異世界召喚儀式に巻き込まれたエンジニア
@valensyh
第1話
◆
深夜二時。都市の喧騒は、防音性の高いマンションの一室までは届かない。唯一聞こえるのは、換気扇の微かなモーター音と、電子書籍リーダーから放たれる控えめな光が照らす、紙幣の山のようなコミック本たちだった。
レイハンはベッドに深くもたれかかり、電子書籍の画面をぼんやりと見つめていた。彼の年齢は二十五歳。職業は航空宇宙エンジニアだ。日中は厳格な論理と物理法則の支配する世界で生きており、夜はこの異世界ファンタジーコミックの自由で無限な世界に浸るのが常だった。
『いやはや、この主人公の「勇者召喚」後のチートぶりは、もはや技術的特異点(シンギュラリティ)だろ』
そう、彼は今しがた、異世界召喚された主人公が規格外のスキルで無双する、典型的なストーリーを読み終えたところだ。物語の非現実性は、彼の疲れた脳には最高の鎮静剤だった。現実の世界では、機体の設計一つ取っても、膨大な計算と妥協の連続だ。しかし、この世界では「ステータス」と「スキル」が全てを解決する。いかに合理的で、そして、いかに非合理的か。そのギャップが、心地よかった。
エンジニアとしての彼は、常に冷静で、分析的だ。しかし、一人の人間としては、彼はとても誠実で、誰に対しても礼儀正しい、穏やかな青年だった。信仰心が厚く、その規律と道徳観が彼の内面を常に穏やかに保っていた。
電子書籍を閉じ、軽く目を閉じる。明日もまた、設計図と向き合う一日が始まる。そう思い、意識が深い眠りへと沈みかけた、その時だった。
※
静寂を切り裂く、異質な「音」がした。音というよりは、空間そのものが軋むような、重苦しい「振動」だ。
『――え?』
視界が、一瞬で純白に染まる。全身の毛穴が開き、皮膚が粟立つような、魔力としか形容しがたい、高密度なエネルギーの奔流に晒される。その感覚は、ジェットエンジンの燃焼試験場で、安全ラインを超えてしまった時のような、本能的な恐怖に近かった。
次の瞬間、床に叩きつけられるような衝撃と共に、レイハンの意識は覚醒した。
◆
そこは、まるで巨大な美術品の中に迷い込んだような場所だった。
荘厳な天井。数十メートルはあろうかという高みから、複雑な意匠のシャンデリアが、鈍い黄金の光を放っている。周囲は、緻密な彫刻が施された大理石の壁に囲まれ、床には古代の文字らしきものが刻まれた巨大な魔法陣が描かれていた。
レイハンは、その魔法陣のちょうど中心に立たされている。状況を理解しようと、彼のエンジニアとしての分析回路が全開で回転した。
『――これは、どう見ても「勇者召喚の儀式」……いや、コミックで見たものと完全に一致しているな』
彼は冷静に状況を把握した。床に描かれた魔法陣の残滓からは、まだ微かな魔力の香りが立ち込めていた。
そして、彼の隣には、困惑と恐怖、そして若干の興奮が入り混じった顔をした、十数人の若者たちが固まっていた。彼らは皆、見慣れた、日本の私立大学の制服を着ている。男性はブレザー、女性はチェックのスカート。どう見ても、現代日本の大学生の一団だ。
「な、何だここ!? どこだよ、マジで!」
「きゃあ! スマホが、スマホが圏外になってる!」
一人の男子学生が、動揺を隠せない様子で叫ぶ。その声が、広大な儀式の間(ま)に反響した。
レイハンは、彼らの反応から、彼らが自分と同じく、別の世界――現代日本から召喚されたことを確信する。彼は静かに立ち上がり、服についた埃を払った。
彼の目の前には、権威ある服を身に纏った人々が並んでいた。
一番奥、玉座に座るのは、年齢は五〇代前半だろうか、重厚な冠を被り、鋭い眼光を持つ男性。ノリン王国の王、エルドリックだろう。その隣には、白い長衣を纏い、威厳に満ちた女性――おそらく神官長か高位の魔術師だ。そして、玉座の脇には、息を飲むほど美しい、プラチナブロンドの髪を持つ若い女性が立っていた。彼女こそが、この儀式の「目的」たる、王国の姫君に違いない。
王が、その重々しい口を開いた。
「うむ……。成功したか。異界よりの客人たちよ。よくぞこのノリン王国、王都へと参られた」
王の言葉は、レイハンにとっては、まるでコミックのセリフがそのまま現実になったかのように聞こえた。しかし、その言葉の響きには、歓迎よりも安堵、そして僅かな傲慢さが滲んでいた。
その時、日本の大学生の一団の中から、一人の男子学生が前に出た。彼は背が高く、少しばかり目立ちたがりのような雰囲気を纏っている。
「あのさ、話が見えないんだけど? 俺ら、一体どういう状況? っていうか、ここはどこ!? ゲームのコスプレ大会?」
カケル、とでも呼ばれているのだろうか。彼は完全に状況を軽視している。
高位の神官長らしき女性が、カケルの無礼な態度に眉をひそめた。
「無礼な! 貴様らは、このノリン王国が、この世界の存亡を賭けて召喚した『勇者』たる存在。王の前だぞ!」
声は、静かでありながら、部屋の空気を圧する力を持っていた。レイハンは、この神官長の全身から発せられる魔力の波動を感じ取った。彼女は、間違いなく規格外の「出力」を持つ魔術師だ。
レイハンは一歩下がり、壁際で静かに状況を観察する。彼にとっては、これは一種の「未知のシステム」の解析作業だ。まず、システムのルール(ステータス、魔力)を理解し、次に、このシステムで「何が実現可能か」を分析する必要がある。
エルドリック王は、咳払いを一つ。
「まあよい。客人は興奮しているのだろう。神官長ライラよ、まずは彼らの『力』を可視化するのだ。それが最も早い理解に繋がる」
神官長ライラは、不満そうにしながらも、頷いた。
「御意。では、全員、心を落ち着かせ、目の前の空間を『意識』せよ。貴様らの魂の器、その中身を我々に見せよ」
彼女がそう告げると、その手に持った水晶玉が、鈍い青い光を放ち始めた。その光は、召喚された若者たち、そしてレイハンへと均等に注がれる。
カケルは「なんだよ、これ? ゲームみたい」と面白半分に言ったが、他の学生たちは緊張で押し黙っている。
レイハンは、言われた通りに目の前の空間を意識した。彼の意識は、彼の内側にある、見えない「情報パネル」のようなものに、意識を集中させた。エンジニアの彼にとって、「パラメータの表示」は最も基本的な作業だ。
そして、目の前に、文字が浮かび上がった。
『やはり、これはシステムか』
しかし、その表示内容は、彼自身も予期せぬものだった。
◆
まず、日本の学生たちからだ。
ライラ神官長が、一人一人のステータスを読み上げていく。
「サトウ・カケル、か。レベル:八。スキル:【火炎魔法(初級)】、【剣術(基礎)】……ふむ。まずまずの凡庸な能力といったところか。勇者としては、少々頼りないが」
「レベル八!? ってことは、俺、最初から強いってことじゃん!」カケルが喜色満面で叫ぶ。
「レベル八など、この世界の一般的な兵士の平均レベルだ」とライラ神官長は冷たく言い放つ。カケルの顔が凍りついた。
その後も、召喚された学生たちのステータスが次々と読み上げられていく。
「レベル:七。スキル:【水魔法(初級)】、【料理】」
「レベル:九。スキル:【鑑定(劣化版)】、【体術】」
どの学生もレベルは一桁。スキルも、基礎的、あるいは生活系のものばかりだった。彼らは異世界からの召喚者としては、確かに「異質」ではあるが、「特別」ではない。王と神官長たちの顔には、失望の色が濃く表れ始めた。
ライラ神官長は、玉座に座るエルドリック王に向かって、深く息を吐いた。
「陛下。申し訳ございません。どうやら、今回の召喚も、凡庸な者ばかりのようです。これで魔王軍と戦うのは……」
王は深く頷き、目を閉じた。儀式の間には、重苦しい沈黙が広がる。
その時、ライラ神官長の視線が、壁際で静かに立つレイハンに注がれた。彼は召喚された全員の中で、最も年齢が上で、そして最も静かだった。
「そこの貴方。貴方も召喚された者だろう。さあ、前に出よ。最後に、貴方のステータスを視(み)て終わりとする」
レイハンは、静かに一歩前に出た。
「承知いたしました。私は、レイハンと申します。ご指示の通りに」
その丁寧で落ち着いた日本語(異世界の言語に変換されているはずだが、彼らにはそう聞こえている)に、ライラ神官長は一瞬驚いた表情を見せた。他の学生たちのパニックとは対照的だったからだ。
ライラ神官長は、水晶玉の光をレイハンへと向けた。彼女の魔力が、レイハンの魂の器へと流れ込む。
一瞬の静寂。
そして、ライラ神官長の顔から、血の気が引いた。その表情は、先ほどの失望の色を通り越し、完全なる恐怖と、理解を超えた現象を目撃したかのような「驚愕」に支配された。
「あ……あ……」
神官長は声にならない呻きを漏らし、手に持っていた水晶玉を取り落としそうになる。玉座の王も、その異常な反応に、顔色を変えた。
「ライラよ! どうした!? 何か異常があったのか!」王が玉座から身を乗り出した。
ライラ神官長は、震える手で水晶玉を再び握りしめ、言葉を絞り出した。彼女の声は、先ほどの威厳など欠片もなく、ひどく掠れていた。
「レベル……レ、レベルが……」
彼女は、レイハンの目の前に浮かんだ、巨大な文字の羅列を、信じられない思いで読み上げる。
「『名前:Reyhan(レイハン)』『年齢:二五』『職業:無職(召喚者)』……そして、『レベル:九九九九+』。――きゅう、きゅうせん、きゅうひゃくきゅうじゅうきゅう……!?」
儀式の間が、再び静寂に包まれた。今度は、重苦しい沈黙ではない。時間が止まったかのような、絶対的な静寂だ。
日本の学生たちが、一斉にレイハンを振り返る。彼らの顔にも、驚愕の色が浮かんでいた。レベル八や九で喜んでいた彼らにとって、「九九九九+」は、もはや冗談に聞こえる数字だ。
レイハン自身も、自分の目の前に浮かんだステータスを見て、静かに分析していた。
『『九九九九+』……オーバーフローか、あるいは計測限界を超えたという意味合いだろう。この世界のシステムにおいて、私は「規格外」ということになる』
彼の冷静な内省とは裏腹に、ライラ神官長は、ステータスの残り、特にスキル欄を読み上げて、絶叫した。
「スキル数が、一〇〇……一〇〇を超えている! そして、この【超絶技巧(クラフト・クリエイティブ)】とは、一体、何だ!?」
【超絶技巧(クラフト・クリエイティブ)】。
それは、レイハンが最も注目していたスキル名だった。
彼の元々の職業は、地球の物理法則の限界に挑む航空宇宙エンジニアだ。彼は、設計、計算、素材の知識、加工技術、そして何より「無から有を創造する」ことに、人生の情熱を注いできた。
その彼の本質が、この異世界のシステムに「スキル」として変換されたのだ。
『【超絶技巧】……恐らく、これは、私の持つ技術・知識体系、設計思想、そして創造性そのものが、この世界の物理法則や魔力と結びつき、スキルとして昇華されたものだろう。つまり、私はこの世界で、現実世界の工学知識を「チート能力」として扱える、というわけか』
レイハンは、この非現実的な状況を、目の前にある複雑な設計図のように受け入れた。
エルドリック王は、玉座から立ち上がり、震える声でライラ神官長に尋ねた。
「ライラよ、その者は……その者は、まさか、我らが待望した、真の『勇者』というわけではないのか!?」
「ひ、陛下。これほどの規格外は、千年の歴史の中でも記録にございません……。このレイハンという御仁こそが、もはや『神の眷属』と呼ぶべき存在かもしれません」
儀式の間は、レイハンただ一人に、畏敬と驚愕の視線が集まる場へと一変した。他の学生たちは、自分たちの凡庸なレベルと、レイハンの異常なレベルとの差に、嫉妬よりも先に、深い恐怖を感じ始めていた。
◆
ノリン王国の城は、確かに荘厳で美しい。しかし、レイハンのエンジニアの視点からは、その美しさの裏に潜む「非効率性」と「技術の遅れ」が透けて見えた。
彼の滞在する客室は、豪華な織物と重厚な家具で飾られている。しかし、水道の蛇口を捻っても出てくるのは冷たい水だけだ。温水を出すには、魔術師の助力か、火を焚く必要があるのだろう。また、窓の外に見える石造りの街並みは、美観こそ優れているが、石畳の道路は整備が不十分で、排水システムも原始的だと推測される。
『空調システム、衛生管理、エネルギー効率……どれを取っても、地球の紀元後初期のレベルに近い。なるほど、魔力がある故に、技術の進歩が阻害されている。魔術が、全てを解決してしまうからだ』
レイハンは、支給された衣服に着替えながら、思考を巡らせた。彼の思考は、常に「問題解決」と「改善」の方向に働く。
窓からは、この王都の夜景が一望できる。空には、地球の夜空とは異なる、奇妙な軌道を描く二つの月と、数えきれないほどの星々が輝いている。
レイハンはそっと、自分の胸元を握った。故郷の記憶、家族の面影、そして、彼が情熱を注いだ航空宇宙技術の未来。全てが、一瞬にして、遠い過去のものとなってしまった。
『私は、この世界に来てしまった。帰る方法は、現時点では不明だ』
帰還の可能性は、限りなくゼロに近い。ならば、次に取るべき行動は一つしかない。
「この世界(システム)を、理解し、最適化する。そして、私が持つ知識と、この【超絶技巧】というスキルを用いて、可能な限り、この世界を『改善』する」
それは、エンジニアとしての本能だ。そして、彼の信条に反しない、最も正しい行動だと彼は判断した。
その時、ドアがノックされた。
「レイハン様。ノリン王国の姫君、フィーリア様がお目通りを願っております」
落ち着いた、しかし緊張した様子の侍女の声。
レイハンは、鏡に向かって自身の服装を整え、穏やかな、しかしどこか意志の強さを秘めた笑みを浮かべた。
「すぐに参ります。ご案内をお願いいたします」
物語は、今、始まったばかりだ。彼は、この世界で、何を生み出すのだろうか。そして、彼の技術と、この規格外のスキルが、この世界に何をもたらすのだろうか。
◆
姫君との謁見の間(あいだ)。
待合室で待つレイハンは、他の学生たちとは、別の場所へと隔離されていた。彼らは、まだ混乱と興奮の中にいるが、レイハンは既に次のステップを冷静に分析している。
『姫君が私個人に会いに来るということは、これは王国のトップ・シークレットな案件に違いない。目的は、私の【超絶技巧】の利用法、あるいは、魔王討伐への協力を仰ぐことだろう』
レイハンの前には、豪華な装飾が施された小さなテーブルがあり、そこにはこの世界特有のお茶と、見たこともない果物が並んでいた。彼は、果物を一口食べる。甘さは強いが、人工的な甘味料のようなものではない、自然な風味だ。彼は、この果物の栄養価や、栽培方法に興味を持った。
やがて、侍女に導かれ、彼は姫君フィーリアの前に立った。
フィーリア姫は、その見た目の美しさとは裏腹に、どこか憂いを帯びた瞳をしていた。彼女はレイハンを見るなり、深く頭を下げた。
「遠い異世界より、このノリン王国にお越しくださり、誠にありがとうございます。レイハン殿」
その謙虚な態度に、レイハンは驚きを覚えた。儀式の間で見た、王や神官長の傲慢な態度とは真逆だったからだ。
「頭をお上げください、フィーリア姫。私は、あなたがたの『勇者召喚』の儀式に巻き込まれた、ただの客人にすぎません。このような丁重な扱いは、恐縮いたします」
レイハンの日本語は、相変わらず丁寧だ。彼は、イスラムの教えに基づき、誰に対しても敬意を払うことを忘れない。
フィーリア姫は、少し頬を赤らめ、静かに顔を上げた。
「いいえ。レイハン殿は、『九九九九+』という、この世界の常識を覆す規格外の力をお持ちの方。そして、私どもの国に召喚されたのは、偶然ではありません。父王と神官長は、勇者の凡庸さに失望しておりますが、私は、貴方のその『力』に、この国の未来を賭けたいのです」
彼女は、まっすぐレイハンの目を見て言った。その瞳には、強い意志の光が宿っていた。
「レイハン殿。貴方のスキル【超絶技巧(クラフト・クリエイティブ)】は、この世界を救う鍵となるかもしれません。魔王軍の脅威は、もはや魔術や剣術だけでは防げません。彼らは、異質な『技術』で、我々の国を侵略しつつあるのです」
『異質な技術……?』
レイハンの思考が、一気に加速する。もし、この世界の敵が、地球のような技術力を持っているとしたら、状況は一変する。それは、彼の【超絶技巧】が、最も力を発揮できる領域だ。
「魔王軍の持つ『異質な技術』について、詳しくお聞かせいただけますでしょうか?」
レイハンは、真剣な眼差しで姫君に問い返した。彼のエンジニアとしての好奇心と、使命感が、ここで初めて強く交差した。
姫君フィーリアは、静かに頷き、声を落とした。
「はい。それは、このノリン王国の、最も深き秘密に関わる話となります。どうか、お覚悟の上でお聞きください……」
その言葉と共に、レイハンの異世界での、長く、そして技術的な冒険の幕が、静かに開いたのだった。
※
この城の構造解析から、始めなければならない。まずは、建物の耐震性、排水システム、そしてエネルギー源の確保からだ。それが、エンジニアとしての、私の第一歩となる。
『全ては、合理性と創造性の元に』
レイハンは、静かに決意を固めた。
【超絶技巧】。このスキルは、きっと、彼の新たな人生の設計図となるだろう。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます