第8話 線を引く者たち

 夜勤明けの警部補は、コーヒーの温度に驚いた。


 思ったより熱い。

 それだけで、神経が張り詰めているのが分かる。


 交番の裏口を出ると、朝の空気が肺に冷たい。

 眠気はある。だが頭は冴えている。冴えすぎている。


 ――昨夜も、何も起きなかった。


 それが三日続いている。

 通報はある。現場にも行く。

 だが毎回、「起きる前」に終わっている。


 終わっている、という表現は正確ではない。

 **最初から起きなかった形に整っている**。


 警部補は、駅前の喫煙所で立ち止まる。

 煙を吸い込み、吐く。

 視界の端で、巡査が二人、同じ話をしている。


「……また未遂?」


「未遂って言うか……未満」


 言葉を探している声だ。

 探しても見つからない。


 署に戻ると、デスクの上にファイルが三つ増えていた。

 昨夜分。

 どれも薄い。

 薄いのに、重い。


 警部補は一つを開く。


 商店街。

 時間帯。

 人通り。

 被害者になり得た人物。

 ――そして、「異常なし」。


 もう一つ。

 住宅街。

 自転車で帰宅中の女性。

 背後に不審者。

 距離が詰まった瞬間、**なぜか女性が進路を変えた**。

 不審者は確認できず。


 三つ目。

 駅構内。

 エスカレーター。

 押し込み未遂の疑い。

 だが映像には、**押し込もうとした人物が存在しない**。


 警部補は、ファイルを閉じる。


(……一致しすぎだ)


 偶然は散らばる。

 だがこれは、**同じ形で整えられている**。


 昼前、署内がざわつく。


 課長が廊下を歩いてくる。

 声を潜めた会話が、途切れる。


 警部補は呼ばれた。

 小さな会議室。

 だが、会議は始まらない。


 課長は椅子に座らず、窓際に立つ。

 外を見たまま言った。


「最近の“未発生案件”だが……」


 言葉を切る。

 慎重すぎる間。


「これ以上、深追いするな」


 警部補は顔を上げる。


「理由は?」


 課長は振り返らない。


「説明できないことを、

 説明しようとすると――事故が起きる」


 それは警察の言葉ではない。

 だが、否定もできない。


「現場の巡回は続ける。

 だが、原因追及は打ち切る」


「……打ち切る、というのは」


「**線を引く**」


 課長はようやく振り返った。

 その目に、疲労が滲んでいる。


「踏み込まない線だ。

 誰も越えない。

 越えた者がどうなるか、分からない」


 警部補は、喉が乾くのを感じた。


「分からない、というのは……」


「分からないから、越えない」


 それで話は終わりだった。


 会議室を出ると、

 同僚たちの視線が集まる。


 誰も質問しない。

 答えが出ないと、分かっている。


 夕方、警部補は巡回に出る。


 商店街。

 昨日と同じ。

 人の流れ。

 笑い声。

 油の匂い。


 だが、足が自然と止まる場所がある。


 ――出口付近。


 理由は言語化できない。

 だが、**ここから先は見るな**と身体が言っている。


 警部補は、半歩だけ下がる。


 それを、巡査が見ていた。


「……ここ、気になります?」


「……気にするな」


 警部補はそう言い、視線を逸らす。


 逸らすことで、

 “線”を引いたのだ。


 その夜、警部補は家でシャワーを浴びる。


 湯気の中で、思い出す。


 新人の頃、

 「おかしいと思ったら踏み込め」と教えられた。


 だが今は違う。


(踏み込まないことが、守ることもある)


 その結論に、

 納得はしていない。


 ただ、**選んだ**。


 翌日から、署内の空気が変わる。


 未発生案件は「巡回強化」で終わる。

 深掘りはしない。

 カメラの違和感も、

 “ノイズ”として処理される。


 誰も口に出さない。

 だが、全員が理解している。


 ――ここには、触れてはいけない“何か”がある。


 同じ頃。


 桐生ユウトは、研究所で実験結果をまとめていた。


 数値は安定している。

 想定通りだ。


 同僚が雑談する。


「最近、帰り道平和だよな」


「治安良くなったんじゃない?」


 ユウトは頷かない。

 否定もしない。


 ただ、キーボードを打つ。


 彼の世界では、

 **線は最初から引かれている**。


 巻き込む害意は消す。

 それ以外は、関与しない。


 警察が線を引いたことを、

 ユウトは知らない。


 だが、結果として、

 世界は同じ線を引いた。


 それで、十分だった。

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