影の詩
塔
第一話 infant
1
──!
──!
──、────。
──。
…………。
──、──。
──。
──?
──。
………………。
………………、………………。
気が付くと、道路の真ん中に立っていた。
自分の周りをものすごいスピードで車が駆け抜けていく。まるで俺のことなんて見えていないかのようだ。
片側二車線のこの道に見覚えはあった。見覚えはあるのだが、ここがいったい何処で、いったい自分は何者なのか、何も思い出せない。どうやら、記憶喪失というやつらしい。
頭がぼうっとして、芯の方がひどく熱い。
どうして、俺はこんな所に立っているんだ?
どうして、どの車もお構いなしに通り過ぎていくんだ?
思い出せない。
わからない。
とにかくこのまま突っ立っていては危険だ。歩道に避難しなくては。
しかし、途切れることのない車は決してスピードを緩めてはくれない。
何なんだよ。
畜生。
轢いても構わないってのかよ。
畜生。
畜生め。
頭に血が上るのを感じる。
俺はこんなに短気な人間だっただろうか。
わからない。
いや、こんな状況だ。誰だって腹が立つだろう。
ええい。
もう限界だ。
俺は歩道へ行くぞ。
轢かれたって、知るもんか。
一歩、前へ踏み出した。
すると、一台の車が俺めがけて走って来た。
しまった、轢かれる。
いやだ。
死ぬのは、いやだ。
思わず目を閉じる。
物凄い衝撃を覚悟したが、いつまで経っても何の感触もない。
ゆっくりと、目を開ける。
車が、俺の体をすり抜けて走っている。
どういうことだ。
いったい何が起きているんだ。
そういえば、さっきから何も聞こえない。
こんなに車が走っているのに。
あ、あ。
自分の声も聞こえない。
匂いも──感じないじゃないか!
こんなに、車が、走っているのに。
こんなに、車が──。
「──? ──か?」
ふいに、誰かの呼ぶ声が聞こえた。
ああ、良かった。
聞こえる。聞こえるぞ。
「聞こえますか?」
俺は声の主を探そうと辺りを見渡した。
相変わらず、車は無慈悲に通り過ぎて行く。
「聞こえますか?」
どうやら声は俺の頭上から聞こえているようだ。
見上げると、一人の男が宙に浮かんでいる。
「聞こえ……て、いるようですね」
男ははっきりとこちらを見て言った。
「取りあえず、あちらへ行きましょうか。ここでは落ち着きませんからね」
ふわりと飛ぶようにして、男は歩道へと降り立った。
俺も慌てて後を追う。
車がどんどん体を突き抜けて行くが、気にしてはいられない。痛みがなくて幸いだ。
男は俺が歩道に辿り着くのを待っている。にこやかな顔が、何となく気分を落ち着かせる。背は高くて肩幅も広い。薄い頭髪と顔立ちには、どことなく見覚えがあった。知り合いか、有名人かはわからない。純白のダブルのスーツを嫌味無く着こなしている。まあ空を飛んでいる時点でまともでないのは確かだが、見た目からしてもただ者ではない雰囲気だ。
やっとのことで歩道へと辿り着く。
男がこちらへ手を差し伸べてきた。どうやら握手を求めているらしい。
俺は少し戸惑いながら男の手を握る。
「初めまして、どうも。ええ、ご気分はいかがでしょうか?」
「あ……あ…」
返事をしようとしたが声が出ない。まるで舌を抜き取られてしまったかのようだ。
「ああ、声が出ないのですね」
男の言葉に頷いて見せる。
「頭はどうです? ぼんやりして、何も思い出せない?」
また頷いて見せる。
「では、少々お待ち下さいね」
そう言って男は上着のポケットを探り始めた。中から引っ張り出したのは、小さな濃紺の布袋だった。
「今から貴方に向かって粉をかけますが、避けないで下さいね」
俺の返事を待たず、男は袋から取り出した白い粉を振りかけてきた。思わず目を閉じる。
「どうですか?」
どうもこうも──、
「どうもこうもないだろう!」
声が、出た。
まだ少しいがらっぽいが、はっきりと声を出すことが出来た。
「良かった。はい、これでお話が出来ますね。頭はどうです?」
「頭?」
「先程まで頭にもやがかかったようになっていて、何も思い出せなかったのではないですか? 今はどうです?」
「今は……」
俺は自分のことを思い出そうとしてみた。
さっきは何も思い出せなかったが、だんだんと自分が誰なのかということが、泡沫のように頭に浮かんで来た。
「ご自分の性別や、年齢はわかりますか?」
「男……歳は、二十……」
「二十?」
「二十……八歳だ」
「家族構成は?」
まるで取り調べのようだと思ったが、頭を整理する為にも、素直に答えることにした。
「両親と、妹が一人」
「この近くに住んでいた?」
「そう……そこの角を曲がって真っ直ぐ行った所のマンションに……」
「一人暮らし?」
「そう、です……」
「わかりました」
男は満足そうに頷くと、ポケットから出した手帳に何かを書き込んだ。
「ええと、次の質問で一旦終了です」
「ああ、はい」
「ご自分のお名前は? 思い出せますか?」
「名前……名前は……」
必死に思い出そうとするが、どうしても自分の名前が出てこない。
だんだんと過去の出来事も思い出せるようになってきたのに、何故だろうか。
「思い出せないのですね?」
俺は戸惑いながらも頷いて見せる。
「よろしい」
何が嬉しかったのか、男は再び満足そうに頷くと、また手帳に何かを書き込んだ。
「ここで名前まで覚えているとなりますと、大変ですからね」
「はあ……」
いったい何が大変だというのだろう。
全く説明が足りない。
「さて」
男が手帳をパタンと閉じ、ポケットにしまいながらこちらへ向き直る。
「単刀直入に申し上げますと、貴方は三年前にあの場所で交通事故に遭い、お亡くなりになりました」
「……はい?」
突然、男が突拍子もないことを言い出す。
いや『突拍子もない』ということはない。生きている人間の体を、車が通り抜けたりするはずはないのだから、『もしかして』くらいには思っていた。ただ、足はしっかり生えているし、服も汚れ一つないので、希望的な『もしかして』も多少は抱いていたのだが。
それにしても唐突な男の説明に、俺は思わず黙ってしまった。
「ええと、お気付きでは無かった?」
「いいえ。さすがに、うすうすは……」
俺は苦笑しながら答える。
「よろしい」
まったく、いったい何がよろしいというのか。
「ところで今、俺……私、が死んだのは三年前と仰いましたか?」
「お気遣い無く。敬語は結構で御座います」
「はあ……で?」
「はい。確かに貴方が死んだのは三年前の今日です」
「それから、ずっと俺はあそこに?」
「いえ、ずっとでは御座いません……」
男の顔がふっと曇る。
今更同情されても、逆に困ってしまう。
「俺は、あそこで何を?」
「……それでは、貴方がお亡くなりになってから今日までのことを、簡単に説明させていただきます」
男は佇まいを直すと、小さく一つ咳払いをした。
「ええ、今もお伝えしましたが、貴方がお亡くなりになったのは三年前の今日、九月三日の午前一時。場所は、この場所で御座います。仕事終わりに同僚と飲みに行った帰り道、貴方はそこの横断歩道を渡っておりました。もちろん、青信号で御座います」
男は「ご安心を」といった風に笑顔を見せた。
しかし、死んでしまった今となっては青信号で渡っていようが、赤信号で渡っていようがどちらでも良いように思える。まあ、自分に非がないに越したことはないが。
「轢き逃げで御座いました。はねられた貴方は、先程貴方が立っていらした場所まで飛ばされました。即死で、御座いました。事故当時、現場は人通りも少なく、目撃者はいませんでした。昼間はこの通り混み合う道ではありますが、夜中となるとほとんど通る車も無く……犯人は、まだ捕まっておりません」
男は、はあ、とため息をついた。
ため息をつきたいのは、こちらの方だ。
「貴方が発見されたのは、事故から三十分後のことでした。すぐに警察や救急車が駆けつけましたが、手遅れで御座いました。ご家族へ連絡がいったのは、午前三時を過ぎた頃で御座いました。お母様は、それはもう大変な嘆きようで……お父様も、ずっと唇を噛みしめておいででした。妹様も、それはショックだったようで……憶えてらっしゃいますか?」
言われてみると、頭の隅にそれらしき記憶がある。
お袋の泣き顔。
ああ、親父のあんな顔は初めて見たな。
妹は……妹には、本当に申し訳ない。あんなに取り乱して。悪い、兄貴だな。
甦った記憶に、少しだけ泣きそうになる。しかし初対面の男に泣き顔を見られるのは嫌だ。俺は視線をそらし、誤魔化す。
「貴方は、そんなご家族の姿をずっと見ておられました」
「ずっと?」
「はい。その頃はまだ、貴方の意識もはっきりとしておいででしたので……救急車から病院、ご自分のご葬儀も見ておいででした」
そうだっただろうか。思い出せない。
「さて、その後葬儀が済んだ後も、当然では御座いますが、ご家族の哀しみは簡単には晴れませんでした。毎日のように事故現場に花を手向けに行かれるお母様の姿は、それはもう痛ましいもので御座いました。貴方も、そんな家族の姿を見ているのが辛くなられたのでしょう。事故から半年程経ったある日から、貴方は事故現場であるこの場所に、ただ立ち続けるようになりました」
「それじゃまるで……」
まるで、地縛霊ではないか。
思い出そうとしてみるが、上手くいかない。思い出せるのは、何故だろうか、子供の頃の楽しかった思い出ばかりだ。
「ここに立つようになってから、貴方はみるみる自我を失っていきました」
「自我?」
「はい。初めのうちは空や通行人などをぼんやりと見つめておいででした。しばらくしてからは少しショックから立ち直ったのか、楽しそうなお顔をされることもありました。しかし今度はだんだんと……一日の大半を泣いて過ごされるようになりました。そしていつしか哀しみは怒りに代わり……『何故、俺が死ななくてはいけないのか』『どうして俺一人がこんな辛い目に遭わなくてはいけないのか』『俺をこんな風にしたのは誰だ』『絶対に見つけて、殺してやる』と……一度は実際に車に事故を起こさせたことも御座いました」
「俺が、事故を?」
「気に病むことはありません。もう過ぎたことですから」
いや、過ぎたことで片付けることはできないだろう。
俺が事故を起こさせた?
まさか俺が、まるで怨霊か悪霊のように『祟った』というのか。
冗談じゃない。
「その事故で、誰か死んだのか?」
「……一人」
「本当、なのか……?」
「はい」
何ということだ。俺は、人を殺してしまったのか……。
それじゃあ悪霊そのものじゃないか。
「気に病まないで下さい。死は、残された者にとっては確かに辛いものですが、死んだ者にとってはそうとは限りませんから」
「でも……」
「哀しみの行き場が無かったので御座いましょう。よくあることで御座います」
よくあること、で片付けて良いのか?
人一人殺しておいて「よくあること」だと?
やっぱり、こいつは普通の人間じゃない。
「ええと……何処まで話しましたかね。ああ、そうそう……そして、去年の夏頃で御座いましょうか、貴方はついに自我を失われたのです」
「自我を失う、って……」
「先程までの貴方の状態そのもので御座います。何も思い出せず、自分が誰なのかもわからない。抜け殻のような状態で御座います」
ここまで聞いても、やはり死んでから今までのことは、ほとんど思い出すことが出来ない。男が作り話をしている可能性もあるかも知れないが、俺に対して嘘を吐くメリットは思いつかない。
「私は、そんな貴方のことをずっと見ておりました」
「ずっと、って……ずっと?」
「はい。亡くなられてから、ずっと。それが仕事で御座いますから」
そう言って、男は笑った。
今聞いたことが本当だとすれば、つまり男は死神ということだろうか。それとも魂を喰らいに来た悪魔か。どちらにせよ、歓迎すべき相手ではない。
「で、今日は何をしに来た。俺に何をするんだ」
語気を強めて言ってみる。
しかし、相手は気にする素振りも見せない。
「まあ、詳しいことは移動しながらお話ししましょう」
そう言って、男はくるりと背を向ける。
「何処に行くんだ?」
俺の問いに、男は笑って答えた。
「あの世、で御座いますよ」
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