第3話  影響圏──世界が距離を取る

 朝の光は、昨日と同じ角度で差し込んだ。

 それでも、部屋の輪郭は少しだけ違って見えた。


 桐生ユウトは目を開け、呼吸を一つ置く。

 心拍は安定している。夢は見ていない。

 起き上がるとき、ベッドの軋みが鳴らなかった。体重が減ったわけではない。力の掛け方が、最短になっている。


 洗面所へ向かう。

 蛇口をひねると、水は即座に落ちた。音も遅れない。

 昨日あったズレが、ない。


(調整された……?)


 考えは浮かぶが、結論は出さない。

 歯ブラシを口に入れ、鏡を見る。焦点が深い。肌理が細かい。見慣れた顔だが、情報量が増えている。

 増えた情報を、脳が自動で整理している。


 キッチン。

 皿を取り出すと、指が縁に掛かる前に重心が決まる。

 包丁を持つ。刃の向き、距離、抵抗。**危険は起きない前提**で処理される。


 玄関で靴を履く。

 紐の結び目は、また同じ形になった。


 外に出ると、朝の通勤の流れが始まっている。

 人は多い。だが、ユウトの前には**半歩の空白**がある。誰かが避けたわけではない。流れが、そう組まれている。


 交差点。

 横断歩道の白線に足を乗せた瞬間、対向の自転車が減速する。

 ベルは鳴らない。目も合わない。

 **衝突の確率が、先に消える。**


 コンビニ。

 自動ドアは、歩幅に合わせて開く。

 棚の前で、欲しいものが先に目に入る。

 レジに並ぶと、前の客が会計を急がせず、後ろの客が距離を取る。

 店員の手が一瞬止まり、次の瞬間、何事もなかったように動く。


 「……ありがとうございました」


 声は平常。

 視線は、焦点を結ばない。


 研究所。

 ゲートの反応が早い。ログは正常。

 廊下で同僚とすれ違う。言葉を交わす前に、歩幅が揃わない。**揃えない判断**が、双方で一致する。


 実験室の入口。

 表示灯が点いている。高感度機器使用中。

 中では、誰も作業していない。


 机の上のサンプル。

 配置が変わっている。ラベルは同じ。理由は書いていない。

 ユウトが近づくと、数値が微細に揺れる。誤差の範囲。だが、**揺れ方が同じ**。


 一歩下がる。

 揺れが収まる。


 同僚が遠巻きに言う。


 「今日は……使わないよね」


 「はい」


 「助かる」


 助かる理由は、言われない。

 聞かない。


 昼。

 食堂の席が空いている。

 空いているのではない。**そこだけ、誰も座らない。**


 テレビの音が、層に分かれる。

 笑い声、金属音、アナウンサーの声。必要なものだけが残る。

 討論番組の言葉が、途中で言い換えられる。「安全」から「安定」へ。

 誰かが咳払いをして、話題が変わる。


 午後。

 共同研究のメールが来る。条件欄に一文。


 ――現地立会いは不要。


 承諾する。合理的だ。

 だが、**人が集まらない研究**は、どこかおかしい。


 廊下で上司とすれ違う。

 目が合い、合わない。


 「無理はしないで」


 無理はしていない。

 だが、その言葉は**介入の放棄**だった。


 帰路。

 スーパーの棚が一段低い。昨日は違った。

 レジの位置が、半歩奥に下がっている。

 誰のための改装か、説明はない。


 外に出ると、風向きが変わる。

 ビニール袋は絡まらない。

 交差点で、走ってくる人がいる。ユウトは振り向かない。

 **衝突の可能性が、起きる前に消える。**


 自宅。

 郵便受けに通知。設備点検。

 日時は、ユウトが不在の時間帯。


 部屋に入る。

 椅子を引いても床が鳴らない。

 照明は、ちょうどいい明るさで止まる。

 何も操作していない。


 スマートフォンが鳴る。

 知らない番号。


 「……桐生さんでしょうか」


 名乗らない声。

 低く、短い。


 「今後、こちらからの接触は行いません」


 宣言だった。

 依頼でも警告でもない。


 「承知しました」


 通話はそれで終わる。

 録音は残らない。


 夜。

 ベランダに出る。

 隣の部屋は暗い。最近、点く時間がずれた。

 遠くでヘリの音がする。近づかない。高度が下がらない。


 母からメッセージ。


『無理してない?』


 『大丈夫』


 それ以上、続かない。

 **踏み込まない優しさ**が、距離を保つ。


 ユウトは理解する。

 誰も、原因を口にしない。

 だが、全員が同じ判断をしている。


 ――関わらない方がいい。


 それは排除ではない。

 管理でもない。


 **共存のための距離**だ。


 ユウトは、介入しない。

 主張もしない。

 生活を続ける。


 すると、世界のほうが安定する。


 照明が落ち着き、音が整い、空気が均される。

 **世界が、彼の判断に合わせる。**


 彼が何かをしたからではない。

 彼が、そう在るから。


 影響圏は固定された。

 交わらず、壊れず、近づかない。


 その夜、ユウトは眠った。

 夢は見ない。


 **無駄な可能性は、最初から発生しない。**

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