無響の峰
銀 護力(しろがね もりよし)
無響の峰・全文
一
その男の瞳から、光が消えていた。
正確に言えば、かつてそこにあったはずの、他者を射抜くような傲岸な光が、跡形もなく消え失せていた。代わりに宿っているのは、生まれたばかりの草食動物にも似た、無防備で、ひどく頼りない揺らめきだけだった。
集中治療室の白いベッドの上で、夫、高嶺玲司(たかみねれいじ)は、ただ虚空を見つめていた。数々の雪山の神々をねじ伏せ、その名を世界の登山史に刻みつけてきた男。その身体の随所に巻かれた包帯の下には、クレバスの闇に呑まれた三日間の、壮絶な死闘の痕跡が生々しく残っているはずだった。奇跡の生還、とメディアはこぞって囃し立てた。けれど、私の目には、玲司という人間の魂が、あの氷の割れ目の底に、今もなお置き去りにされているように見えた。
私は、彼の妻であり、そして、精神科医の船越美咲(ふなこしみさき)だった。
「……玲司さん」
呼びかけると、彼はゆっくりと顔をこちらに向けた。その動きは、まるで錆びついたブリキ人形のようにぎこちない。そして、私の顔をじっと見つめると、その唇がかすかに震えた。
「……あなたは」
乾ききった声だった。
「あなたは、だれですか」
予感はあった。頭部への強い衝撃、極限の低体温症、そして三日間にわたる意識不明。彼の脳に、何らかの機能不全が起きている可能性は、医師として十分に予測できた。
けれど、その問いを、彼の口から直接聞いた瞬間、私の足元は、音もなく崩れ去った。
私は、患者を診るように冷静に、しかし妻としてのかすかな動揺を悟られぬよう、慎重に言葉を選んだ。
「美咲です。船越美咲。あなたの、妻です」
「……つま」
彼は、その言葉の意味を咀嚼するように、何度も繰り返した。その瞳には、親愛も、憎悪も、何の感情も浮かんでいない。ただ、未知の単語を反芻する学者のような、空虚な知性がそこにあるだけだった。
診断は、すぐに下された。
全生活史健忘を伴う、解離性健忘。
遭難という極度の生命の危機体験が引き金となり、彼の脳は、それまでの人生のすべてを、分厚い氷壁の向こう側へと封じ込めてしまったのだ。自分が誰で、何をしてきた人間なのか。両親の顔も、友人の名も、そして、目の前にいる私という妻を、殴りつけてきた夜の記憶さえも。
同僚の脳外科医は、私を気遣うように言った。
「記憶が戻るかどうかは、正直、五分五分だ。きっかけさえあれば、ダムが決壊するように全てを思い出すかもしれないし、このまま、永遠に戻らないかもしれない。あとは、彼自身の心の力と……君のサポート次第だ」
その夜、私は一人、玲司が眠る個室のソファに身を沈めていた。
私の脳裏に、嵐のように蘇るのは、記憶を失う前の彼との日々だった。遠征から帰るたびに機嫌を損ね、私のささやかな仕事にさえ嫉妬し、壁に叩きつけられたグラスが轟音と共に砕け散り、その破片の一つが私の頬を掠めていった、あの夜の鋭い痛み。 私の腕に痣を残した夜。彼の栄光は、常に私の犠牲の上に成り立っていた。彼の不在を祈り、彼の死を、心のどこかで願ってしまったことさえあった。
それが今、目の前で眠る男は、空っぽの器になっていた。
私の知識と技術を使えば、彼の記憶を取り戻す手助けができるかもしれない。封じ込められた過去への扉を、少しずつ開けてやることができるかもしれない。それは、精神科医としての私の使命であり、倫理だった。
けれど。
けれど、もし、このまま彼の記憶が戻らなかったとしたら?
この、空っぽの器に、新しい人格が宿ったとしたら?
私を殴ることも、罵ることも知らない、ただ穏やかなだけの男として、彼は再生するのではないか?
それは、神が私に与えた、罰なのだろうか。
それとも救いなのだろうか。
ふと、玲司が身じろぎをし、うっすらと目を開けた。彼は、暗闇の中で不安げに私を探すと、か細い声で言った。
「……美咲さん」
私の名を呼ぶ、その声の響きには、かつての支配的な色はひとかけらもなかった。
「俺たちは……その……どんな夫婦、だったんですか」
沈黙が、病室の空気を満たす。
ここで真実を告げるべきか。あなたは私を支配し、傷つけ、私はあなたを憎んでいた、と。
その言葉が、喉まで出かかった。
だが、私の唇からこぼれ落ちたのは、完璧な嘘だった。
「とても、愛し合っていました」
私は、自分でも驚くほど穏やかな声で、そう言った。そして、彼の無骨な、けれど今は何の力も感じられない手に、そっと自分の手を重ねた。
「あなたは、いつも優しくて。世界で一番、私を大切にしてくれる人でした」
私の唇からこぼれたのは、戸籍上の姓である『高嶺』ではなく、医師としての私が守り続けてきた、旧姓の『船越』だった。それは、ほとんど無意識の自己防衛だったのかもしれない。『高嶺美咲』は、あの男に殴られ、支配されてきた女の名前だ。目の前の、この無垢な男を前にして、私は、もうその名を名乗りたくはなかった。
その瞬間、彼の瞳が、初めて潤んだように見えた。安堵の色だった。
そして私は、悟ったのだ。
これは、神が私に与えた、選択の機会なのだ、と。
過去という名の怪物を、氷の牢獄に閉じ込めたままにするか、あるいは、再びこの世に解き放つか。
その鍵は、この私ひとりが、握っているのだと。
私の最初の治療は、夫の記憶を治さない、という形で、その夜、静かに始まった。
二
退院後の玲司は、私の知らない男だった。
リビングの窓から差し込む柔らかな光の中で、彼は、私が育てている観葉植物の葉を、一枚一枚、慈しむように指で拭っている。かつての彼なら、そんなものに一瞥もくれなかっただろう。彼の視界にあったのは、常に、まだ見ぬ高峰の頂だけだったから。
「美咲さん」
彼が、私を呼ぶ。その声には、以前のような命令的な響きはない。ただ、穏やかで、少しだけ甘えるような色合いがあった。「この子の名前は、なんて言うんだい」
「モンステラよ。熱帯の植物」
「モンステラか。いい名前だ。俺は、こいつの名前も忘れてしまっていたんだな」
寂しそうに笑う彼の横顔に、胸がちくりと痛む。私はその小さな痛みをやり過ごすように、コーヒーのカップを口元へ運んだ。
私たちの新しい日常は、嘘で塗り固められた、ガラス細工の工芸品のように静かで、そして脆いものだった。
玲司は、自分の過去について知りたがった。私は、精神科医としての知識を総動員して、彼に都合のいい「物語」を語って聞かせた。
「あなたは、山では厳しいけれど、家に帰ると、とても優しい人だった」「私たちは、よく二人で映画を観に行ったわ。あなたは決まって、私の好きなラブストーリーを選んでくれた」「喧嘩? 一度もしたことなんてない」
一つ嘘をつくたびに、私の心の上には、薄い氷が張りつめていく。玲司は、私の言葉を聖書のように信じ、その「優しい夫」の役を、懸命に演じようとしていた。彼は私が少しでも眉をひそめると、怯えたように「すまない、何か間違ったことをしただろうか」と尋ねるようになった。その姿は、かつて彼の顔色を窺っていた、かつての私自身の鏡像のようだった。
本当の過去は、招かれざる客のように、時折、私たちの静寂を乱しにやってきた。
ある週末の午後、テレビで彼のドキュメンタリー番組の再放送が始まった。8000メートル峰を無酸素単独登頂した際の、荒々しい彼の姿。雪と氷にまみれ、神々を睥睨するような、傲岸な光を宿した瞳。リビングでそれを見てしまった玲司は、茫然と立ち尽くした。
「……これが、俺……?」
信じられない、という声だった。まるで、自分とはまったく違う、凶暴な肉食獣でも見るような目で、画面の中の英雄を見つめている。
私は、平静を装ってリモコンを手に取り、テレビを消した。
「昔の話よ。あなた、こういう番組、嫌いだったでしょう。自分の功績をひけらかすのは、美しくないって」
「……そう、だったのか」
彼は、私の嘘に、安堵したように息をついた。画面の中の怪物と、今の穏やかな自分との間に引かれた境界線に、心底ほっとしているように見えた。私は、彼の過去を消し去る看守であり、新しい物語を創造する神でもあった。その背徳的な全能感は、罪悪感と表裏一体の、甘美な毒のように私を侵していった。
玲司の支配から解放されたことで、私の生活にも変化が訪れた。
これまでは彼の気まぐれな帰宅に合わせるため、いくつかのクリニックを転々とする臨時雇いの立場に甘んじていた。だが、もうその必要はない。私は、大学病院の精神科で、常勤医として腰を据えて働くことにした。患者と深く向き合い、カンファレンスで意見を戦わせ、最新の論文を読み漁る。そこは、嘘のない、真実と論理だけで構成された世界だった。自分自身の足で立っているという確かな実感だけが、玲司と暮らす家で張りつめていく氷を、かろうじて溶かしてくれる唯一の熱源だった。
季節が、秋から冬へと移り変わる頃。
その日、私は医局長に呼ばれていた。いくつかの症例報告と論文が評価された結果、来年度から、専門外来の責任者の一人を任せたい、という内示だった。それは、臨時雇いの立場では決して望めなかった、正規の医師としてのキャリアの、大きな一歩を意味していた。
ありがとうございます、と深く頭を下げながら、私の心は歓喜とは別の、静かな動揺に揺れていた。
その夜。正式な辞令の書かれた封筒をバッグにしまい、私は自宅のマンションの前に立っていた。見上げると、リビングの窓に、温かい光が灯っている。あの光の下で、玲司が私の帰りを待っている。私が作った嘘の物語の中で、穏やかに、私だけを信じて。
正規雇用の話を受けるということは、医師「船越美咲」としての人生を、本格的に歩み出すということだ。家庭よりも、仕事を優先しなければならない日も来るだろう。学会で家を空けることもあるかもしれない。
記憶を失う前の玲司なら、決して許さなかっただろう。
今の、優しい彼なら、きっと「頑張って」と笑ってくれるに違いない。
なのになぜ、私の足は、鉛のように重いのだろう。
この温かい光の中に安住するためには、医師としてのキャリアを諦めるという選択肢もある。優しい夫に尽くす、幸福な妻として、このまま生きていくこともできるのだ。
どちらが、私の本当の幸福なのだろう。
バッグの中の封筒が、まるで時限爆弾のように、私の未来の選択を静かに、しかし有無を言わさず迫っていた。
三
結局、その夜、私は玲司に正規雇用の話を切り出すことができなかった。偽りの平穏が、ガラス細工のように美しいものであるほど、それを叩き割る最初の一撃を、私は躊躇してしまったのだ。
均衡が崩れたのは、それから数日後の、冷たい雨が窓を叩く夜だった。私が少し残業をして帰宅すると、リビングのソファで、玲司が膝を抱えるようにして座っていた。部屋の明かりもつけず、その姿はまるで、嵐の夜に道を見失った子供のようだった。
「玲司さん? どうかしたの?」
私の声に、彼はびくりと肩を震わせ、ゆっくりと顔を上げた。その瞳は、これまで見たことのないほど、深く揺れていた。
「……夢を、見た」
彼は、絞り出すように言った。
「白い闇だ。どこまでも、真っ白で……音が、ない。風の音じゃない、もっと……空気が叫んでいるような、音。指先の感覚がなくなって……誰かの名前を叫んでいるのに、声が出ない。そして、思ったんだ。『ここで死ぬわけにはいかない』と。『まだ、あの頂に――』」
私の心臓が、氷塊に掴まれたように冷たくなった。
脳が冷静に「外傷記憶の再体験(トラウマ・リイナクトメント)」という診断名を弾き出すより早く、身体が恐怖に反応する。あの、頬を掠めた破片の鋭い痛みが、幻のように蘇った。
「ただの夢よ」私は、自分に言い聞かせるように、努めて明るい声を作った。「疲れているのよ、きっと」
「そうだろうか……」彼は、まだ自分の手のひらを見つめている。「でも、妙にリアルだったんだ。あの、指先の感覚のなさが……。それと、あの感覚……何かに、しがみついているような……」
その時だった。彼の視線が、リビングの壁に飾ってある一枚の写真に、吸い寄せられるように注がれたのは。穏やかな湖畔で、二人で微笑んでいる、当たり障りのないスナップ写真。だが、その背景の、遠くに霞んで見える山の稜線に、彼の目が釘付けになっていた。
彼は何も言わなかった。ただ、その山の輪郭を、指で、虚空になぞっていた。そして、ぽつりと、誰に言うでもなく呟いた。
「……ナイフリッジ……」
それは、私が知らない言葉だった。穏やかなだけの男からは、決して出てくることのない、鋭利な響きを帯びた言葉。
彼は、我に返ったように、はっと口をつぐむと、怯えた目で私を見た。
「……すまない。俺は、今、何を……」
混乱する彼を前に、私は凍りついていた。
ああ、だめだ。この人は、私が作った優しい物語の登場人物なんかじゃない。彼の魂の根っこには、山の神々に挑み続けた男の、どうしようもない本性が、深く、深く、刻み込まれている。
私は、彼を安心させるように、その背中を優しく撫でた。
けれど、心の中では、冷たい決意が、静かに形を成し始めていた。
いつ目覚めるか分からない怪物の寝顔を覗き込むような生活は、いずれ私を壊してしまうだろう。
私が作った、この美しい嘘の楽園を。
この手で、終わらせるしかないのだ。
翌日、私は医局長室のドアをノックした。
「先生。先日お話しいただいた、専門外来の件、ぜひ、お受けしたいと思います」
そして、続けた。
「その上で、一つ、お願いしたいことがあるのです。私の夫の……高嶺玲司の治療を、本格的に開始したいと思います。これは、医師としてではなく、一人の患者の家族としての、お願いです」
それは、パンドラの箱を開けるための、鍵だった。
四
玲司の治療が始まってから、家の空気は静かに、だが確実に変わっていった。
主治医の佐伯部長は、玲司が失った過去を、客観的な事実として再教育していった。カウンセリングから帰ってくると、玲司は口数が減り、書斎に籠もることが多くなった。そこには、治療のためにと運び込まれた、彼の過去の栄光の残骸――トロフィーや、写真、遠征の記録フィルム――が、墓標のように並べられている。
ある夜、私が書斎を通りかかると、彼は真っ暗な部屋の中で、プロジェクターが壁に映し出す、古い8ミリフィルムを、食い入るように見つめていた。音のない、荒い粒子の映像の中、雪と氷にまみれた若い男が、獣のように喘ぎながら、氷壁を登っている。その姿は、英雄というより、何かに憑かれた殉教者のように見えた。
「……わかるんだ」
彼は、私の視線に気づかぬまま、呟いた。
「この写真を見ていると……わかる。この岩のどこにハーケンを打ち込み、どのクレバスを避けて進むべきか……。頭は空っぽなのに、指先だけが、氷壁の感触を思い出そうとしているんだ」
その横顔に、私は息を呑んだ。
彼の瞳に、あの光が、ほんのわずかに、しかし確かに、蘇っていたのだ。無垢な草食動物のそれではない。獲物を見据える、猛禽の光。山の神々と対峙してきた男の、傲岸な光だった。
恐怖が、私の背筋を駆け上がった。
戻ってくる。あの男が。
けれど、その恐怖の奥底から、奇妙な安堵が湧き上がってくるのを、私は止められなかった。
そうだ、それでいい。早く戻ってくればいい。そうでなければ、私は、あなたを捨てられない。そうでなければ、私は、自由になれない。
季節がひとめぐりし、最初の雪が街を白く染めた日。
カウンセリングを終えた玲司が、私の診察室にやってきた。
「美咲さん」
その声は、以前とは明らかに違っていた。穏やかだが、芯のある、落ち着いた響き。
「思い出したんだ。一つだけ」
数多の混沌とした記憶の断片の中から、ついに、一つの完全な情景が浮かび上がってきたのだという。
「君と、初めて会った日のことだ。……ヒマラヤの、ベースキャンプだったろう?」
私の心臓が、大きく跳ねた。
「高山病で倒れたシェルパを、君が冷静に処置していた。周りがパニックになる中で、君だけが、静かだった。その姿が、まるで……雪の中に咲く、一輪の花みたいで……。俺は、見惚れてしまったんだ。……合っているか?」
私は、何も言えなかった。ただ、頷くだけで精一杯だった。
彼が思い出したのが、私を殴った夜の記憶ではなく、私を愛した、最初の記憶だなんて。
ああ、神様。なんて残酷なことをなさるのですか。
私が壊そうとしているのは、ただの怪物ではなかった。私を、心の底から愛してくれた、一人の男の記憶でもあったのだ。
私は、彼に微笑み返した。それは、私が人生でついた、最も哀しい嘘の笑顔だった。
「ええ。……合っているわ」
物語の終わりは、もう、すぐそこまで来ていた。
五
玲司が失われた大陸のすべてを取り戻したのは、それからひと月ほど経った、風の冷たい夜だった。
引き金となったのは、私の腕に残っていた、古い火傷の痕だった。夕食の準備中、熱い鍋の縁が偶然そこに触れてしまい、私が小さく呻き声を上げたのを、彼は見逃さなかった。
「……その傷」
彼は、私の腕をそっと掴んだ。その声は、ひどく掠れていた。
「……どうしたんだ、その火傷の痕は……違う、俺は、知っている……。これは……俺が……」
彼の瞳が、激しく揺れ始める。記憶のダムに、ついに決定的な亀裂が入った瞬間だった。濁流のように、封じられていた映像が彼の脳内になだれ込んでいく。遠征の苛立ちから、熱いコーヒーの入ったマグカップを壁に投げつけた夜。飛び散った飛沫が、私の腕を焼いた、あの夜の記憶。
そして、全てが繋がっていく。
罵声。暴力。私の怯えた瞳。彼が不在の間に、私が安堵していたこと。彼が死んだかもしれないと聞き、心のどこかで解放感を覚えてしまったこと。そして、私がついた、あまりにも優しい嘘の、本当の意味。
「……ああ……」
彼は、私の腕を放し、その場に崩れ落ちた。顔を両手で覆い、その肩は、嗚咽とも絶叫ともつかない、獣のような声で震えていた。
それは、山の神々さえねじ伏せた男が、初めて見せた、完全な敗北の姿だった。
しばらくして、彼は顔を上げた。
その瞳には、もう光はなかった。かつての傲岸な光も、記憶を失っていた頃の無垢な光も。そこにあるのは、底なしの暗闇と、自分自身への深い絶望だけだった。
「……すまなかった」
床に額をこすりつけんばかりに、彼は頭を下げた。
「俺は……君に……なんてことを……。許してくれとは、言えない。言えるはずがない。だが……」
私は、静かにその言葉を遮った。
「玲司さん。顔を上げてください」
私の声は、自分でも驚くほど、穏やかだった。恐怖も、憎しみも、憐憫もなかった。ただ、凪いだ湖面のような静寂が、私の心を支配していた。
「私たちの夫婦関係は」と、私は続けた。「まるで、無響の峰のようでした」
「……むきょうの、みね……?」
「ええ。どんなに叫んでも、愛していると叫んでも、助けてと叫んでも、決してやまびこが返ってくることのない、静寂の頂です。あなたは、いつもあなたの頂だけを見ていて、私の声は、あなたには届かなかった」
彼の瞳が、苦痛に歪む。
「あなたが記憶を失っている間、私は幸福でした。それは、あなたが優しかったからだけじゃない。あなたという峰から下りて、私は初めて、自分の声を聞くことができた。医師として、一人の人間として、どう生きたいのかを。……あなたが変わってくれたから、私は、私を取り戻すことができたんです」
私は、テーブルの上に置いてあった、一枚の封筒を手に取った。病院のロゴが入った、辞令の封筒。
「私は、この春から、専門外来を任されることになりました。ずっと、やりたかった仕事です」
そして、もう一枚、別の書類を彼の方へと滑らせた。白く、冷たい光を放つ、一枚の紙。
「……離婚届……」
彼の声が、震えた。
「……嫌だ。別れたくない。もう二度と、君を傷つけたりはしない。償わせてくれ。これからの人生の全てをかけて、君を……」
「いいえ」私は、はっきりと首を振った。「これは、罰じゃないんです。あなたへの罰でも、私からの復讐でもない。これは、私たち二人にとっての、解放なんです」
私は、彼の前に、そっと膝をついた。そして、記憶を取り戻す前の彼が、観葉植物の葉を拭いていた時のように、その震える手を、両手でそっと包み込んだ。
「あなたは、私の記憶の中で、ただの怪物だった。でも、今のあなたは違う。自分の罪を知り、痛みを知る人間です。だから、あなたも、もう一度、あなたの人生を生き直してください。高嶺玲司として。……山が、あなたを待っています」
私がそう言った瞬間、彼の瞳から、一筋、涙がこぼれ落ちた。
六
一年後。
私は、専門外来の責任者として、忙しいながらも、満たされた日々を送っていた。白衣の胸ポケットには、「精神科医 船越美咲」と記された身分証。それは、私が私の力で勝ち取った、誇りの証だった。
玲司のその後を、人づてに聞いた。
彼は、山には戻らなかった。栄光も、記録も、すべてを捨てた。今は、故郷の小さな町で、登山ガイドの傍ら、子供たちに山の安全な歩き方を教える活動をしているという。二度と、誰も遭難させないために。誰も、自分のような過ちを犯さないために。
私たちの道が、再び交わることはないだろう。
けれど、あの最後の夜、彼がサインをした離婚届を手に、静かにこの家を出ていく後ろ姿を見送りながら、私は、確かに感じていたのだ。
これは、悲劇ではない、と。
愛し合った二人が、互いを縛る鎖を断ち切り、それぞれの足で、それぞれの頂へと歩き始めた。
それは、絶望の果てに二人で手にした、静かな到達点だったのだと。
窓の外では、春の光が、新しい季節の訪れを告げていた。
私の登るべき、険しくも美しい人生という名の峰は、まだ、始まったばかりだった。
(了)
無響の峰 銀 護力(しろがね もりよし) @kana07
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