伝で、これ以上焼きすぎても、生焼けでもいけない。
焼き上がった二本のパニーノはそれぞれ別の皿に乗せ、出来あいのズッキーニの塩漬けを添えてテーブルに並べる。そこにコーヒーを添えれば、俺たちのいつもの朝食は完成する。
やがて、タイミングを計ったように寝室からディーノが現れる。パジャマの裾からにゅっと伸びる細い足首。そろそろ大人物の服を買い与えても良いかもしれない。
大人物、か。
あの豆粒みたいだったガキが。
その元豆粒は、俺と目を合わせるでもなくバスルームに向かう。俺も構わずテーブルに着くと、さっそく焼き立てのパニーノに齧りつく。
テレビでは、地元の新米署長が麻薬撲滅がどうのと気炎を吐いている。こりゃ余計な仕事がひとつ増えそうだなとうんざりした矢先、テーブルのスマホが着信を告げる。
非通知。もっとも、その発信元に心当たりは一つしかない。
『仕事だ、ニコロ。今日の十二時に車をやる』
電話は一方的に切れる。俺の都合なんざお構いなしに。
「仕事?」
背後からの声に、俺は咄嗟にテレビを消す。
見ると、着替えと身支度を済ませたディーノがリビングの入り口に立っている。長い手足に、同性の俺から見ても整った顔。亜麻色の髪と青い瞳。学校じゃ同年代の女の子にさぞかしモテているんだろう。
「ああ。昼にボスの車が来る」
「訓練は? 今日こそは撃たせてくれるって約束だったろ。いい加減、準備の練習ばかりでうんざりなんだけど」
「悪いが延期だ。――ディーノ、ひとつ教えておく。俺たちの仕事に必要なのは、銃で標的を撃ち抜く腕でも、ナイフで相手の頸動脈を切り裂く技術でもない。必要なのは、何を置いても入念な準備だ。その意味では、お前に教えるべきことは全て教えてある」
俺はひとくちコーヒーを啜ると、ふたたびパニーノに齧りつく。何であれ料理は熱いうちに食い終えるべきだ。
もっとも、祖母ちゃん直伝のパニーノは冷めても美味いが。
「それと、天候や風向きの変化、ターゲットの急な予定変更、そういった数多の不確定要素にいちいちイラつくことなく機運を待つことも、狙撃には必要なスキルだ。今回はいい勉強になったな」
ディーノは悔しそうに唇を噛むと、でかい図体を投げ出すように俺の向かいにどかりと座る。そのままパニーノを手に取り、やけくそのようにバリバリと齧るディーノのツラは年相応のクソガキのそれだ。
そんなディーノの態度に苦笑しかけて、俺はやめる。
俺はこいつの父親じゃない。まして、こいつの生意気な反応に微笑ましさを覚えるなど許されてもいない。
俺は、こいつの両親を殺した。
こいつにとって俺は、親を奪った憎き仇にすぎない。
うちのファミリーは、じつに悪趣味な後継者の育成方法を採っている。
殺したターゲットの遺児を、その殺した当人が育てる、というものだ。
遺児にしてみれば、家族を奪った当人に育てられるかたちになる。かつて俺もそうやって育てられたクチで、当たり前だが心穏やかじゃいられない。当然、復讐を考える。
ファミリーは、その復讐心こそを利用する。
復讐に燃える遺児は、家族を殺した暗殺者の殺戮を願う。そんな遺児に、組織はあらゆる暗殺術、破壊工作の方法を教え込む。時には育ての親――仇本人にも伝授を強いる。各種銃器の扱いはもちろん、体術に尾行術、毒薬や爆薬の知識に至るまで……だが、育てる側としちゃたまったもんじゃない。相手は、いつか自分に復讐しようと企む被害者の遺児なのだ。
そんな遺児と、暗殺者は一つ屋根の下で暮らさなきゃならない。
当然、暗殺者は身を守ろうとする。すると遺児も、ターゲットのガードをどうやってかいくぐろうかと知恵を絞る。そうした日々の中、暗殺の腕もおのずと磨かれてゆくのだ。
やがて遺児たちは念願を果たす。ガキの時点でターゲットに殺されでもしない限り(ありえない話じゃない。が、その場合、ターゲットにはファミリーから残酷な制裁が下されることになっている)、復讐は果たされることがほとんどだ。ターゲットは日に日に老いてゆく。逆に、遺児の方は時間が味方になる。最盛期はむしろこれからなのだから。
同時にそれは、組織の論理に身を委ねることも意味した。
外の社会では、殺人はもちろん重罪だ。たとえ復讐のために成されたものであれ、近代の法論理はそれを許さない。
ファミリーは若き復讐者に囁く。
「ここで俺達に与するなら罪状は伏せておこう。抜けるのであれば、お前の罪は外の世界の判断に任せよう」
若き復讐者にとって、これは事実上の脅迫だ。
殺人罪に問われれば、長ければ一生、豚箱で暮らすことになる。自ら復讐を仕向けておいて何を勝手な。だが、それが俺達の住む世界の作法だ。
復讐者のほとんどは組織に入り、新たな暗殺者として仕事をこなす。そうして充分に実績を重ねた頃、ボスから新たな命令が下る。ターゲットを殺し、その息子を連れ帰れ、と。
今から十年ほど前。
俺たちの地元に、やけに鼻息の荒い男が警察署長として乗り込んできた。男は、麻薬と犯罪とに染まりきったこの町の浄化を目論んでいた。ボスにしてみれば、せいぜいよく吠える子犬程度の存在だったろう。が、子犬であってもしつこく纏わりつかれれば鬱陶しいものだ。
ボスは俺に掃除を命じた。
そして、ついでとばかりに言った。お前もそろそろ、弟子を取る頃合いじゃないか? と。
案の定、ボスの命令は「あのイキったルーキーを殺せ」だった。
面倒な仕事だ。警察内部には協力者も多く、ボスの意向でどうとでもなる部分は多い。が、雑な仕事に銃弾で報いる程度の面子は連中にだってある。
「そういえば、昔、カヴァロッティを殺ったのもルッチさんでしたよね」
運転席の若造が、助手席の俺を振り返りながら嬉しそうに問う。運転中は前を見るべきだが、仮にこいつがボスの車で電柱に突っ込んだとして、こいつひとりがドーベルマンの餌になれば済む話だ。
凪の海を渡るヨットよりも滑らかに走るこの車はトヨタ製の高級車で、老犬じみたボロ車ばかりガタピシ走るこの町では滑稽なぐらい目立つ。ただでさえ貧乏な南イタリアの中でもとりわけ貧しいこの町は、海が青く澄んでいる以外は何の取り柄もなく、町は失業者と、諦めを含んだやけっぱちの陽気さとで満ち満ちている。
「古い話だよ」
「いやいや。若い奴らの間でも未だに語り継がれていますよ。ニコロ=ルッチの署長殺し。獲物といえばナイフ一本。厳重な警備をものともせずに屋敷に押し入り、家族もろとも皆殺し。何かの映画でも言ってましたけど、やっぱ銃よりナイフの方が扱いは難しいもんですかね」
「……状況による」
例えば口の減らない若造を、車を傷つけずに黙らせようと思うならナイフ一択だ。後で車内をクリーニングする必要はあるが、少なくとも、窓に穴を開けずに済む。
相変わらず若造は、ヒーローアニメを見るガキの目で俺を見つめている。
ボスに重要な仕事を任される。それは、若い連中にしてみれば栄誉以外の何でもない。産業らしい産業が存在しないこの町では、ファミリーに与することが成功への唯一の道筋だ。
中でも、ボスの懐刀として信頼されるのはごくひと握りであり、その意味で、俺たちは確かにヒーローなんだろう。
「あーあ、俺も暗殺者になりたかったなぁ」
「目の前でマンマの喉を切り裂かれてもか?」
「えっ?」
「いや、忘れろ」
言い捨て、俺は車窓に目を戻す。
きっとこの若造は、それでも俺はやれると口先だけで意気込むのだろう。知らないからだ。目の前で肉親を奪われる痛みを。無力な自分を思い知らされる絶望を。
何にせよ、仕事となれば全力で当たるのが俺の流儀だ。
協力者を通じてターゲットの予定を完璧に把握。狙いやすいタイミングやロケーションを確認し、襲撃から逃走に至る動線を頭の中でいくつも組み立てる。
これは俺の持論だが、暗殺ほどクリエイティビティを問われる仕事もない。
取るべき手段。選ぶべき日時と場所。それらはターゲットの人間性や状況次第でがらりと変わる。女を使うこともあれば毒を用いることもある。ともあれ、発想は自由でなくてはならない。
こうして俺は、万全を期した上で仕事に臨んだ。いつものように。
狙撃地点として選び抜いたビルの屋上。スコープ越しに覗くターゲットの頭がレティクルの中央に来るのを待つ。風が吹く。照準を微調整。息を吸い、止める。
愛銃の引鉄にかけた指にそっと力をこめる。ここで力んでは全てが台無しだ。俺はいつものように、呼吸するように、パニーノの焼き具合を見るように引鉄を引く。
瞬間。
スコープの中から不意に消える標的。銃弾はターゲットの頭上を掠め、奴が乗ろうとしていた車の窓に突き刺さる。蜘蛛の巣を貼りつけたような
愚かにも俺は、その時点でようやく失敗に気づく。原因? 何だろうな。少なくとも俺の仕事は完璧だった。銃弾は、奴が屈む前に頭のあった場所を正確に撃ち抜いていた。
見ると、ターゲットの足元に小さな子供がしがみついている。子供を抱き上げようとして屈んだのか。
運がなかった、とは思わない。
成功か失敗か。俺達の仕事に結果はその二つしかない。ツキすらも実力のうちなのだ。そして俺は、とうとうツキに見放されてしまったらしい。
すでにビル下には、狙撃地点を割り出したらしい警備の連中が集まりはじめている。俺は手早く荷物をまとめると、隣の屋根に飛び降り、あらかじめ洗い出した逃走経路のひとつを走り出す。
追手を撒き、ようやくアパートに戻った頃にはすでに空が白みはじめていた。
銃弾を食らった肩が燃えるように熱い。逃走時、間抜けにも追手にマークされた俺は、さらに不覚なことに、肩に鉛玉を受けてしまった。
その小さな金属片が、俺の中でじくじくと肉を蝕んでいる。早いところ懇意の闇医者に取り除いてほしいところだが、町には自分たちのボスを襲撃され、珍しくやる気になった警官どもがうようよしている。
そんな中を、夜の闇に紛れてさえ人目を避けて逃れるのに苦労したのだ。まして明るくなれば、もうどこにも動きようがない。
じゃあまっすぐ医者のもとに向かえば良かったじゃないか。
そんな自問が、痛みで朦朧とした頭に浮かぶ。ああそうだ。本当ならアパートなんかに戻らず、まっすぐ医者の元に駆け込めばよかったんだ。
なのに俺は戻ってきた。
身寄りのない中年男とガキが住まう、申し訳程度の家具が置かれるだけの粗末なボロアパートに。
さらに笑えたのは、そんな俺が呑気にもキッチンでパニーノを作り始めたことだ。いつものようにチャパタを二つに裂き、中にバジルオイルを塗りたくる。そこへチーズとハムを乗せ、プレスに挟んでじっくり焼く。
ったく、何だってこんな時に。
が、現に俺はキッチンに立ち、焼き加減を確かめるためにプレスから漂う香りを念入りに嗅いでいる。……くそっ、痛みのせいで今にも意識が飛びそうだってのに。でも、それでも俺は作らなきゃならない。いつものパニーノを焼かなきゃいけない。もうすぐディーノが起きてくる。不機嫌そうに俺を睨みながら、それでも。
いや、だからこそ。
俺は焼く。あいつのためにいつものパニーノを。せめてもの日常。俺が、あいつから奪ったその代替品。
そんなもので、でも、それでも――
「ニコロ!」
どこか、遠くで声がする。
「おい! 目を覚ませよニコロッッ!」
いや、声は意外と近い。この声は――
目を覚ますとそこは俺の寝室で、そのベッドに、なぜか俺は寝かされていた。
つんと鼻を突く薬品臭。なぜこんな臭いがと疑問に思った矢先、ドアから見知った顔が姿を見せる。俺が懇意にする闇医者のガルディーニ爺さんだ。
見ると、俺の肩は清潔な包帯と脱脂綿とに覆われている。爺さんが施術してくれたのか? だとしても、誰が爺さんをここに……
「ディーノ君が私を呼んだんだ」
まるで俺の疑問を見透かしたように爺さんは答える。が、俺としては余計に納得いかない。あいつは俺を恨んでいるはずだ。少なくとも俺があいつなら、これ幸いにと見殺しにしていた。
「……ディーノは」
「今は学校だよ。そうそう、伝言を二つ預かっている」
「二つ?」
すると爺さんは、何が楽しいのかにやりと笑う。
「一つは、今朝のパニーノは焦げて不味かった。もう一つは、俺が殺すまで勝手に死ぬな、だそうだ」
こうして俺は、生まれて初めてボスの仕事に失敗する。
ところがボスは、そんな俺に間髪入れず新たな命令を下す。もう一度、あの生意気な署長を狙え、と。
その真意に、しかし俺はすぐに思い至る。
要するにボスは、俺に死ね、と言っているのだ。
俺の組織は新陳代謝を重視している。若手を重宝し、中でも優秀な奴には重役を与えてたっぷりと甘い汁を吸わせる。それは、地元の若い奴らに見せる夢にもなる。いわゆるアメリカンドリーム。もっとも、ここはアメリカじゃなくて麻薬に蝕まれたイタリアの貧乏な田舎町なんだが。
一方、衰えを見せ始めた老兵への処遇はどこまでも冷酷だ。
とりわけ実働部隊についてはそうだ。何せ体力がものを言う仕事だ。現役時代に根回しを頑張るでもしなければ、老兵に居場所が与えられることはない。まして、組織に入った頃から一貫して一匹狼を気取ってきた俺に老後の椅子なんてものは存在しないのだ。
そうした老兵は、大概が鉄砲玉として雑に処理される。ほぼ実現不可能な仕事をわざと任せ、勝手に死ぬよう仕向けられる。今の俺のように。組織としてはそれで結構なのだ。たとえ威嚇でも打ち込む弾丸が多ければ相手は怯む。正義に燃える新米署長に浴びせる冷や水ぐらいにはなる。
俺は、そういう冷や水として雑に死ぬ。
夕方。ディーノは学校から帰ってくると真っ先に俺の寝室にやってきた。
ようやく殺しに来たか。確かに、両親の仇を取るならこの好機を逃す手はない。
ところがディーノは、ベッド脇の椅子に腰を下ろすと、何かを言いたげな顔のままじっと俺を睨みつける。何をやってるディーノ。今だ。さっさと殺れ――そう目で訴えるも、ディーノは黙って俺を睨むばかりでナイフのひとつも取り出すそぶりがない。
……仕方ない。
「次の仕事で俺は死ぬ」
ほんの一瞬、ディーノの青い瞳が揺れるのを俺は見た。その揺らぎが何を意味するのかはわからなかったが。
「ボスから、今度こそ署長を殺れと言われた。だが、前回の一件でターゲットは警備を強化している。一方、俺は見ての通りの手負いだ。万全を期してなお果たせなかったことを、今の俺にこなせるわけがない。ダイナマイトを腰に巻いて署に突っ込むでもしなけりゃな。だから……殺したきゃ、早めにやれ」
そうだ、殺してくれ。
これまでのぼんやりとした願いではない。ただひとつの願いとして、俺は強く、そう思った。
今ならまだ間に合う。たとえ俺を殺しても、連中は若手の通過儀礼と見做し、隠蔽を手伝いさえするだろう。そもそも連中は、俺の二度目の襲撃が成功するなんて思っちゃいない。使い古しの玩具をゴミ箱に投げ込むつもりでこの仕事を命じているのだ。優秀な若手に捧げられる供物として果てたなら、連中としてはむしろ本望だろう。
だから、なぁ、殺してくれよディーノ。
九歳でファミリーに拉致されて以来、俺は、ひたすらに殺し続けた。そうする以外に俺の生きる道はなかった。だが、今思えばあれは逃げていたんだ。罪を犯さずに済む生き方も本当はあったはずだ。
なのに俺は、現状に抗うこともせず、与えられた仕事を唯々諾々とこなし続けた。お前の両親を残酷に殺し、お前の人生を狂わせた。
審判の時が来たのだ。
どうせ裁かれるなら、俺はお前に裁かれたい。
「えっ」
瞬間。俺はディーノが見せた反応に啞然となった。
「……ディーノ?」
そのディーノは俺の声にはっと我に返ると、なぜか怒ったように椅子を蹴り部屋を出て行く。バン! と乱暴に閉じられるドア。その閉ざされた戸口を呆然と見つめながら、俺は、たったいま目にしたものを信じられない気持ちで思い出していた。
泣いていた。
これまで、どんなに辛い訓練でも泣き言ひとつ言わなかったディーノが。
それから一週間後。思わぬ電話が飛び込んできた。
「ボスが殺られた! 撃たれたんだ! いま殺った奴を探してる。多分ジローモの連中だとは思うが……」
ジローモとは、ファミリーと対立する隣町の連中だ。が、俺は、この話に強烈な違和感を覚えていた。連中はいま絶賛内紛中で、他所との戦争にかまける余裕はない。何より――
「まさか」
だが、いくら頭では否定しても、長年俺の命を救ってきた俺の勘は、嫌でもひとりの名前を俺に突き付けてやまなかった。
やがて、その当人がアパートに帰ってきた。
「……ディーノ」
そのディーノは一見、さも友人と遊んできましたという顔をしていた。が、俺の嗅覚は――パニーノの焼き加減を正確に嗅ぎ当てる俺の嗅覚は、奴から漂う濃密な硝煙の臭いをはっきりと嗅ぎ取っていた。
「やっぱり、お前が」
「ここを出よう、ニコロ」
「なに?」
「奴らも馬鹿じゃない。今はジローモの連中を疑っているようだが、すぐに犯人の正体に気付く。ここを……いや、この町を出よう」
「な……何言ってやがる! 大体、どうしてボスを!? お前の仇は俺だったはず――」
反論はしかし、窓ガラスの弾ける声によって阻まれた。反射的に壁に身を寄せ、窓への露出を避ける。その窓枠からそっと外を伺うと、すでにアパートの前には何台もの高級車が横付けされていた。おなじみのトヨタ製の高級車。
そんな物々しい光景を、反対側の窓枠から見下ろしながら涼しげにディーノは言う。
「心配ない。逃走経路ならすでに確保してある」
「なんだって?」
さすがに面食らう。するとディーノは、なぜか心外そうな顔を俺に向けた。
「仕事の時は、逃走経路も含めて確保しろと教えたのはあんただろう」
ファミリーの連中が包囲するアパートを命からがら脱出した俺達は、ディーノが事前に手配した漁船に乗り込み、海路で隣町に移った。
そこは例のジローモファミリーの縄張りで、うちの連中は手が出しにくい。その町で俺たちは当面の逃走資金を銀行から下ろすと、これも事前にディーノが目をつけておいた中古のキッチンカーをディーラーから買い取り、とりあえず北へと進路を取った。
「そろそろ話してくれ。どうしてボスを殺った」
ディーノは運転免許を持たない。当然、ハンドルを握るのは俺になる。夜のハイウェイは眠気を誘う。眠気覚ましに効果的なのは同乗者との会話だが、にしては重すぎる話題を我ながら選んだものだ。
奇妙な沈黙。ややあってディーノは、慎重に言葉を選ぶように答えた。
「あんたは、ただの道具だ。だったら、それを使った当人を殺さなきゃ復讐にならない」
その突き放した物言いに、俺は静かに傷つく。
お前にとって、俺はその程度の存在だったのか? 復讐する価値もない、ただの道具だったと?
「だが……実際にお前の両親を殺したのは俺だ。どうせ町を出るなら、俺を殺して行くべきだったんじゃないか? その方が、気持ちも晴れて――」
「本当にわからず屋だな、あんたは!」
唐突な怒声に、またしても俺は面食らう。その声が含む声色にも。声は、苛立ちだけでなく縋るような――わかってくれと懇願するような、奇妙で、でも温かな色を帯びていた。実の息子が父親に向けるような。
ふたたびの長い沈黙。やがて、苛立たしげなディーノの溜息がそれを破る。
「最初は……本当に殺すつもりだった」
そう呻くディーノの声は、押し殺した嗚咽のようにも聞こえた。
「けど……だんだんわからなくなった。確かに俺は、あんたを恨んでいた。いや、恨んでいたはずなのに、あんたとの暮らしは、案外、悪くなかったんだ。毎日同じテーブルを囲んで、同じ味のパニーノを食って……そりゃ、貧乏で嫌になる時もあったさ。パパとママがいた頃は文字通り贅沢三昧だったからな。けど……けどあんたは、いつだって、俺と一緒にテーブルを囲んでくれた。俺のためにパニーノを焼いてくれた。怪我して帰ったあの日だって……」
そしてディーノは、悔しそうに唇を噛む。俺を許したくない心と、俺との日々を楽しく思う心とが彼の中でせめぎ合い、彼を苛んでいるのがわかる。
バカな野郎だ。たかだか男やもめの粗末な飯ごときで。
なのに。
「また焼いてやるさ。あんなもので良ければ、いくらでも」
ああ焼いてやる。こいつが飽きるまでいくらでも。
朝が来たら、またパニーノを焼こう。この車でどこまで走れるか、そもそもどこに向かうべきか、それすらもよくわからない。それでも新しい朝が来れば俺は二人分のパニーノを焼き、こいつと二人でかぶりつくのだ。そういう朝を、これからも重ねてゆくのだ。
ディーノの恨みが晴れることはないだろう。それでもいい。恨みを抱えたまま、傷を負ったまま、それでも俺たちは一緒にパニーノを食い続ける。
そうして重ねる日々に意味はあるのか。
あるかもしれない。ないかもしれない。が、無意味だからといって、そんな日々を諦める理由にはならないだろう。それを言えば、そもそも人が生まれ死ぬことにも、何の意味もありゃしない。
だから今は、行き場のない夜をひた走る。
明日また、二人で美味いパニーノを食うために。ただそれだけのために。
朝食にはいつものパニーノを 路地裏乃猫 @rojiuranoneko
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