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@Yoyodyne

第1話

妻の母と同居していた。妻とは別居している。子供は2人。一卵性双生児で男女。名前の読み方がわからない。妻に聞いても教えてくれなかった。妻の母は認知機能が平均的老人よりも急速に衰え介護を必要としていた。妻は「家庭や老い先短い老人に縛られたくない。わたし浮気がしたいの。」と言ったきり子供を連れて出てくと着拒し家族ライングループからわたしを追放した。しがらみがなくなったわたしは深酒をするようになった。鏡月は中学生以来飲んだことはなかったがこの銘柄しか嗜んだことはなかったので一瓶買うと中の透明な液体をコップに注ぎ氷を入れ飲んだ。意識が朦朧としてソファーにへたり込んでいると妻の母が鏡月をラッパ飲みしながらグビグビ飲んでいてそれをぼんやり眺めた。わたしは手元のマイスリーを噛み砕くと酒で流し込む作業を続けた。


ある日多めに向精神薬を致死量超えて服用して寝たが目覚めても死んではなかった。寝れないと医者に言い続けているとマイスリーからサイレースに処方薬は変わっていった。朝目覚めるとわたしは妻の母の亡骸を見た。近くの公衆電話に向かうと妻に電話をかけた。わたしの声だと分かると切ろうとしたがわたしは「いいニュースがある。朗報だ」と言って思いとどまらせた。後ろでは若い男の声が聞こえる。始めわたしのなけなしの独占欲からくる幻聴かと思ったがどうやらそうではなかった。「君の母親が死んだんだ」声色が変わり機嫌が良くなったのがわかる。「そうなの?ほんと?」元々誰が誰だかわからない状態になる前から妻と妻の母は折り合いが悪かった。妻の母に付いた内出血の跡から察するにボケてからは虐待もしてたのだろう。「ただ問題がある」わたしは経緯を話した。資産家の娘で注目を集めるのが妻は好きではなかった。わたしが"不注意"で酒を飲ませて死んだとなれば遺産欲しさに夫婦で計画を立てたのでは?とか噂が立ち主に直前に間男を(公言してたけど)つくった妻が疑われるのは必至だった。それにわたしは介護を一身に請け負っていた頃に妻の母に自分に都合のいい遺書を作成させていた。社のトップに先立たれ表向き責任者(なんの実権もない名ばかりのものではあったけれども)であった妻の母は法律でいうところの判断能力が欠けていたことは秘密にされていた。経営陣が自社の株価の不安定化を嫌った結果の決定でありこれからもその事実が明らかになることはないだろう。そんなことしても誰の得にもならない。この遺書と妻の弱みを取引材料にする腹づもりだった。「ここでする話題じゃない。カフェで待ち合わせしよう。」わたしたちがまだ青春を謳歌し恋愛の優位性を信じてた頃、性玩具代わりの人間を物色してたのがこのカフェだった。よくあるフランチャイズの店で駅前に構えていたので人の出入りが多くうってつけだった。わたしたちはまだ若くやんちゃだったのだ。わたしは回想の場面を青年期に移した。

その日は蒸し暑く三角コーンが湯気をたてて次々に溶けていき、太っちょが自分の汗で溺死するニュースが流れていたと記憶している。それか、静寂も凍りつくような寒夜のことだったかもしれない。その日も、小学校低学年に見える子供をロープで縛り上げ、嫁入り道具である衣装ダンスに仕舞い込むと、夕方までの暇を潰すために街を散策しながら通行人たちに話しかけていた。


「ナイフで刺していいか」

「いやだ。」

「わかった」


「ナイフで刺していいか」

「いいぞ。ちょうど死にたい気分だったんだ。」

「殺すとは言ってないけどまぁ殺すつもりだったから契約成立ってことで」ぶずずずずずず‥[近くもないがここから視認できるほど遠くもない通りの真ん中━中央分離帯を股にかけ老人と犬がアスファルトの上に捨てられた喰いさしのハンバーガーを巡って死闘を繰り広げていた。今はなき80円のハンバーガー(消費税なんて当時はなかった。脱法ハーブ、やたらキレる17歳もいなかった。フリーセックスとニューエイジと赤色テロル、それにいつの時代も存在する児童売春━子供たちの欲望はいつの時代も非現実的で資金に見合っていない。手元に満足いく資金が集まる頃には老いさらばえて手遅れになっている。そのモメントの埋め合わせのため性産業が必要とされた━これだけあれば充分だった)。その直後に変動相場制に移行しそれに合わせて元々ないようなハンバーガーの価値と値段は滑り落ちるみたいに下落していった。それも長くは続かず、バブルが弾けると同時に円の価値が下落し相対的に価格は釣り上がった。犬はタマネギで自殺でもするつもりなのだ。そっくりそのまま食べても致死量に達するか疑問だが。犬もそれを理解しているのだろう。今度は手段を老人に変え、わざと手加減しながら挑発し波状攻撃を繰り出している。2つの生物体の混乱した需要のおかげであの黒く変色したハンバーガーの使用価値は乱高下していた。]

男はまだ意識があった。刺した方は相手が死んだと思い満足するとその場を早足でしかし決して駆けずに立ち去った。「ちょっと」とわたしは声をかけられた。面倒事に巻き込まれたくないのでその場を去ろうとしたがかといってよくよく考えればすることもないため彼に近寄った。「なんだ」「刺し直して欲しいんだ。死ぬように。」「どこに刺せばいいんだ。希望はあるか?」「痛すぎてそれどころじゃない」そりゃそうだ。「わかった。とりあえず死ぬまで数ヶ所刺してみるよ。」「ありがとう。早めにしてほしい。なんだか死ぬのを後悔し始めたみたいだから。」自分のことなのに他人のように話す奴だと考えながら一定感覚で機械的に刺していった。[通りでは老人が犬に今にも折れそうな枯れ木のような細腕にわざと噛ませ、杖の破損し尖った金具部分を犬の首に押し当てると消し飛びそうな体重をかけて倒れ込んでいるとこだった。]動脈を刺せば血が噴き出て返り血浴びる羽目になる。そう思い、肩ばかり刺していると結構血が流れ出たみたいで他の部位も刺して大丈夫なように見えてきた。何回目で死んだかわからないが血溜まりの中でもう生きてるようには見えなかった。血に混じって糞の匂いが漂っており、鮮血と黒い血が混淆して近くの側溝に触肢を伸ばしていく。犬は虫の息で虚構中とは言え命をもて遊ぶわたしを恨めしそうに見つめているように思えた。わたしは勿論口に出さず答えた。キャラクターはそもそも生命を持っていない。それ故に生の苦痛を感じることがない。これは恩寵であり生同様死にも重大な問題は存在していないのだ。ここでの死は終わりではない、始まりがないのだから。他者の快楽と苦痛が可能になる領域である意識は主体からは常に類推としてしか把握することはできない。表象としては存在するが物自体は空無で全く存在しないというのは引用符の付いた生の理想的な形態である。(実際は近眼のため吠えない犬は投棄された粗大ゴミにしか見えなかった。)犬は納得いかず不満気に唸ったみたいだった。そもそも物語はある程度形成されてしまえば作者の制御から逃れて自分自身で勝手に物語を造り始める。わたしにクレームをつけられてもどうすることもできないのだと言い訳しようとした。しかし…頭に老人が杖を振り下ろし犬はおそらく絶命したのだろう、それっきり動かなくなった。転倒した時の衝撃で折れたのだろう老人の片腕はありえない方向に曲がっていた。ハンバーガーを拾い上げるとびっこを引きながら水平線の先、平行線が交わる点に消えていった。動機も計画も存在していない。あるとしても一般に還元できるものじゃないのだから説明したところで理解できるわけがない。行為の当事者が動機を作るわけでない。作るとしてもそれは動機を求められた時にする言い逃れのためのでっち上げで真の動機なんかではない。動機は他者が因子になって作られる。蝿が集るような腐った思弁と糞の香りに吐き気を催したわたしは駅に向かい吐くのに最適な箇所を目につく限りで探した。自販機の裏。女学生の頭。バッグを枕に処女みたいな寝息を立ててるサラリーマン。改札を抜け、ホームに向かう。余裕のなかったわたしの想像力は便座を失念していた。結局手当たり次第に吐き回って歩くと嘔吐の勢いが弱まっていき嗚咽だけが後に残った。痒いところに手が届かない感覚から逃れるために再度口に指を突っ込んで喉奥でこねくり回すとバルブみたいなものに触れた気がして目を覚ました。現実から夢への境がなくなることはこれまでもよくあった。不眠の症状と睡眠薬の副作用どちらの影響下にもあったので、どちらが原因なのかはわからないし、取り立てて興味もないので取り立てていつも処方箋を書いてくれるかかりつけ医に聞こうとも調べようともしなかった。ディエビゴと書かれればディエビゴをマイスリーと書かれればマイスリーを受け取り飲んだ。今ならサイレース。作用機序を全く推量させない清潔さが薬品名にはあった。マリファナの品種にあるような人間臭さもLSDアナログにあるような命名することを放棄した効用以外の無関心とも違う完成されたブランド性からは、アイドルに似た魔術を感じる。妻と出会った時のことを思い出そうと努めたが、老人と犬の争いや嘔吐よりも重要じゃないらしく思い出せない。わたしは回想することに時間をあまりかけれるわけでもないので放棄して妻のいるカフェに向かった。過去をふりかえってわかったことといえば青年期から疲れているってことだけだ。懐かしいカフェの名前に『で待ってる』という文を繋げただけの素っ気ないラインが先程届いたのを通知で知った。それだけなのだが、数年ぶりの妻からのラインは何か特別な感じがした。


カフェでは「君の母親の遺したものまで引き取って面倒みるつもりはないよ。」とはっきり伝えた。すると妻は「当然ね。問題を先送りにしてなんとか現状維持できる方法を探しましょう。タイミングの悪い不必要な莫大な遺産はむしろマイナスにしかならないわ。それも母がこの世から消えたメリットを遥かに凌駕するほどの。」と言い、黙ってこちらを見つめてきた。相手が話している内容を理解したと見做せば即時会話をぶつ切りにして語尾を最後まで言わない癖は変わっていなかった。顔は別れた後も整形手術を繰り返して徹底的に変えたようだ。名前を初め見た時は代理の者を寄越したのだと思った。


寝ているソファーは裂け目から黄色いスポンジがハミ出している年代物である。部屋の一面だけがアプリコットのカーテンで仕切られた身長より一回り大きいだけの部屋で固有の特徴を伝えるものが一切見当たらない。ここがどこなのか見当もつかない。どこにでもありそうな空間ほど不気味で非現実的に思える。ここもそういう類の場所だった。天井には通気口があって空調機の一定周波数のノイズが聞こえてくる。それ以外は取り敢えずなにも聞こえない。まだ夢を見ているのかもしれない。上記の理由あって夢を夢だと判別できない自分の感覚を完全に信用することはどだいとまではいかなくとも無理な話だ。カーテンに触れてみる。夢であればカーテンレールから一気に根こそぎ引き抜き布団代わりに二度寝でもするんだがと思案した。夢の論理に付き合うつもりはなかった。それほど酷く疲れているわけで、この状況に動じたり打開策を模索する余裕等ないのが本音であり、これまでもこの先もこんな本音しか述べるつもりはない。「…さーん」と名前を呼ばれる。…の箇所は不明瞭で聞き取れなかったが、自分の名前を呼ばれたことがわかる。もう一度呼ばれる。声の主は次第に近づいてきているようだ。頬を冷や汗がつたう。目の前にあるのは鉄格子などではない。薄い布が一枚あるだけだ。出たいときにいつでも出れるはず。しかし、身体は一向に動く気配がない。倦怠感。それだけではない。薄膜の向こうで人間のように振る舞っているもの。それに生物的な恐怖を抱いている。そう思う。今、カーテンの向こうから透けて黒い影が目の前に浮かび上がっている。夢ではない。一向に変わらぬ調子で「…さーん」と言いながら黒い影はカーテンの左端に手をかける。夢なら鉄格子ならとそんなたらればが脳裏を過る。恐らく事態の底に迷い込んだのだろう。思い出しそうで思い出せず、何を思い出そうとしてたかも思い出せない時、そいつは事態の底についた。度々そんな話を耳にした。これがそうだとしたら、わたしに起こるであろう結末はわかっている。ぬふあうと右にゆっくりとカーテンが引かれ、影が━━


「ねぇ、聞いてるの?」妻が肩をつついている。目の前には、手の付けられていない冷めたナポリタン。妻の後ろにある窓からは駅で見かけた女子高生が恨めしそうこちらを睨んでに立っている。その頭や肩には嘔吐物が付着している。それを眺めながら、妻に気のない返事をする。妻は電話で話したようにわたしに一任するつもりらしい。妻の母は、我が家の居間で今も腐敗臭を漂わせている。とりあえず、死亡届の提出期限が過ぎるまで様子を見ると私は言った。提出しない場合の過料は最大でも5万円。死体遺棄の罪に問われれば過料はない。コストと手間を考えれば、そうするのが定石である。わたしは妻の持ってきた離婚届けに捺印し、妻の母の遺書に同意するなら責任を持って放置することを伝えた。それを聞くと妻は満足したのかほほ笑み、2人分の会計をすると早々と店を後にした。妻は女子高生と鉢合わせし簡単な会話をした後、一度こちらに振り返り、雑踏に飲み込まれた。もう二度と会うことはない。妻と街ですれ違っても、わたしは気づかない、妻の名前をニュースで見かけてもわたしにわからないだろう。わたしは一人テーブルに残され、ナポリタンを口に運び、味のしないそれをゆっくり咀嚼した。女子高生はまだこちらを睨めている。


カフェでたっぷり3時間かけてナポリタンを食べ、帰路についた。これからは妻の母だったものと同居しなければならない。わたしの思う通りにはいかなかった。わたしの人生は計画に沿った試しがない。それを忘れていた。長年苦労して妻の母に書かせた遺書は何の意味もなかった。最早、錯誤に満ちた記憶の集積でしかない妻を目の前にしただけで口に粘液質の観念が満ち、自発的に口を開くことができなくなった。カフェでの妻への応答は全て妻がわたしの口を借りて話したに過ぎない。悠久の妄想の中で妻の母を処理しながら何度もわたしと妻は和解した。これらの摘要はわたしにとって1個の事実(というよりかは法則のようなもの)になり、現実は台本を忠実に演じるかの如くそれに従うだろうと考えていた。実際は、話が妻の都合の良い方向に進み、切り札であるはずの遺書の内容も一顧だにせず、他者のほほ笑みを貼り付けて、妻は目の前から消えた。遺されたのは無意味な文章の羅列で法的効力を持つかも怪しい代物だ。家に入ると先ずわたしは生ゴミの溜まったシンクに赴き、封書にオイルを書けて、ライターで火をつけた。どちらもzippo社製のものだ。既製品、非売品の蛋白質が炭化しビニールの溶けた甘い匂いと腐敗臭が混ざる。白目のナザールボンジュウが「火事です。火事です。」と女性を模した機械音声で鳴く。電池が切れてないことに驚きながらもモノクロの坩堝の中へ遺書が呑み込まれたのを確認するとカランから水を出した。水道はまだ止められていなかった。水は排水口に流れず溜まる。

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