ライフ・イズ

三咲透子

本編

1

 早朝に忍び込んだ学校。その屋上から望む街並みは、深い藍色に沈んでいた。

 月明りの降らない地上は靄に包まれ、全て輪郭は判然としない。その景色は霧峰蓮きりみね れんに、印象派の絵画を想起させた。

 吐く息が、白く凍てつく。

 彼は鉄柵に足を掛け、僅かに霜が這った太い縁へ降り立つ。眼下のアスファルトを覗き込んだ。高さを感じさせない黒一面には、それでもなお、飛び込めば全て終わるのだという得体の知れない迫力があった。

 高所から飛び降りた人間の多くは、重心の関係と生存本能的な反応により、無意識に足を下へ向けるらしかった。

 彼は想像した。このまま徐々に速度を上げて落下した暁には、衝突した部位から順に砕け、破れた皮膚から血液が流れ出る。次第に意識は薄れていくが、全身に響く痛みが完全に意識を手放すことはさせない。心肺が停止するまでの間を、苦痛に苛まれて過ごすことになるだろう、と。

 しかしどれだけ思考し、見つめても蓮の心臓は静かだった。寒さにかじかんではいるが、本来あるべき根源に迫る震えや強張りはどこにもない。

 自身が人間的に何かが欠落しているのかもしれないことを思った。一歩を踏み出せば確実に死んでしまう状況にあるというのに、恐怖はない。

 彼にはそれが何よりも怖かった。

 蓮は一度ため息を吐いてから、大きく息を吸った。瞬間、思いがけず肺の奥に刺さった冷気の為に、ほとんど唸るように咽た。咳の衝撃で、身体の芯を握り潰すような鈍い痛みに襲われ、反射的にダッフルコートの上から胸部を押さえる。

 それから、慣れたように冷静かつ慎重に呼吸を整えた。

 屋上に一旦の静寂が戻ったが、それも束の間。背後で規則正しく鳴る金属音を聞いた。振り返らずとも、それが屋上まで続く非常階段を上る足音だと理解した。

 教員や事務員、あるいは警備会社の者かもしれないと考え、若干の焦りを覚えた。

 けれど彼は足音の正体を確認しようとはしなかった。今更、この屋上に逃げ場はない。

 足音は蓮の近くで止まった。横目に、人影が鉄柵へ肘を凭せるのを認める。

 不意に一筋の鋭い風が吹き、甘いムスクが香った。

「先客がいるとは、驚いた」

 右耳にかかる少しハスキーな声に、覚えがあった。

「奇遇ですね、僕もほかに人が来るとは思いませんでした」

 蓮は声の主を窺った。

 その人は、彼の記憶にある霜海雫しもうみ しずくだった。

「飛ばないの?」

「まあ、その。……はい」

 彼は曖昧に溢す。

「怖くなった?」

「わかりません」

「そっか」雫は淡然と呟いた。「じゃあ、私が先に飛ぶよ」

「え?」

「もともとそのために来たからね」

 蓮の困惑をよそに、彼女は鉄柵を越えて隣に立ち、何か含むところなく発した。

「飛び降りるときは雑念をすべて消すこと。それから頭から落ちるといいよ。……長く苦しまなくて済む、ってだけだけど」

「聞きたくないですよ、そんなこと」

「いやいや重要だよ? 何よりも恐れるべきは死に損なうこと。死に恐怖したら二度目の機会はやって来ないらしいから」

 彼女の声音は一貫して軽やかなものだ。どこか他人事のような印象を抱かせる。

「そもそも僕、本当に死ぬつもりじゃなくて」

 蓮は、自らの状況が如何に陳腐で子供じみているかを思った。死ぬ気のない人間が、自死の真似事をすることの滑稽さに、自身を嘲る。

「だから、霜海先輩も今日はやめませんか?」

 口にしてすぐ、配慮を欠いた発言だと気がついたが、今になって言い繕おうという気にはならなかった。

「そ、わかった。よかったね、第一発見者にならなくて」

 雫は思案する素振りもなく、さらりと言っていじわるく口元を緩めた。

「……不謹慎ですよ」

「君がそれを言うの?」

「それもそうですね」

 とても笑えそうにはなかったが、おかしさに息を漏らした。

「そういうことならもう行こっか。ちょうど時間切れっぽいし」

 蓮が腕時計を確認すると、五時を回っている。彼が屋上へ着いてから既に二十分ほど経っていた。

 遠くでサイレンが響いている。

「ほら、急いで」

 彼女は蓮を置いて、非常階段へ向かい歩き始めている。靴紐は解けたまま、その後に続いた。



 裏門を抜けて住宅街へ入った。幸いにもパトカーは正門側へ集まったようで、見つかる様子はない。

 雨水調節池を通り過ぎると、道路を挟んだ向かい側に一際古風な造りの家が佇んでいる。周辺の住宅に比べてかなりの敷地を有しており、心做しか隣家が縮こまっているように見えた。近づいた拍子に表札を覗くと『霜海』と書かれていた。

「家、帰らないんですか」

 足を止めない雫の背に尋ねてみる。

「親起きてるから。出歩いてるのバレたら怒られる」

 振り返らずにそう言った。

 それから、少し先の公園で東屋に腰を下ろした。雫はコートのポケットから、ぬるくなった缶コーヒーを取り出して蓋を開けた。口をつけ、何度か喉を鳴らす。

 蓮は対面の彼女から目を逸らし、仄々と明け行く東の空を眺めて息を吐いた。会話を始めるには、互いに休息が必要だった。

「あんな顔で死のうとするもんじゃないよ」

 彼女の開口一番は、ひどく乾いた言葉だった。

「そんなにひどい顔してましたか」

 言いながら顔に触れたが、疾うに剥がれ落ちた表情の面影は解るはずもなかった。

「というか、さっきも言いましたけど本当に死ぬつもりはありませんでしたよ」

「わかってる。もう一年、切ったもんね」

 長い冬風が横顔を吹きつける。

 彼女の言が何を指すのか、蓮はよく解っていた。彼は自身が余命宣告を受けた身であることを常に意識している。

「教えてよ、なんで君があんなところにいたのか」

 雫は心底から不思議そうに言う。

「そのつもりがないならあんな危険を冒す必要はないし、本当に死にくてもそのうちに最期は来る」

 蓮は返答に困る。今になって、自己開示が苦手な質を恨んだ。数分ほど考えたが、それも面倒になり正直に話すことにした。

「長くなりますよ」

「大歓迎」

 咳払いをしてから、語り出す。

「僕、生まれながらに身体が弱かったんです。普通に歩いているだけでも人より早く息が上がったり、熱が出やすかったり。その上、回復も遅い」

 授業中に発熱し、頻繁に保健室へ通っていたことを思い出した。彼は続ける。

「そうなると必然、できることに制限がかかりますし、やりたいこともいずれは見切りをつけなければなりません」

 刹那的に生きることが許される子供という時期に、今がつらく、未来に繋ぐものもないというのは、彼にとって強い毒だった。

「中学へ上がった頃には、虚弱体質もそこそこ改善して人並みの生活は送れました。ただ、できることが増えていく一方で、やりたいことはよくわからず、日々をやり過ごすだけ。思えば、このときにはもうおかしかったんでしょう」

 蓮は乾燥を気にして、リップクリームを塗ってから再び口を開く。

「それからは成り行きで卒業して、なんとなく選んだ高校に入学して、一年を過ごして。そうして半年前に虚弱体質とは関係なく、心臓病で余命宣告を受けました」

 空を見ていた雫が、横目で先を促す。

「僕が何のために生まれたのか、生きているのか、その答えを知りたかった。死の淵に立ってみれば、僕にも何かしら生に執着する理由があるかもしれないと思ったんですが」

 わざとらしく首を横に振って、長大息する。

 解ったことは、自分が人間らしさを一部欠いていることだけ。

 生きながら死に監禁された人間の行く末は、ひどく空虚な死のみだと悟った。

「まあでも結局、すべて僕が怠惰だっただけなのかもしれません」

 言い終わってから、やっぱり話すべきではなかったかもしれないと思った。

 雫は黙ったまま、キジバトだけがうるさい。

 蓮が気まずさから何か喋ろうとして、彼女は片手を突き出してそれを制止した。それから短く長い沈黙に区切りをつけるように、空になった缶を机に叩いた。

「よし、決めた。今から私に付き合ってよ」

 彼が困惑を口にするより先に、彼女は立ち上がって言う。

「いいから行こうよ。自分探しの旅ってやつに」

 雫は決然とした表情で手を差し出した。

 蓮は逡巡した。その手を取ることの意味も、意図も解らない。彼女に関して、疑問点も多い。特別に仲が良いわけではない人間に、内面を吐露したことを後悔してもいる。ただ、彼には差し出されたその手が何よりも光って見えた。

 今更になって退嬰的な人生の変化を期待することに、若干の躊躇いを覚えたが、流されてみても良いと思い右手を重ねた。

「任せて」

 その一言に、初めて雫の温度を感じた。

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