誓い

増田朋美

誓い

富士山が真っ白になるほど、寒い季節がやってきた。これで長く厳しい冬が本格的に始まることになる。寒いだけではなく、冬はいろんな生活に変化をもたらす。

その日、製鉄所に、以前この施設を利用していた藤森菜摘さんという女性が尋ねてきた。彼女は、いつも髪を長くして、決して額を見せないように努力していた。それでも、彼女の額には、大きな傷跡があった。その日は、一人で来訪したわけではなかった。なぜか、日本人とも西洋人とも似つかない顔をした、白い肌に、金の髪をした男性を連れていた。

「初めまして。というか、お久しぶりですね。杉ちゃん、水穂さん。あたしがここを出ていったのは、もう何年前になるのかな?」

と、藤森菜摘さんは、にこやかに笑っていった。その顔がにこやかではないように見てしまうのは、額の傷だけではないと思う。

「はあ、お久しぶりだ。まあ、寒いから早く上がれ。それで一緒に連れてきたこの男は誰なんだ?」

杉ちゃんに言われて、藤森さんは、待ってましたとばかり笑顔で答えた。

「私の、婚約者の、」

「初めまして、僕の名前は、藤森新太郎です。」

菜摘さんがそう言いかけると、その男性は、ちょっと訛りがある日本語で答えた。

「そういうことです。上がらせていただきますね。ここは段差がないから、すぐに上がれます。」

菜摘さんと、新太郎と名乗った男性は、二人揃って製鉄所へ入った。杉ちゃんと、水穂さんはとりあえず二人を食堂へ案内した。

「それで、お前さんたちは、今さっき、婚約しているといったけど、結婚するつもりなんだね。」

杉ちゃんがそう言うと、水穂さんは二人の前にお茶と羊羹を渡した。菜摘さんと、新太郎さんという男性は、美味しそうに羊羹を食べた。

「これが羊羹って言うものですか?へえ、初めて食べましたが、うまいですね。」

「ええ、そうなんです。追分羊羹。でも、無理して言わなくてもいいですよ。」

水穂さんがそう言うと、

「いやあ、そんなことありません。羊羹食べたの生まれて初めてですけど、こんなに美味しいとは知りませんでした。ありがとう。」

と、新太郎さんは、頭を下げる。

「それで、今日は、どんな用事でここへ来た?お前さん、その格好から見ると、日本人じゃないな。どこの国から来た?お前さんの本名は?なんで新太郎と名乗ってる?」

杉ちゃんがそう言うと、

「その前に、ここがなんで製鉄所というのか、説明してよ。彼も知りたがってたわよ。」

と菜摘さんが言った。

「ああ、それはねえ、創始者の青柳教授が、心を鉄みたいに鍛えるっていうことで、製鉄所とつけたんだ。それだけのことで特に意味はない。それで、お前さんはどこから来たのか、教えろよ。」

杉ちゃんが言うと、

「そうなんですか、福祉の施設って言うから、もっとかわいい名前をつけるのかと思ってたら、意外にそうでもないですね。僕はノルウェーから来ました。」

と、新太郎さんは答えるのであった。

「はあ、それでは随分寒いところだなあ。こんな寒さなんて屁の河童だろう?それで、お前さんの本名はなんていうんだろ?」

杉ちゃんがそう言うと、

「はい。家族はみんなコカって言ってましたから、それが名前ですよ。どう書くのかは、正直わかりません。だって、日本のように漢字を書く文化はありませんからね。でも、新太郎のほうがお気にいりです。そう呼んでください。」

と、コカさんこと新太郎さんは答えた。

「あたしたちが、結婚するに当たって、ちゃんと漢字名を名乗ることが、家の両親が出した条件だったんです。それで新しい名前ということで新太郎と名乗ることにしました。」

と、菜摘さんが説明した。

「漢字を書く文化がないというと、おかしいですね。ノルウェー語でも、文字は使いますよね?」

水穂さんが不思議そうに言うと、

「そうかも知れませんが、僕らは、それがありませんでした。」

と、新太郎さんは答えた。

「文字を持っていなかったのですか?」

水穂さんがそうきくと、

「はい。ありませんでした。だから、そういうの聞いたことなかったんです。」

新太郎さんは恥ずかしそうに言った。

「わかりました。そうですね。確かに、彼女が、結婚したいと言い出すくらいですから、そういう国家的な事情を持っている人でないと許さないかもしれませんね。」

水穂さんは考え込むように言った。

「そんなに不思議ですか、水穂さん。私が結婚するなんて。」

菜摘さんがそう言うと、

「はい。正直、不思議ですよ。だって、あれほど男は嫌だと言っていた人物が、こうして好きな人を連れてくるわけですから。」

水穂さんは、そうだねと杉ちゃんにも目配せした。

「そうだねえ。確かに、ひとを信じることは嫌だとか、誰でも額の傷のせいで、私のことをお岩さんと言って、信用してくれないとか、そんなこと、叫んだよな?」

杉ちゃんも、そういった。

「お話はわかりました。確かに、ノルウェーのラップランドには、そういう差別されてきた民族もいます。そういう人でなければ、菜摘さんの傷を癒やすことはできないでしょう。菜摘さんは、ここを利用していたときも、なかなか僕達のことを信用してくれなくて、僕らは本当に大変なところでした。それでも、こうして好きなひとを連れてきたんですから、確実に変わろうとしていますね。そういうことなら、菜摘さんをよろしくお願いします。」

水穂さんは、そう言って、新太郎さんに頭を下げた。

「もう、水穂さんも過去に拘りすぎよ。そんなこと私が思ってると思う?もう、ひとを信用しないとか、そういう気持ちはどこかへ逃げたわ。あたしは、新しい気持ちでやってくから。」

菜摘さんはとてもうれしそうに言った。

「そうだけどねえ。人間はそんなに強くないよ。それで、お前さんたちの馴れ初めってのは何なの?ちょっと聞いてみたいなあ。」

と、杉ちゃんが言うと、

「ええ。あたしは、ここを出てから、富士山日本語学校というところで掃除のアルバイトをしていたんですが、そこに彼が生徒として来ていてそれで知り合いました。そこから、正式にお付き合いをするようになって、この人なら、結婚しても良いなって思うようになりました。」

と、菜摘さんは説明した。

「そうですか。そういえば富士駅近くにありますね。そういうことだったんですか。世の中思いがけない出会いもあるものですね。」

水穂さんは、そうにこやかに笑って、少し咳き込んだ。

「大丈夫ですか?水穂さん。」

菜摘さんがそう言うと、水穂さんは小さく頷いた。

「あたし、薬持ってきましょうか?」

菜摘さんが言うと、水穂さんはお願いしますといった。杉ちゃんの方は、水を持ってくるわと言って、台所へ行ってしまった。事実上、食堂に居るのは、新太郎さんと、水穂さん二人になった。

「あの、すみません。ちょっとお尋ねしたいことがあるんですけど。」

水穂さんは、咳き込みながら新太郎さんに言った。

数分後、杉ちゃんと、菜摘さんが部屋に戻ってくると、水穂さんは、咳き込みながらなにか話していた。

「もういい加減、話すのはそこまでにしろ。じっとしてろ。」

と、杉ちゃんに言われて、二人は、じゃあと話すのをやめてくれたのであるが、一体何を話していたのだろうか?

「それでね杉ちゃん、本題はここからなのよ。結婚式のときは、彼にはコルトを来てもらってあたしは、日本人らしく着物を着たいの。だけど、経済的に裕福じゃないから、安い値段で着物を買えるところを教えてもらいたいのよ。」

菜摘さんは、水穂さんに水を渡して、そういうのであった。コルトってなんだと杉ちゃんが言うと、水を飲んだ水穂さんが、ノルウェーの民族衣装だと答えた。

「ああなるほどね。そういうことだったら、カールさんの所行ってさ、安い値段で振袖が買えるから、とびきりいい奴を探してもらえ。」

と、杉ちゃんというひとはすぐ答えるのである。

「大体、3000円くらいあれば、良いのが買えるよ。頑張りや。これからは、金がない以上の、幸せってもんが得られるかもしれないから。式はちゃんとやったほうが良いと思う。そのほうが、結婚したって意識も強くなるし。」

「そうですか。ありがとうございます。こっちへ来て、日本の民族衣装がそんなふうに軽くあしらわれていることには随分びっくりしましたけど、それも、日本の良いところだと思うようにします。」

新太郎さんは、そう考えながら言った。

「まあ、店もここから遠くないし。帰りによってみると良いよ。それに振袖は将来袖を切って、使うこともできるので。」

「そうですか。日本の礼装はそうやっていつまでも使えるのがすごいですね。」

新太郎さんは感心したように言った。

「じゃあ、お二人とも、新しい出発だね。おめでとうさんです。幸せになるんだぞ。」

杉ちゃんに言われて、菜摘さんと、新太郎さんは、にこやかに笑ってハイと言った。

それから、数日後のことであった。再び菜摘さんたちが製鉄所へやってきた。二人だけでは婚礼衣装も決まらないので、手伝ってもらえないかということであった。杉ちゃんたちは、4人で介護タクシーを取り寄せて、カールさんの店へ向かった。とりあえず、カールさんの店に行って、着物や、帯などを取り揃え、一応、一通り着物を着るための必要なものを揃え、杉ちゃんたちは、製鉄所へ戻った。食堂で、杉ちゃんたちがお菓子を食べながら式に必要なものを確認したりしていると、水穂さんが咳き込んで椅子から落ちてしまった。

「あ、また当たる食品でも入ってたな。これまでに当たった食品は、100個ある。」

杉ちゃんがそう言う通り、水穂さんはアレルギーがあって、何で当たったかよくわからないほど、当たる食品は数多くのものがあった。

「なんで、あたしちゃんと当たらないようにしたのに!」

と、菜摘さんはいうが、

「でもねえ、いろんな成分があるから、それで当たるのかもしれないぞ。」

と、杉ちゃんは言った。そして菜摘さんに、薬を取ってくるようにといったが、菜摘さんは、いや、いやと叫びながら、泣き始めてしまった。代わりに新太郎さんが、薬はどこにあるのかと聞いたくらいである。杉ちゃんが、水穂さんの部屋の枕元というと、新太郎さんはすぐにそれを取りに行ってくれて、水穂さんに薬を飲ませることに成功したのだった。

「そうですか。食べ物を食べて具合が悪くなることを、日本語で当たるというのですか。」

新太郎さんがそう言うと、

「まあそういうことだ。覚えておいてくれ。」

と、杉ちゃんが言った。

「何を言ってるの!このケーキ買おうとしたのあなたでしょ。もし、大変なことがあったらどうするの?ちゃんと考えてよ!」

菜摘さんは、新太郎さんに詰め寄った。

「いやあ僕は、食べ物を食べて具合が悪くなったということはなかなか見たことはありませんでしたので、、、。」

新太郎さんは、そう言っている。

「まあ確かにそうかも知れないね。こうなっちまうことは、覚えておいてくれ。」

杉ちゃんはそう言っているが、菜摘さんは、水穂さんのことを心配しすぎたらしく、きつい声でこういうのだった。

「なんで、そういう細かいことを気にしないで適当にやってしまうのよ!そういうところが困るのよね。」

「まあしょうがないじゃないの。そんなアレルギーを起こすなんて、コカさんの国では見かけなかったんだよ!」

杉ちゃんがそう言うが、菜摘さんは、更に続けるのであった。

「この間もそうだったじゃない。あたしが、買い物に行ったときも、これかこれだなで済んでしまうし、食べ物だって、適当でいいとかそういうことばっかり言って、何も、私の言うことは、聞かないで買ってしまうし!」

「まあそういう国民性だったんだ。日本の礼儀作法も少しづつ慣れてくるさ。」

杉ちゃんは、そういうのであるが、菜摘さんの思いは芋づる式に出てきてしまうようである。

「本当に細かいこと聞かないで、砂糖と塩も間違えて、こないだは、料理だって大変だったのよ!」

「すみません、違いがわからなかったから、、、。」

新太郎さんはそういうのであった。

「それに菜摘さんがそんな思いをしているなんて全く気が付きませんでした。なんで口に出して言ってくれないんですか?」

「そうそう。口に出して言わなくちゃ、西洋人は何にもならないよ。」

杉ちゃんはそう解説したが、

「でも、人であれば、こんな表情しているから悲しいのかなとか、そういうものはわかりそうなものよ。それもわからないなんて!あたしは、どうしてこんなひとと、選んじゃったんだろう。」

と、菜摘さんは泣くばかりであった。

「だから泣かないでよ。大丈夫だよ。そのうち、日本のことも少しずつ分かってくれるから大丈夫だって。」

杉ちゃんがそう言うが、菜摘さんは、本当に細かいことを気にしなさすぎると言って、泣き続けるのであった。薬を飲んで、咳き込むのもおさまった水穂さんが、

「大丈夫です。菜摘さんを決して見捨てないって、このひとは誓いを立ててくれたんです。」

と、細い声で言った。

「彼はちゃんと僕の前で言ってくれました。あなたは菜摘さんを最後まで見捨てない自信はあるのですかと、僕が聞いてみた所、やりますって、彼はちゃんと答えたんです。だから、それをあなたがもういらないって言うのは惨すぎます。」

「本当?」

菜摘さんは、思わず、新太郎さんに言った。

「そうですよ。彼はちゃんと言ってくれました。なぜ菜摘さんを選んだのかも聞いてみましたが、菜摘さんをただ額に傷があるから可哀想だという気持ちではなくて、菜摘さんといっしょにいれば、自分が幸せになれると感じてくれたからだそうです。それは、聞いたことありませんか?」

「ありません。」

菜摘さんは、水穂さんに向かってそういった。

「日本人はどうしても黙っているのが美意識のように見えるけど、直接口に出して言ったほうが、言いなっていう状況になるときだってあるよな。全く、変な民族性だねえ。」

杉ちゃんはカラカラと笑っているが、菜摘さんは驚いている様子だった。

「ええ、だから、菜摘さんも、ひとを疑うのはやめましょう。本当に彼は菜摘さんのことを、思ってくれて、藤森新太郎と名乗ることにしたんだと思います。だから、彼の気持ちに答えてやってください。」

水穂さんは、そう静かに菜摘さんに言った。

「ご、ごめんなさい私。」

菜摘さんはそう言って、床に頭をぶつけようとしたが、新太郎さんが

「それやっちゃだめだ!」

と彼女を止めた。新太郎さんと菜摘さんは改めて顔を見合わせあった。菜摘さんの方はまだ精神障害特有の疑いを持ってしまうような目で彼を見ていたが、新太郎さんを眺めている菜摘さんの目は、だんだんに優しくなった。

「本当にごめんなさい。」

菜摘さんは、新太郎さんに向けて謝罪する。

「まあ、日本語も不思議なものでさあ。いろんな語彙がある言語であることは間違いないんだが、そういう感情を表す言葉ってのは、意外に少ないのよ。不思議だねえ。」

杉ちゃんがカラカラと笑った。こういうことが言えるのは杉ちゃんだけかもしれない。

「あたし、何をやってるんだろ。こんなひどいことして、こんなひどいこと言う人間にはバツが必要よね。だから。」

菜摘さんは再び立ち上がったが、新太郎さんがそれを止めた。振り払って台所へ行こうとする菜摘さんを、新太郎さんは必死で抑えた。水穂さんもそれに加担した。最も、水穂さんのちからでは、それができるかというとほとんど役に立ってないのであるが、

「罪もバツもいらないよ。そうなってしまうことは、菜摘さんには仕方ないことだから。」

と、新太郎さんは少し不明瞭な発音で言った。

「僕らも、理由もわからないけど、こっちへ来るなとか、急に持っていた土地を政府にとられたりとか、そういう、ひどいことされてきたから。」

新太郎さんがそう言うと、菜摘さんは本当?という顔で彼を見た。

「そうだよ。だって、少数民族はそうなるのが当たり前なんだよ。」

新太郎さんはそういう。

「理由がわからなくても、そのとおりにしなければいけないことだってあるんだ。だから、菜摘さんが悲しい気持ちなのも、少しわかるよ。」

「そうですか。そういうのはやはり、体験した人でなければわかりませんよね。日本ではどうしても単一民族の国家と思われがちで、みんな一緒の用に見えて、最近一人ひとり違うという考えに目覚めつつありますが、そういうところは、西洋に比べると劣るでしょう。」

水穂さんは、そう菜摘さんに言った。杉ちゃんの方は、水穂さんにいい加減に寝たらと言うのであるが、水穂さんはそこを動かなかった。

「あたし、本当に何をしたんでしょうか。皆さんにこれだけ迷惑かけて、それなのに、自分を罰することもできないなんて。」

菜摘さんはそう言っているが、

「いやあ、良いんじゃないですか。どうしてもできないことって、誰でもあると思いますから。」

新太郎さんは、そう菜摘さんに言った。

「そのために、ひとは一人では生きていけないと言うのかもしれませんしね。」

「あたし、、、。」

菜摘さんは、更に涙をこぼしたが、

「今はなきたいだけ泣いていいです。だけど、菜摘さんのことをこんなに心配してくれるひとのために、なにか泣くことから学んでください。そして、二度と繰り返さないように、誓を立ててください。」

と、水穂さんは、菜摘さんに静かに言うのであった。菜摘さんは、小さな声で一言、

「そうですね。」

と、言っただけであった。

「やれやれ、一件落着か。」

と、杉ちゃんがでかい声で言った。

「でも、違う国家の人が来てくれると、いろんな解釈ができるから面白いよな。それは、僕も思わなかったよ。ありがとうね。」

杉ちゃんがそう言うと、

「いえ大丈夫です。こういうことは、誰でもあります。」

まるで当たり前の事のように、コカさんこと、藤森新太郎さんは、そういうのであった。それができるのであれば、菜摘さんは良いお婿さんをもらったなと、杉ちゃんたちは、ほっとしたのであった。外は、寒くて風が吹いている季節だった。日本でも、長く厳しい冬が、本格的に始まったのである。

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誓い 増田朋美 @masubuchi4996

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