死の手招き
不適合作家エコー
死の手招き
私は死が怖い。
中年も半ばにさしかかった歳の頃にも関わらず、さして体調に不備もない夜に訪れた咳払いや倦怠感。そんな些細な事を起因に死を意識した時、死がまるで手招きをしていると感じることがある。
死を意識した時の焦燥感。
振り解くことの敵わない鉛が全身に覆い被さる感覚、それが肺の中を充満するようなの嫌悪感。そうした時の思考は決まって残りの生が何年あるのかと考えるに至る。そして、その間に、何をなせば満足のある死に行き着くのかと考える。
もし結婚でもしていれば、子供があれば違ったのだろうかとも考えれる。
だがそれもまた未知である。それは一般的に幸福な人生の模範として描かれる構図ではあるし、生物としては間違っていないはずだ。ただ、同じ月日で白寿を迎えた祖父祖母に夫婦円満のコツを聞いた時、口をそろえて『妥協』と答えた事を思うと、これも言い切れないものも感じる。
模索するほど、死んでもいいと思えるほどの幸福はどこにも見当たらない。
無いかもしれないものを渇望してしまう。
それは最高に無益な時間だ。
この、私の死の恐怖は過剰なものなのだろうか。
私はこれについて親友と呼べる友人とさえ話したことがないので、一般の、普通と呼ばれる感覚において、この死の恐怖がどれほどなのかを判断する基準がない。
ただ、私にとってのこれはある種のトラウマなのだ。
多かれ少なかれ人の思う事なのか、考えるのも稀有な物事なのかも分からない。それが半生を終える男が思い悩むには早いのか遅いのかも、全くもって分からない。
そもそも、死とはなんだろうか。
別の言葉に置き換えるなら他界。文字通り他の世界に逝くということ。それが無であるのか天国や地獄の様な世界が存在するのかはさておき、今の世界に存在する限り把握不可能な空間であり、たとえ誰かが臨死体験をしただとか、三途の川から石を拾って帰ったと言っても信じるのは困難だろう。
その結果としての永劫未知の領域。
それだけに分からないものを恐れることは、人としてそう不思議なことではない。少なくとも今の私はそう考えている。
私は死が怖い。
恐らく、人より多い恐怖を死に感じている。それは、私の死生観に両親の死が少なからず影響しているからだろう。
両親は、私が高等学校に通う二年目の夏休みに他界した。
凡そ病とは無縁の健康な両親だった。
父は一日三食の食事を残すことなく、補助食品の知識にも明るい……というのも栄養師という職業柄だろう。
一方、母は体育大学出のスポーツインストラクターだ。
見るからに健康な人だった。実のところ、あまり家族愛というものは無かった様に思う。栄養管理にうるさい父は私の偏食を許さなかった。ピーマンを前に小一時間、正座で説教を受け、弁当に今朝方残した納豆が水気を失った姿で入っていた事は今も許せていないし、母は体育塾とスイミングスクールを強要し、暇を作っては参観に来た。
学校の五段階評価で体育が三、国語が五の私にである。
そんな両親の死は、意外な程に呆気なかった。
交通事故。
即死だったそうだ。あまりにも呆気なく、実感が遅れてあまり泣いた記憶はない。記憶が正しければ、初めて泣いたのは祖母が取り仕切った葬儀が終わり手を合わせた時だった。場が落ち着き、ふと、両親のことが思い出された。
様々な料理で私の偏食に苦心した父の姿。
共働きながら時間を作って体育塾に見学に来た母、あの交通事故も仲睦まじい両親の結婚記念日の旅行だった。高校男児の息子を前に弟と妹どちらが欲しいかなどという冗談……冗談、だったと思うのだが……。そんな冗談を口にして顔を引きつらせた私に手を振られて出て行ったまま、帰っては来なかった。
息子が高校生にもなってそういう習慣を持つのは私の周囲からすると仲睦まじいという事になるらしく、そんな両親はそれぞれの分野から私を優秀なスポーツ選手とする事が夢だった。
……不思議だ。
こうして遺影を前に思い返すとそれほど両親に恨み辛みなどない様に思えた。むしろ、そんな両親の死に涙の一つも流せなかった自身への悔しさ、情けなさが止めどなく溢れて泣いた。
両親を亡くした悲しみで泣けないという自己嫌悪に泣いている自身を恥じた。
そして私は死が、健康な者にも唐突に訪れると知った。
そもそも健康か否かなど医者に常時診られてもなければ分かり得ない。
まして医者にも外科、内科、泌尿器科と様々の専門分野があり、問診の出来次第では結果も変わる。運ばれた両親を見るなり匙を投げた医師という連中を私はどこか好きになれない。
これに関しては申し訳ないが八つ当たりだ。
だが、いつの時代からかは分からないが、最近の医者は問診結果を病院のパソコンに打ち込んで結果を検索する光景が増えた。例えば簡単な過労の診断……医者がパソコンに目眩、倦怠感と打ち込み検索する。すると、症例に過労の疑い 、処方薬に●●●を推奨するというページが表示され、パソコンに表示された結果そのままの薬が処方される。また、余談だが、最近は明らかに、過労と思われても疑いとつけるのがクレーム対策の処世術なのだと聞いた。
そう聞くと問診結果を打つだけで断定もしなくていいなら私も医者に……っと、それは置いておこう。
とにかく、医者でもない私には自身の体の異変すら全ては理解出来ない。
医者も確実では無く、そもそも未知の病も事故もあるのがこの世の死因だ。ならば、完全な対策など望めるものではない。どこかの水準をもってあきらめる必要がある事案なのだろうが、私以外の人間はみんなそれを納得して、受け入れているのだろうかと思うと実に不思議に思う。恐らく私は本心において、これを納得していないのではないかと思う。
そうこうしている間に時は過ぎ、六十歳を迎えたある日だ。
小学五年の同窓会が開かれた。
主催地は畳の宴会場ながら窓の外には夜景が広がり、厨房には巨大な生簀があり凡そ参加費五千円とは思えない小洒落た宴会場だ。宴会シーズンである年度末にこんな良い場所がおさえられている事も含めて、まぁ、主催者であり実業家のあだ名を持つ彼の手腕が相変わらずだという事だろう。
同窓会は五年ぶりではあるが、私の思う一般論において、この開催頻度はかなり多い部類かと思う。
因みに小学六年の同窓会はまだ一度も無い。
卒業式にタイムカプセルを埋めて泣き、抱き合ったにも関わらずだ。
考えるに、修学旅行を経験した小学五年という年の親睦が深かった。
また、学級長が『実業家』の愛称を持つ彼だった事に起因する要素は深い。思えば小学六年の時の学級長はくじ引きで当選した男で、たしか、あだ名は『鼻水バズーカ』だった。
彼にこれといった思い出はないが、あだ名から察するに、そういう事なのかもしれないが……まぁそれはどうでもいい。
私にとっても最も会いたいクラスメイトは小学五年の彼ら、彼女らである。
それは五年毎の開催によって深めた親睦もあり、地域によってよせ集まった小学生頃の同級生の現在は学力に似通った高等学校以降の連れよりも職業、思考において多様であるからであり、主催者の『実業家』もそれをコネクションとして有意義に思うからこそ、ご丁寧に次回開催日まで事前に確定させて定期開催をしているのだ。
もっとも只のサラリーマンでありキラリと光る趣味や特技も持ち合わせない私にとってコネクションなど持つ意味は無い。
だが、単純に大学までを共にした一番の親友と、高嶺の花だった彼女がこのクラスにはいる。
クラスメイトは総勢二十八名。
ベビーブームの影響が残る当時にしてやや少ない理由は学年クラスが三つで収まらず四つに分断されていたからで、小学五年生のクラス分けが貼り出された時には四クラスという今までより低確率の中、親友と気になる女性が同じクラスになった事には、柄にも無いガッツポーズをとったものだ。そうして親友と抱き合いながら、私の目は、彼女の姿を追っていた。
当然、私がこの同窓会で最初に目をやるのも彼女だ。
私が婚期を逃した原因、というのは彼女に失礼だろうから思わないでほしい。
分かっているのだ。
一番の原因はこの偏屈な性格だ。次に容姿。不細工ではないと確信している。ただし、中肉中背童顔。逆説として特徴的なほどに私は個性から見放された容姿をしていた。そんな私の外見でクラスのマドンナだった彼女に声をかける事なんて出来ようはずもない。とにかく、外面も内面も私は恋に不向きな性質だっただけの事であるが、なぜ、彼女はまだ結婚していないのだろう。
彼女は、あの頃からクラスの誰もが認める美人だ。
それは容姿的なものだけではない。所作が美しく、健康的で清らかな姿勢を保つ、無邪気な笑みを浮かべる隙のある笑顔を持った、聞き上手でありながらユーモラスな会話に富んだ外面内面共に美しい女性だからだ。
分かるだろうか。
外面とは整形を除く意味で先天的な美しさだ。もちろん、美容面での努力は他にもあり、それを否定しないが、今は趣旨が違うと思ってほしい。そして姿勢や話術、性格、こういった内面的美しさは後天的な美しさなのだ。つまり彼女は生まれながらに美しいだけでなく、これまでの人生常に美しくあり、美しくあろうとしてきた事に他ならない。
分かるだろうか。
つまり時間軸において彼女は生涯美しく……やめよう。
なんだか、この考察は私が彼女を好いていることを重複して伝える意外の意味を持たない気がしてきた。
とにかく、控えめにも彼女はこのクラス総意の美人だ。
成人式で粧し込んだ彼女の姿など今も忘れられない。
外見として栄養価、高身長の外国人とのハーフが少なかった等の理由から今より平均身長の低い当時にしても成人女性としては小柄な百五十五センチに僅かに届かない可愛らしさを含み、スタイルも良い。今でこそヘアスタイルは年齢相応に活発な印象を与えるベリーショートの白髪だが、若い頃は艶やかな長い黒髪をなびかせていて、そのどちらも堪らなく似合っている。
「おいおい、また彼女に見惚れてたのか?」
こう言う事を考えているといつもそうだ。
この親友曰く、目で考えが分かるとか、心の鼻が伸びてるだとか、とにかく長い付き合いの悪癖だ。さすがに今は他のクラスメイトと同じ五年来の出会い頭だというのに首に腕を回し屈託の無い笑顔で飛びついてくる。
どこまでも気さくな男……なのだが、今日はその姿が無い。
あのお祭り男にしては珍しいとも思った。
だが、その時はそう気にとめる事も無かった。五年来が次回開催の十年来になる事はそう些細でもないかもしれないが、かつて一度も無かった親友の邪魔も無く彼女と話せる機会を大切にして何が悪いとは言われないだろう。
まぁ、どうせあいつは明日にでも私に電話をしてくる。
その時に今日の出来事を話してやればいい。因みに、実際二十八人が二十七人になったところで人気者の彼女と話せる時間はそれほど多くなかったが、少なからず、浮かれる様な会話もあった。
いくつか交わした会話の中で、彼女にとって私は『気になる異性』だった事があるらしい。
驚愕だった。
考えたことも無かったが妄想はしたことのあるシュチュエーションで、それはつまり無い以上にあり得ないと思っていたからこそ妄想に至った展開だった。
流石に六十歳の男女だ。
彼女には旦那はいないが子供も孫もいる。本音は私もと答えたかったし、好意を向けられた期間も知りたかった事は言うまでもないだろう。
彼女の行為のきっかけ、それは両親を学生の内に亡くしたという彼女と私の共通点だった。
私はそれを深く思うこともなく、むしろそれ以来死を恐れ逃げてきた偏屈者と下卑していた特徴だったが、そんな特徴も彼女から見ると両親を亡くした境遇にある事を思わせず過ごす私の姿が勇気を与えていたのだという。それは私にとっては普通だった言動だが、彼女の好意に触れていて、四十年以上経った今も彼女の記憶の中に根付いていると言う。感無量だ。
私の人生にしては珍しい、幸福な時間だった。
この余韻は同窓会を終えても長く続いただろう。
もし、あんな事が無ければ私の死の執拗な恐怖を十年以上取り払い、毎日の足取りをミュージカルよろしく歩行からスキップに転換していたかもしれない。
もっとも、平均的にすり足で小さな段に躓きがちな高齢者予備群がそういった歩行をすることはかなり身体的に危険を伴うのだが。
しかし、一般認識にある1956年にWHOが平均寿命から推移した高齢者基準の六五歳というのは、平均寿命の延びた昨今では些か適応しているとは言い難く、八十二歳からが高齢者という2018年の正しい区分を見れば私はまだ早期の、中年、あるいは壮年なのだ。
ただ、これを話すと大抵の若者はどうでも良いと言いたげな表情になるので今回はここで割愛する。
とにかく、彼女との会話は私にとってそれほどの高揚感だった。
そして、これほどの高揚感を失った理由は、同窓会の翌日、親友の葬儀という形で現れた次の死が原因であった。
平均寿命から見れば、あまりにも若い、二十八人もいる同級生中一番に死ぬことも無いだろうに……。
親友は棺桶の中で腐食を防ぐドライアイスに冷却されながら、私と五年来の再会を果たした。
私は、年甲斐も無く泣いた。
親族の誰よりも深く、長く泣いた。私と彼の交友を熟知するクラスメイトの誰も私を止めなかった。彼女に肩をおさえられ、慰められる事を幸福にも思わず泣いた。両親の死で罪悪するほど感じなかった故人を惜しむ気持ちを持って親友の死を泣いた。進行を促しに来た住職に席に促される事に割く怒りの感情が無いほど、私の感情の十割、百パーセントをもって六十歳の中年が泣いた。
そして、それは始まりに過ぎなかった。
この年から年に一人、多い年には三人以上が親友の後を追った。不思議と伴侶に先立たれた翌年までに亡くなる者は多かった様に思う。
八十五歳、平均寿命は伸びているからWHOの定義を更新すれば私はまだ中年だろうか。
ただ、それをもう調べる気は無い。もういいのだ。高齢者、中年、高年、そんなものはどうでも良い。持病も目立った認知症状も無いという事は幸いなのかも知れないが、私にとってなにより幸いだったのは……親友を早くに亡くした事だったのかもしれない。
親友の死は私の生涯最大の涙だった。
人の生死にこういった言い方は良くないかもしれないが、親友の死はあの歳での事で良かったのかもしれない。あの歳だったから、私は彼の死を最大限悲しむことが出来た。
全ては六十歳という、若さだった。
私が長く死の恐怖に怯えた時期は、親友の死から徐々に薄れていった。
あれほど恐れた死の手招きをだ。
死に苦悩するほどに恐怖が増した無理難題。その解答は、今は手の内にある。
なぜなら私は今、あれほど恐れた死の手を掴みまるで友のように握手を交わしているのだ。
仮に交友関係を限定してクラスメイト二十八人の友と両親の総勢三十名。
その内、今を生きるのは十三人。
十七人が死に、その度に葬儀に出た。十四回だ。二十五年で十四回の葬儀に出た。
度に怒りがあった。
残された者の怒りがあった。
家族を残した者、孫の出産前に約束を違えた者、何より私より先に逝った者たちへの憤りだ。
度に涙があった。
良き想い出が惜しみに変わる涙だ。
良き想い出ほどに涙は増えた。涙の量が、感謝の量だった。
そして、親しい者が他界する度に、現世の執着は薄れた。
平均寿命を超えたとき、平均に従って身内が他界する度に、死は恐怖の象徴ではなくなり、私の中でただの常識として理解された。
そして昨日、彼女が逝った。
親友の死の後、彼女との交流は増えていた。
歩み寄るには遅過ぎたが、彼女は私の良き理解者だった。両親を早くに亡くしたという境遇から、彼女もまた死の恐怖を知っていた。
だからだろう。
優しい彼女は親友の葬儀の後、私を精一杯に気遣ってくれた。だから、だったのだ。
彼女は一人で死ぬことを恐れ養子を迎えた。
もしかすると恋をしなかった事にも、それが関係したのかもしれない。
私は、穏やかに彼女を看取った。
多くの葬式に出たが看取ったのは彼女が最初で、最後になるだろう。
養子の子供たちに呼ばれ最期の時を共に過ごした。
呼吸器によって妨げられた声は聞きこえなかったが、その口が『ずっと、好きでした』そう言ったように思えた。
なぜなら、私は八十年近くずっと彼女が好きだったのだ。
彼女のことを考え、その唇を誰よりも見てきたのだ。
涙はなく、微笑とともにその言葉を置いて病室を出た。
両親、親友、クラスメイト、最愛の人を見送った。
そして、最愛に属する者が居なくなった時、あれほど嫌悪した死は、数少ない隣人となっていた。
私は、もう死を恐れない。
その手招きを手繰り寄せ、その手に口づけをする。
三途の川の先が親しかった友たちでいかに賑わおうと、多くの葬儀で怒り、涙した私が自ら死ぬなんて事は許されない様に思う。
その時が来て私が人生に満足しているのかは、分からない。
ただ、それでも、生きようと思う。
ああ、そうだ。
久しぶりにアルバムを開くとしよう。
これまでを日記にまとめるのも良いかもしれない。
その日はいずれ来るだろう。
その日まで、その時までを精一杯に。最期まで。
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