凡人作家おじさんと天才美少女作家のストレンジラブ
さわだ
凡人作家おじさんと天才美少女作家のストレンジラブ
少し丸みを帯びたスーツ姿の男がアパートの扉の前に立っていた。
髪は短く清潔感はあるが、整髪料などは過度に付けて無く、ごく一般的なサラリーマンといった容姿だ。
都内のオフィスビルが似合う格好だが、男が訪れたのは今にも取り壊されそうな古いアパートだった。
築三十年以上の二階建ての古いアパートには防犯という概念がなく、オートロックの自動ドアも無くほぼ地面と同じ高さで敷地から部屋の扉にアクセスできた。
木製の薄い扉に近づくと部屋の向こうから掃除機を動かす音が聞こえた。
扉の横にある、古い呼び鈴を押さずに男は扉を右手に拳を作ってノックした。
「先生いらっしゃいますか?」
「お待ちください」
男の怠そうな声とは対照的な張りのある女の子の声が聞こえた。
怠そうだった男はハッとして背筋を伸ばし、歪んだネクタイに手を掛けてもう一度締め直す。
扉がゆっくりと開かれると、大きな黒いリボンを頭に巻いて、黒いドレスシャツとフリルが幾重にも波打つティアードスカートを着た女の子が立っていた。
「あら山内さん」
扉を開けて目線が合うと、山内と呼ばれた男は顔を硬直させた後で破顔一笑する。
「ご無沙汰しております」
黒い服と対照的な白い肌のコントラスト、ボリュームの多い長い黒髪には所々青いカラーが入っている。
地味な黒一色だが、アイドルのステージ衣装のような格好に見えて、似つかわしくないボロアパートの玄関に立つ姿に山内は驚いて声を上げるよりも放心して、ただ声を掛けられた少女の瞳に見とれていた。
「先週もお会いしました」
「そうでしたっけ?」
女の子が微笑むと、山内は釣られて頭の後ろに手を回して笑った。
「どうぞお上がりください」
狭い玄関、その場でくるりと回ると女の子は部屋の奥へと山内を誘う。
「先生ありがとうございます、それではお邪魔します」
「先生は奥ですよ」
女の子はクスッと笑う。
「いや、まあ、そうなんですが」
山内は恐縮し、なんども黒い服を着た女の子に頭を下げる。
「あのこれお土産なんですが」
「まあ、先週も頂いてしまったのに」
胸元に手を当てた後、女の子は小さく会釈してから手を伸ばし、山内が差し出した紙袋を受け取る。
「お口に合えば宜しいのですが」
「この前のゼリーも凄く美味しかったです」
他所から見るとアイドルの握手会のような構図、山内は照れながら黒い服の女の子に何度も頭を下げる。
「おい山内、今日もなにしに来たんだ?」
不機嫌そうな声で山内が声を掛けられる。
「なにって打ち合わせに決まってるじゃないですか、伝えてあったでしょ?」
奥の部屋、と言っても1DKの部屋なのでガラス戸で遮られた奥には畳の部屋があった。
部屋の真ん中に置かれた丸い小さなちゃぶ台、その前にはワイシャツを着た中年の男が座っていた。
黒髪に少し交じる白髪、愛想笑いなどは装備されてないのかずっと不機嫌そうな表情で山内を睨み付ける。
白いワイシャツの下はスラックスを履いて近くに出掛けるような格好、迎えてくれた女の子と比べると正反対のなにも主張が無い、実用的な服装だった。
「その打ち合わせがなんで毎回俺の部屋なんだよ」
座布団を敷いた上に胡座を組んで座る部屋の主の木明湊(きめいみなと)が、腕を組んで不満そうに鼻を鳴らす。
「だって先生がこの部屋から出ないじゃないですか?」
「だからって毎週平日に来るなよ」
「仕事ですよ仕事」
山内の語気には休日は働きたくないという気持ちがこもっていた。
「山内さん、こちらどうぞ」
女の子が座布団を木明の対面になるように薄い座布団を置くと小さな手で優しく叩いた。
「どうぞお座りになってください」
「あっすみません」
恐縮しながら山内は頭を下げて差し出された座布団の上に座る。
「すぐお茶をお出ししますね」
山内に微笑んだあと、女の子は会釈して台所の方に消えた。
「先生、なんでこんな部屋にいるんでしょうね?」
台所の方に向かったドレスを着たの女の子を見取れながら山内が呟く。
「俺にもわからん」
「そうですよね。出版業のエンタメ部門という夢を売る商売の会社に勤めてるんですけど、現実にこんな漫画やラノベみたいなことあるんですね」
山内を見ながら木明は溜息を付いた。
「お前も歳を取ったな」
「えっまあ身体は丸くなりつつありますけど、これでもジムに行ったりしてますよ」
スーツのジャケットの襟を持ち上げながら山内は木明にウエストを見せつける。
「お前、ジムなんか通ってるのか?」
山内は身体が締まっていた二十代の頃から随分と丸くなっているので、何も健康には気を使ってないと思っていたので木明は素直に驚いた。
「まあ昔みたいに外の打ち合わせも減ったし、リモートワークもあるから身体動かさない時は動かさないので、太ってみっともない姿になりたくないですから」
「じゃあお前も肉体労働者になってみれば?」
「あー編集者よりその方が向いてたかも知れませんね」
山内は笑いながら持って来た鞄から資料を取り出して、ちゃぶ台の上に置いた。
「お待たせ致しました」
ちゃぶ台の横に両手持ちのティートレイでティーポットとカップが運ばれてきた。
綺麗に磨かれた陶磁器は茶渋ひとつも付いてなく、よく手入れされていた。
女の子がスカートを畳み座り込む姿は殺風景で狭い部屋に咲く大きな黒い花に見えた。
先に山内がお土産に買ってきたお菓子を小皿に載せて机の上に出す。
「どうぞ山内さん」
女の子の手で丁寧に注がれた紅茶からは暖かな湯気が立ち上り、山内は直立不動で目の前に置かれたティーカップを見る。
「ありがとうございます、いただきます」
「どうぞ先生」
女の子が勧めると木明は何も言わずに頭だけ下げる。
「いやーいつ飲んでも淹れていただく紅茶美味しいです」
山内は女の子が淹れた紅茶にひとくち口をつけただけで褒め始めた。
「山内さんはいつも褒めてくださりますね、ありがとうございます」
女の子は胸元に手を当てて会釈する。
「いや、僕は事実を言ってるだけで」
「お前に紅茶の善し悪し分かるのかよ?」
まだ紅茶に口をつけてもいない木明が山内に悪態をつく。
「わかんないですけど、なんか雰囲気に飲まれるというか・・・・・・」
自分の舌には自信が無いと山内はハッキリと言った。
「雰囲気?」
女の子は不思議そうな子をする。
「あっいや、先生の前でなんかすみません」
慌てて山内はもう一口紅茶を飲むと、少し慌てながら机の上に出した封筒を持ち上げた。
「とにかく今日はこちらの校正をお渡ししたくて来ました」
茶色の出版社の名前が書かれた封筒には紙の束が入っていた。
「こちらに先生の「クロすぎた私が世界を滅ぼしても」三巻の校正と表紙の色校などになっております」
差し出された封筒を女の子が受け取る。
「もう三巻出るんですね」
「はい、早いですが凄い人気ですので連続刊行で一気にアニメ化まで持って行きたいと編集部も頑張ってます!」
山内は握りこぶしを作って一段と大きな声を出した。
「アニメ化は凄いな」
木明がボソッと呟く。
「凄いのですか?」
女の子は隣に座る木明の顔を見る。
「凄いよ」
木明は小さい目をできるだけ大きくして女の子を見た。
「私はあまりアニメは見ないので、先生も見ないですよね?」
木明の部屋には大きな液晶ディスプレイがひとつも無かった。
「まあでも昔は良く観てたけど、最近の流行りとかはわからんが・・・・・・」
「まあ、木明さんはアニメ化とか漫画化とかメディアミックスなんてひとつも案件無かったからですもんね」
「悪かったな」
山内の悪気の無い物言いに木明は我慢するように腕を強く組み直す。
「でもアサコ先生を紹介してくれたおかげでウチは大変助かってますから問題ないですよ」
「私は木明先生のファンなだけですから」
「ほんと不思議ですよね。十年で一冊しか出せなかった売れない作家にこんな天才美少女作家がファンになるんだから」
さらっと美少女作家と言ったなあと木明は思ったが、隣の黒い服を着た女の子はどこからどう見ても見た目麗しい美少女だった。山内みたいにデレデレするのもどうかと思うが、そう思わせるぐらい若いのに落ち着いた雰囲気と黒いドレスシャツ、大きなリボンを頭に着けても何か違和感を感じさせない。それこそアニメか漫画に出てくるようなキャラクター造形が目の前にいる。
「先生、どうなさいました?」
「えっああ、すまん」
マジマジと見てしまった事を木明は頭を下げた。
「先生は今回の私の作品お読みになっていただけました?」
「ああ読んだよ。アサコ先生の作品は今回もおもしろかったよ」
まあと女の子は長い手指を口元で手を合わせて、照れて頬を赤く染めながら喜んだ。
「先生から褒めていただけるのが一番嬉しいですね」
澄ました顔が照れながら笑うとやっぱり年相応の未成年らしい屈託の無い笑顔を見せてくる。
親子ほどの歳が離れた木明には眩しすぎる輝きに、木明は後ろに倒れそうになった。
「私の作品は全て先生に読んでもらいたいために書いたものなので」
女の子は少しだけ身体をくねらせる。
「いやあアサ先生の作品を生み出したことが木明先生の最大最高の功績ですよね」
「五月蠅いよ山内」
木明は後ろにバタンと倒れる。
「先生!?」
「もう場所は提供してやったからあとは打ち合わせでもなんでもしてくれ、もう少し夜勤前に寝る」
「毛布お出ししますね」
女の子は立ち上がって、押し入れから毛布を取り出す。
「お布団敷かなくて良いのですか?」
「本気で寝るとやばいから、部屋出る前に起こしてくれれば」
「はい、わかりました」
「すいませんね木明さん、夜勤明けなのに」
良いからと木明は畳の上に寝そべりながら手を振った。
なにやら山内が喋り始めたが、木明にはそれが何を言ってるのかなにもわからずに眠りに落ちた。
木明が与野アサコ(よのあさこ)と出会ったのは夜勤明けの日だった。
ドアの呼び鈴が一回だけ鳴ったのが木明には聞こえた。
普段だったら何回鳴っても、眠いときはそのまま寝て居留守を使ってしまうが、たった一回鳴っただけで扉を開けようと思ったのは今考えるとどういう気持ちだったのか木明はよく憶えてない。
だが扉を開けると、目の前には宗教の勧誘でもNHKの集金でもなかった。
「木明湊先生ですか?」
扉の前には黒い服の女の子が立っていた。
黒いドレスシャツに膝丈のスカートにストッキング、頭にはウサギの耳のような黒い大きなリボン。
長く艶やかな黒い髪には青い色が入っていた。スラッとして背が高く、手足は棒の様に細く人形の様に見え、木明は思わず見取れてしまった。
対する木明は寝ぼけたままTシャツにスウェットパンツ姿の男が扉から出たので、対比する絵面は酷いなあと思った。
木明は目の前に現れた美少女に釘付けになったが対する女の子も方も口元に手をやり、声を抑えるように手を重ねる。
やがて睫毛の長い大きな瞳には涙が溜まる。
「あの・・・・・・」
声を出さないで泣きそうな女の子に思わず木明は声を上げた。
「やっと会えました」
「はぁ」
瞳を涙で潤わせ、細い指を重ねて口元を隠す。
「私先生のご作品「灰の神域(はいのしんいき)」のファンなのです」
思わず木明は開けた扉を閉めてしまった。
「マジか?」
今目の前で起こった事が木明には理解出来なかった。
自分がこの世にたった一冊だけ出版された小説「灰の神域」のファンだという女の子。
出版したのは十年前で全く売れなかった。
だから今は作家業は止めて夜勤の物流倉庫で働いている。
もう、自分がファンタジー小説なんてものを書いてたことすら忘れたことはもちろんないのだが、思い出したくない記憶として毎日頭の片隅に残っている。
それでも日常生活を重ねて、作家業への哀愁みたいなものを徐々に払拭できていると十年たってやっと感じるようになってきた。
それがなぜ今になってファンが自宅に押し寄せてくるのか?
詐欺だとしてもあまりにも意味がないと、木明は自分が資産も未来もない夢が破れた作家では無く、凡人として生きていく人間だと分かっていた。
「お前はこの生きる意味の無い世界で死ぬことを諦めなにをするの?」
薄いボロアパートの扉の向こうから凛とした声が聞こえた。
木明はゆっくりと扉を開けた。
扉の向こうにはまだ黒い服の女の子が立っていた。
「黒い風?」
「はい、黒い風です」
そう言うと木明は目眩を覚えて、そのまま玄関に倒れた。
「先生大丈夫ですか?」
「もうだめだ、幻覚しか見えない」
介抱されながら木明は冷たい小さな手の感触を感じながら、玄関に倒れ込んだ。
黒いドレスシャツに大きな黒いリボン、黒髪に青いインナーカラー、肌は白く手足が長く人形の様なプロポーション。
倒れた男に寄り添って、白い手を添える。
「黒い風」は十年前、木明が仕事の片手間に必死に書いたファンタジー小説「灰の神域」に出てくる登場人物だった。
神々に作られた荒廃した世界で主人公は意味もなく与えられる門を開けろ、塔を登れなどクエストを神から伝えられ、挑戦するたびに死に、また「灰の神域」と呼ばれる水堀に囲まれた街に連れ戻される。
死ぬことを許されず、苦痛の中で死から何度も蘇る「亡客」として世界に産み落とされ、巨大でダンジョンのような街の中で、終わる事の無い敵との戦いに挫けそうになる主人公に寄り添い一緒に旅をする謎の女の子だった。
口数は少なく、影のある女の子だが主人公がピンチになると、どこからともなく現れて助言を与えてくれる存在で、作品唯一の主人公に味方する女の子だった。
「お目覚めになりましたか?」
目が覚めると木明は畳部屋で横になっていた。
座り込んだアサコが長い髪をすくい上げながら木明の顔を覗き込む。
「本当に君は俺の小説を読んだ?」
アサコは持って来た黒い肩掛けの鞄から分厚い文庫本を一冊取り出す。
見た目にもボロボロになるまで読み込まれて、たくさんページの間に貼られた付箋が飛び出していた。
「はい、私の人生の唯一無二のバイブルです!」
嬉しそうにアサコは両手で持ちながら本を顔の高さまで持ち上げる。
何かの詐欺にしては本当によく出来ていて、木明は呆れてしまいアサコに問い詰めることも出来なかった。
自分の部屋に自分の本を人生のバイブルですという女の子は、自分の人生の半分くらいしか生きていないような気がする。
「君は高校生?」
いきなり女性に歳を聞くのも失礼かと思ったが、好きな作家の家に押し掛ける女の子に失礼も無いのかとおもった。
「はい、今年から高校生です通信制の」
アサコは少しだけ下を向いた。
「中学校殆ど学校に行ってないんです。引きこもりで家で本ばかり読んでいて・・・・・・」
顔に影を作りながらアサコは言葉を続ける。
「でも先生のご本にハマって「灰の神域」のファンになって「黒い風」の姿を真似てみたらなんだか家の外にも出られるようになったんです!」
「どうして?」
「私も「黒い風」みたいに主人公に・・・・・・先生に会いたいという気持ちがなんだか私の身体を動かすんです」
アサコに真っ直ぐと見つめられて、木明は耐えられず顔を逸らした。
「高校生か、若いね」
木明は自分の人生半分も行ってない、親子ほど離れた歳の女の子が自分の部屋で膝を折って座っている事がまだ夢の中にいるような気分だった。しかも一定量の好意まで待たれている。四十近い年齢になるが、こんな経験は初めてだった。
「先生、今日は突然お邪魔してすみません」
アサコは深々と頭を下げる。
「ファンに自宅突撃されるなんて本当にあるのか・・・・・・どうして家の場所わかったの?」
「古い同人誌の奥付に書いてありました」
アサコは鞄の中からホチキスで止められた白いコピー誌を取り出した。
「それ、コミティアで五部しか売れなかったコピー本だよね・・・・・・」
「はい、駿河屋で検索したらありました」
昔イベント会場で友達と作った同人誌の奥付に昔の同人誌みたいに連絡先に自宅の住所を書いた。
誰も気にしないと思ったが、まさか訪ねて来る人物がいるなんて想像はしたが、本当に来られると困るもんだなあと木明は大昔の気取った自分を呪った。
「名前は?」
「私の名前ですか?」
女子は自分の事を指差す。
「そう」
「アサコです」
「名字は?」
「与野(よの)です、与野アサコ」
偽名では無さそうな名前、学生証か保険証を見せろとかそういう事をしたいワケじゃ無かった木明は、そのまま信じる事にした。
「アサコさんはなぜわざわざ僕に会いに来たの?」
「はい、先生に色々と「灰の神域」について聞いてみたいことがたくさんありまして!」
もう一度付箋だらけの本を持ち上げて、アサコは大事そうに両手で持ちながら表紙を木明に見せた。
「先生がSNSもアカウント削除されていたので直接お会いして聞くしかないと思いまして」
作品を発表した直後、あまりにも誰にも相手にされないのでキレながら消したSNSアカウントの事を木明は思い出した。
「そんなもん聞いてどうするの?」
畳の上に寝転がりながら、木明は怠そうに身体を動かす。
「私、生まれて初めて小説を読んでいて物語の世界に引き込まれたんです!」
木明が書いた「灰の神域」で出てくる「黒い風」と呼ばれる女の子は無口でいつも表情を曇らせて、主人公に纏わり付いて、なぜ何度死んでも、無駄な戦いに挑むのか?と問い続ける役目を持っていた。だから、あんまりハキハキと喋る女の子ではないのだが、アサコは元気で明るい貼りのある声で話し掛けてくるから多分彼女の地の部分が出てるのだろうと木明は思った。
だからなおのことダークファンタジー小説なんかに、殆どの人が存在を知らない売れなかった自分の書いた小説にそんなにハマるのか木明は理解に苦しんだ。
「だから初めてなんです、もっと知りたいって思って」
アサコは腰を上げて手を付きながらゆっくりと木明に近づいていく。
木明はチラッと覗いて、近づいて来るアサコを見て慌てて上半身を起こして、胡座を組んで座り直す。
「その小説がおもしろかったの?」
木明はアサコが床に置いた自分の書いた本を指差す。
「ハイ!」
アサコの曇りの無い笑顔を見て木明は眉間に皺を寄せる。
「大好きです」
「あーありがとうございます?」
木明は感謝の言葉にも疑問符を付けた。
「そっそんな、こっちらこそです先生!」
手を振りながらアサコはお顔を上げてくださいと木明に声を掛けた。
十年前全く売れず後が続かなかった小説、当時感想なんて殆ど無かった。
面白くないと批判でもあったら良かったのだが、そういった批評も無く、あっという間に書店の棚から消えた。
「あのさあ、俺の小説本当にどこがおもしろかったの?」
アサコは本を床に置いて手で口元を隠した。
目元には涙を溜めているようにも見え、今にも嗚咽が始まりそうなほどに木明を哀しげに見つめる。
「・・・・・・そんなことを私に申しつけるのですね先生?」
様子が変わって木明は思わず仰け反りながらアサコを訝しそうに見た。
「私に先生の小説の面白さを説明・・・・・・」
顔に当てた手を解いて両手を畳に置き、頭を下げて土下座するかのごとく畳に頭を近づける。
まるでシュートを外して肩を落とすサッカー選手のようにアサコは真下を向いて腕を前に出す。
畳に置かれた手で拳を作ると、そのままアサコは振り上げて再び畳を叩いた。
「先生!」
顔が上がると、アサコは大きな目を一際大きくさせて、眼光を木明に向けた。
「なに!?」
「それでは不肖ですがアサコ、全力で先生の小説の良さを説明させていただきます!」
置いた「灰の神域」の文庫本を拾い上げ、アサコは表紙を指差す。
「まずはこのタイトル「灰の神域」というところがこの世界をたった四文字で表してしまっています」
「編集にはもっと今風の分かりやすいタイトル付けられないんですかってずっと嫌味言われていたけどな」
「絶対このタイトルが良いんです!」
顔に押し付けんばかりに文庫本を木明に押し付ける。
「だってこのタイトルが「何も知らない俺が何度死んでも生き返って、また殺されるブラック勇者させられてる件」とかだったらなにも想像できずにおもしろくないじゃないですか!」
木明は一瞬ちょっとアサコのタイトル案の方が分かりやすくおもしろいと思ってしまった。
「「灰の神域」しか考えられません。それにですね・・・・・・」
そこからアサコは一気に表紙に描かれている主人公と黒い風のキャラクター造形などを褒め始めた。
木明は当時表紙描くイラストレーターから直接的な描写が少なくてキャラクターを起こして描きづらいと注文を受けていた事を思い出した。初めて人にイラストを描いて貰うので、恐縮して何も指示を出さずにいたら「それではなにも描けない。自分の意見が無いのか?」と怒られた事も思い出した。
表紙だけでもアサコの小説を褒める言葉は止まらなかった。
木明はただ聞くだけで、その都度「そこまで考えてなかった」と言う言葉を呑み込んだ。
「あのさあアサコさん」
「はい、この「黒い風」のキャラクター造形が本当に素敵だとおもいます」
「いや、あの、盛り上がってるところ申し訳ないんだけど俺これから夜勤に行かなくちゃ行けないんだけど・・・・・・」
アサコが盛り上がって話しているウチに部屋は夕闇に包まれ始めていた。
「夜勤?」
「俺は夜働いてるでこれから出勤するんだけど」
木明は勤務を開始する夜勤で湾岸地帯の物流拠点で働いていた。
「そうなんですね。それでお部屋を出てから朝まで帰って来ないんですね」
アサコは腕を組んで唸る。
「えっ?」
「あーなんでも無いのです」
アサコは手を振って木明の質問を遮った。
「まだまだ先生の小説の面白さをお伝えしたかったのに・・・・・・」
哀しそうに頭を下げるアサコを見て、つい木明は情が湧いてしまう。
「まあ、また来てくれれば聞くよ」
「はい、また来ます」
目を輝かせて、遠慮もなくアサコは説明に使った本を鞄に詰め帰り仕度を迅速に行った。
「あっ次にお伺いする時は連絡とかしてから来た方が良いですか?」
「いやあ、別に俺は行くところも無いしこのアパートにいるから来たいときに来てもらえれば良いよ」
いきなり押し掛けて来た相手に携帯電話の番号を交換するのも木明は怖かったのでやんわりと断った。
「わかりました、それじゃあ今日は帰りますね」
アサコは立ち上がって、鞄を肩に掛け直した。
「先生、今日は本当にありがとうございました」
アサコは深々と頭を下げる。
「いや俺の方こそ、そんな昔に書いた小説をおもしろいと言ってくれて嬉しかったというか、申し訳ないというか・・・・・・」
木明も頭に手をやりながら、申し訳なさそうに頭を下げた。
「先生はやっぱり優しい方なのですね」
「そうかな?」
「本当に「灰の神域」の作者は先生なのですね。当たりまえなのかも知れないですが想像通りでした」
笑った笑顔に木明は顔が潰されそうな眩しさを憶えた。本来歳取ったおじさんがこんな笑顔を女の子から受け取るのには金銭的な授受が発生するのではと木明は思った。
無邪気で純粋な、生まれて初めて見る新しい景色が見えたときに見せる笑顔。
「それではまた来ますね」
「ああ、いつでもどうぞ」
木明は別に来ても来なくてもどちらでも良いと思った。それよりも中途半端に起きてしまったので今日の夜勤大丈夫かどうかの方が心配だった。
アサコは鞄を持って一礼した後、扉を閉めるときもドアの隙間から手を振って帰って行った。
テレビの音も無い、冷蔵庫の音もしない無音の部屋で木明は呆然としてしまう。
今起こったことは自分の妄想ではな無いのか?
書いた本に感動したファンが、自分の想像したキャラクターの格好で会いに来てくれる。
夜勤前の眠りが浅いときに見た夢にしては随分とハッキリした夢だと思った。都合の良い夢を見たような気恥ずかしい、自分の願望を見透かされた気持ちがあった。
発表した当時にアサコが来てくれたらもっと浮かれてたのだろうか?
そんな事を扉の前で考え込んでいると、もう一度チャイムが鳴った。
扉を開けると本を持ったアサコが立っていた。
「先生、すみませんあのサインを貰うのを忘れてしまって宜しければ」
「サイン?」
「はい」
「本に?」
「お願いします」
アサコから両手で差し出された本とサインペンを受け取って表紙を捲る。
「ここに名前書けば良いの?」
「お願いします」
崩したサインなんて書いたことも無かったので木明は玄関に立ってたからか、宅配便の受け取りサインのように横書きで名前を書いた。
「これで良い?」
「ありがとうございます!」
アサコは木明の目が潰れそうなほどの笑顔を見せたあと、また深々と頭を下げ、本を胸に抱きしめながら踵を返して帰っていった。
今のサインは莫大な借金を抱える事になることになったやつなんじゃないか?
浮かれるよりもやっぱり怖い気がした。
その次の日もアサコは夜勤明けの平日に来た。
次の日も、また次の日も来た。
本当に毎日来るのかと思ったが、一冊しか木明は書いて無いので質問もすぐに終わるだろうと思った。
だが、たった一冊分を研究するのでは無く、アサコはそこから木明が考えていた世界、「灰の神域」の世界観だったり、続編の構想なども根掘り葉掘り聞いてきた。
木明はもう小説を書く気力は無かったので、押し入れに押し込んでいた当時集めていた資料や読んだ本をアサコに渡した。
そこからアサコは木明の家に来る度にパソコンを持って来て、自分のファンタジー小説の執筆活動を始めた。
ある程度出来たところで、読んでみるととてもおもしろかったので、木明は慌てて数年以上連絡を取ってなかった出版社の山内に連絡を取ってすぐに紹介した。
新人賞にねじ込まれたアサコの作品はすぐに大賞を取って出版され、評判となり重版を重ねた。
現役女子高生の本格ファンタジー小説として評価される作品は、同年代にも口煩い年配にも受けて幅広い読者層を獲得した。
「先生起きないと時間ですよ」
「ああ、ありがとう」
アサコと山内が自分の部屋で打ち合わせしてる最中に木明は思わず寝てしまった。
山内の姿は既になく、窓の外は暗くなっていた。
「じゃあ仕事行くか・・・・・・」
「なにかお食べになりますか?」
最近はアサコが食事まで用意してくれる。
「うーん、まあもう出るよ」
「まだ時間ありますよ?」
木明が部屋の壁掛け時計を見ると、いつもの出勤時間よりもまだ一時間程あった。
「いや、もう出るよ」
「でも、ご飯食べないと・・・・・・」
「いいんだ」
木明は不機嫌そうな声を上げた。
キョトンとしたアサコを見て木明はすぐに謝ろうと思ったのだが、なにに怒ったのか自分でもまだ理解出来なかった。
寝起きでまだ寝たくて不機嫌だという以外の、アサコの顔を見て自分が腹を立てた理由が段々明確になってきた。
「すまん、もう出るよ」
服もボロボロのまま、たいして身嗜みも整えずに部屋を出る準備をする。
中年の他人に気を使わなくなったおじさんの特権だと言わんばかりに、ヒゲが生えたまま、ヨレヨレのシャツとズボンのまま部屋を出ようとする。
「先生」
木明が玄関で靴を履きながら振り返ると、アサコは真っ直ぐに木明の方を見ていた。
「いってらっしゃい」
「うん」
気のない返事をして、木明は部屋を出た。
駅まで歩きながら、木明は己の行為が恥ずかしくて下を向きながら歩いた。
駅までの道は大きな川の土手の横を歩くので道は真っ直ぐ伸びている。
大きな土手は洪水被害に備えたものだが、少なくとも今のアパートに住んでもう十年以上立つが川が氾濫してきた事は無い。
木明の部屋は一階なので浸水したら大変な事になるが、まだそうはなってない。
そうなってしまえば良いのにと思うときもあるが、幸いにして何も無かった。
自分は結局どうしたかったのだろうか?
成功しているアサコに嫉妬してるなら、嫉妬してるとハッキリ言って、自分も努力すれば良いはずなのだ。
そんな正論はとっくにわかっていて、だから諦めて小説なんてもう書かずに別の仕事をしている。
夜勤に向かう時には多くの帰宅だと思われる会社員や学生とすれ違う。
多くの人と違う生活の流れはどこか他人と比べられる事が少なくて好きだった。でも同じ小説を書いた者としてアサコが並んで来ると、その眩しさに自分は耐えられる気がしなかった。
あんな可愛い子が慕って自分の部屋に来てくれるだけでもありがたい話だと思わなければバチが当たるんだと思いながら、木明は土手を道路の横に続く土手を見上げる。
「俺はなにかしたいんだろうか?」
考えながらも木明は駅に向かう足を止めなかった。
その日の木明の職場での勤務は中々グダグダだった。
大きな物流倉庫で働いていているのだが、ミスばかりしてしまい現場責任者の判断で三度目の手配ミスをしたところで早退扱いになった。
電車が動き始めた始発の時間帯、殆ど人が乗ってない電車を、それでも東京の電車は人が何人か乗っていたのを見て木明は不思議な縁を感じた。
最寄りの駅に着いて帰途につくが、歩く道には人の姿は疎らだった。
いつも帰宅時間はもう少し遅い時間、通勤・通学の人々とすれ違うことが多いのだが、今日は始発の時間帯なのですれ違う人も少ない。
平日の古い川沿いの町並み事態が音も無く、静かに眠っていた。
自分が住むボロアパートまでの道、川沿いの土手の手前でふと木明は寄り道をすることに決めた。
いつもは通らない土手の頂上に登る。
幾つかの高いマンションに囲まれた大きな川が海へ、東京湾に向かって流れていた。
川の面は昇り始めた朝日を受けて輝いている。
風が少しだけ湿っぽい水の臭いを運んで来た。
土手の上で川面を見ていると木明は気持ちが落ち着いて来るのを感じた。
アパートに戻りたくない。遠回りしてるのはアサコに嫉妬した気持ちがまだ残ってるからだ。
今更上手く小説が書けなかった自分が、若く才能あるアサコに嫉妬なんかしてみっともないと思うのだが、どうにも押さえられない黒い気持ちが込み上がる。
朝焼けの新鮮な空気を吸ったところで晴れることのないこの気持ちのやり場は何処かにあるんだろうか?
そんな事を考えながら、視線は水面のに釘付けになりながら木明はゆっくりと土手の上を歩く。
「先生?」
声を掛けられて木明が前を向くと、対面にはアサコが立っていた。
いつもの頭には大きな黒いリボン、黒いドレスシャツ、黒いスカートを着て、黒い鞄を持っている。
風でアサコの髪とスカートが揺れ、アサコは白い手で髪を押さえた。
「まあ先生、どうして此方に?」
「どうしてこんなところに?」
二人とも同時に質問してしまい気まずくなった。
「まあ、なんとなく」
「私もなんとなくです」
照れて恥ずかしそうにする木明にアサコは微笑む。
「この格好で散歩してるとジロジロ見られる時もあるので、人が居ないときに散歩してたのですけど、先生に会えるなんてこれは運命的な出会い!」
やたらと会えて嬉しそうなアサコを前に、木明は先程まで嫉妬していた自分が恥ずかしくて適当な笑顔の後で下を向いた。
「ふふ、今日は朝から良いことがあって嬉しいのです」
アサコは後ろに手を回して笑う。
「君はいつもその格好してるの?」
「私が外に出るときはこの黒い服です、この格好だと外に出るのが少し怖くなくなるんです。夏は熱いので半袖にしようかなあと思いますけど」
袖を伸ばしながらアサコは服を木明に見せる。白いヨレヨレのワイシャツ姿の木明とは対照的だった。
「本当に「黒い風」が好きなんだね」
「この服とリボンを付けてると何だか身体の中に力がみなぎってきます」
アサコは手を広げたあと脇を締めてガッツポーズをする。
「君だけだよそんな事になってるの」
「はい、だから私はこうやって外に出る事ができたし、お話を書いて自分の世界を作る楽しさを得ることができるのです」
再び手を大きく広げてアサコは悦びを表現する。朝日を浴びて黒い髪が艶やかに、黒い服は濃い影を作る。
アサコに底無しのポジティブさ、冒険心を見せられて木明は嘲笑や揶揄を吹き飛ばされてただ羨ましいと思った。
「君はどうしてそうも天才なんだ?」
木明には、アサコは何もかもこの世界に起こること全てを楽しく感じ伝えることができる天才に見えた。
「私が天才?」
アサコはきょとんとした顔をした。
「天才だよ。僕のような凡人作家とは違う。ポジティブで他人と違う事を恐れない飛び抜けた表現者だ」
木明の言葉にアサコは少し考えた。
澄ました顔で木明から顔を反らすと。
手を顔に当てながら目を閉じる。
足を揃えて膝を折ってその場に座り込むと、川の水面を見ながら何やら考え込んだ。
「私は天才なんでしょうか?」
「初めて書いた小説がヒットして売れっ子作家になった人間が天才じゃなかったら、なにを天才と言うのか俺にはわからない」
木明も立ちながら土手の上でアサコと一緒に川の水面を見る。
「もしも私が天才ならば、それは先生がいるからです」
アサコは顔を上げて木明を見る。
「私はなにもないんです。無気力でなにも感じなかった。だからたくさん部屋で本を読んだんですけど、どの本を読んでもなにも感じなかった」
木明はアサコの張りの無い、つまらなそうな声を始めて聞いた。
「でも先生の「灰の神域」を読んだ時、初めて心を動かされたんです」
アサコは木明を見つめる。
曲がることを知らない光のようなアサコの視線に木明は動けなくなる。
「先生の作品が一番、読んで意味がわからなかったんです」
アサコが目を細めて冷ややかな表情を浮かべた。
「どういうこと?」
アサコは鞄の中から「灰の神域」の付箋を付けた本を取り出した。
「先生の小説って意味がよくわからないんです」
立ち上がってアサコは本を木明に押し付ける。
「全てがイメージ先行でキャラクター描写もぼんやりしていて、主人公がどうして不死なのか、どうして黒い風って女の子が助けてくれるのか? そもそも黒い風ってなんだろう? 風なのに黒いってどいうことんなんだろう? 一回読んだ時はずーっとあたまにハテナマークが浮かんでました」
アサコは一気に捲し立てる。
「「黒い風」はここまで魅力的なキャラなのに、通り名だけなんて。ちゃんと名前を与えてあげた方が読者にも伝わるのに、たとえば『黒』を活かしてフランス語の『ノワール』を使えば『クロエ=ノワール』とすれば黒を強調してとかみるとか。ね、こっちらの名前の方がわかりやすくないでしょうか?」
木明はそういう痛いと言われかギリギリのネーミングが苦手で嫌だったが、確かにアサコの考えた名前の方がイメージがつきやすいと思った。
「だから、気が付いたら何度も読み直して主人公が何度も死にながらも与えられたクエストに挑んで、その度に死んで、それでも苦しみながらも何度もダンジョンに向かって戦い、それをずっと見守る黒い風、変な話だなあって何度も読みました」
木明はアサコが多分この世界で一番、作者よりも「灰の神域」を読み込んだ人間だという事は知っていたが「意味がわかんない」まで思ってるとは知らなかったので反論もできなかった。
「でも繰り返し読んでいくと段々お話はおもしろくなって、気が付いたら黒い風の服装を真似たり、彼女のキャラクターになりきってみたりして、それでもまだわからないことだらけだったので、我慢できずに先生に会いに行きました」
「話がわかりづらくてごめんなさい」
思わず木明は頭を下げたが、アサコは首を振る。
「違うんです!だから周りが先生の天才過ぎる表現に追い付かないだけなんです。私はそれをわかりやすくしたり、反対の方向から説明してみたり、そういう先生が書いた事を必死にまとめてたら話が出来上がったんです」
「それじゃあ君が売れっ子作家なのは僕のせいなの?」
「はい先生がご自身の事を凡人と仰るなら、その極まった凡人さのおかげで相対的に私が天才に見れるのです!」
「ハッキリ言うね」
握りこぶしを作って力説したアサコは顔を赤くした後に手で顔を赤くした。
「すみません、私先生に失礼な事を・・・・・・」
顔を隠して恥ずかしがるアサコを置いて、木明は歩き始めた。
「先生から刺激を受けると私の中にある物語は止まらなくなるんです」
前を進む木明に後ろからアサコは付いていく。
「先生?」
怒らせてしまったと思ったアサコは頭を下げて木明の後に付いていく。
「いた」
下を向いたので立ち止まった木明の背中にアサコは頭をぶつけた。
「そんなに俺の「灰の神域」わかりづらかった?」
「いや、あの、他にもたくさん小説があって有名な作品と比べるとなんですが・・・・・・」
「まああんまり書き方勉強してなかったから、国語の成績も酷かったし・・・・・・」
そうか自分の小説はわかりづらかったかと素直に木明は納得してしまった。
「でも先生」
アサコは川の水面を指差す。
「「灰の神域」で最後のシーン憶えてますか?」
「まあなんとなく」
木明はつく必要のないウソをついた。もちろん、最後のシーンのことはハッキリと覚えていた。
「終章「神々と」で主人公が神々との戦いに敗れて、また生き返った朝の風景。また主人公が最初から灰の神域へと向かい戦いに再度挑むために歩き始めるところ」
木明は書いた事も忘れたかった自分の小説の内容を思い出す。
結局話は神々との最後の戦いに敗れて死んだ主人公はまた、無一文のまま灰の神域の前へと見えない力、世界を支配する強力なルールによって立たされる。見守っていた黒い風がもう戦わないでいい、諦めたらほうがいいと声を掛ける。
だが主人公は巨大な水掘りに囲まれた灰色の巨大な街へとまた向かおうとする。
「どうしてあなたは死んでも戦うの?」
黒い風の質問に「亡客」である主人公は眉間に皺を寄せる。
「起きて目が覚めて、身体が動く限りは戦うように人間の身体は出来ている」
「無駄なのに?」
「ああ無駄だけど仕方がない事だからね」
黒い風は納得がいかないのか主人公の手を引く。
「帰ろうよ」
「どこへ?」
「暖かい場所、色が溢れている場所」
黒い風は瞳に涙を溜めていた。
「そんな場所があれば良いけどこの世界にはないんだよ。ここは全てが燃え尽きて灰だけが残った世界なんだ」
主人公は面倒くさそうに身体を動かす。
「黒い風よ、君が見届けてくれ訪れるかもしれない僕の死を、その時は色の付いた花を墓前に添えて欲しい」
「この「灰の神域」に花は無いよ」
主人公はふと笑った。
「一輪だけ、灰の世界にも一輪だけ黒い花が咲いてる」
「なにそれ?」
主人公は無言でもう一度、水堀に囲まれた巨大な城へと単身向かう。
その「亡客」の後ろ姿を黒い風は無表情のまま見つめる。
そしてやがて風のようにその場から去った。
確か暗い救いの無いエンディングを書いたと木明は思い出した。
編集者はもっとハッキリとしてバッドエンドか、黒い風とくっつくハッピーエンドを望んでいたが、木明には分かりやすいエンディングを書く気が無かったというか、気力が尽きていた。
今考えると山もオチも無くてわかりづらかったというか何が書きたかったのかとは思うが、アサコは最高だと言ってくれた。
「私ここに来てこの服を着て散歩するのが凄く好きなんです」
アサコが崖の上から川を指差す。大きな川面の先にはコンクリートの灰色のマンションと、青いガラスの壁面を輝かせた高層ビルが見えた。
「「灰の神域」の最後のシーンみたいじゃないですか?」
朝日のような眩しい笑顔を木明に向けて、アサコは対岸の景色を指差す。
「ああ、これを見て思いついたんだっけかな?」
遠くに見える東京の町並みが、木明にはどこか異世界のように見えた。
「覚えてないんですか?」
「うーん、なんか別の本で読んだシーンだったかも」
二人は笑いながら土手の上を歩いた。
「先生、また小説書いてください」
「俺が?」
「はい、絶対おもしろいですよ!」
小説を書くなんて疲れるし、書いても売れないんだよなあと思いながら木明はアサコの姿を追った。
「それで書く気になったんですか?」
木明のアパートの部屋でプリントアウトされた作品を持ちながら、山内は木明に声をかける。
「まあ自分の才能のなさを目の前で見せられると、それでも足掻いてみたいと思ったんだ」
チョロいんだよなあ、結局自分が散々また書こうと言っても美少女に言われたら書くんだからと山内は思ったが口にはしなかった。
いつものように木明のボロアパートで、夜勤前に山内を呼んでコンビニの複合機で出力した原稿を渡す。
山内は貰った原稿をじっくり読んでから咳払いをひとつしてから感想を言った。
「つまらないですね」
十年ぶりに書いた新作を山内に酷評されて木明は泣きそうになりながら夜勤に出掛ける準備をする。
「仕事行ってくる」
「先生お待ちになってください」
アサコが手を握りしめて主人公の前に立つ。
「新作、私は凄くおもしろかったです」
「ほんとに?」
「モチのロンです!」
木明はアサコの頭を撫でて、夜勤に向かった。
「本当におもしろいですかこれ?」
山内の質問にアサコは山内の言葉に満面の笑みで答える。
「大傑作です!」
アサコのことばを信じて木明の十年ぶりの作品は出版されたが、二作目もやはり売れなかった。
END
凡人作家おじさんと天才美少女作家のストレンジラブ さわだ @sawada
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