チェンジ・ザ・エンジェル

@kkk_99

第1話 堕ちてきたのね、天使さん

「あ……。」


 ああ神様、私はもう金輪際、安易な気持ちで神頼みをしないことをここに誓います。


 なのでどうぞ、干したての布団を返してください。

 出来れば、ベランダの柵に引っかかっている人外的な存在も回収していってください。


 何卒、よろしくお願いいたします。


「おい。」


 何卒。


「……っ天使がもたれかかってるってのに、助けねえのかよ。」

「神様……。」



 吊下琴和つりしたことわ

 年齢は二十三歳。身の丈に合わないIT企業を早々に退職し、今や商店街脇の小さな本屋で細々と資金を稼いでいる平凡で偏屈な人間。

 親元を離れて早三年、社会の荒波に揉まれて見事にすり減った心を、ネットサーフィンで誤魔化す毎日を送っていた。


 新卒で入社した期待に満ち溢れたIT企業は、とんだブラックで、上司からのパワハラに耐えられず二ヶ月で身を引かざるを得ない状況に追い込まれた。

 転職をするにも、新春早々に社会人としてバツ印が付けられたような気持ちに苛まれた琴和は、暫く内職生活をしながら日々を食い繋いだ。


 お先真っ暗の毎日に、荒んだ心を癒そうと気分転換に立ち寄ったのが、商店街から少し逸れた場所にある、古本屋だったのである。

 既に常連の客と呼ばれ、運良く店主夫婦に気にいられた琴和は、一か八か復帰しようと意を決して、「ここで働かせてください」と直々に申し込んだのであった。


 夫婦が快くも頷いてくれたおかげで、琴和はどうにか今を生きているのだが。


 怒涛の二十代の幕開け、独り身。

 恋愛経験は小学生止まり、両親は遠方。友人とは高校以来疎遠になり、スマホはあるのに連絡を取り合うこともしない中途半端な関係性になってしまった。

 琴和は孤独で、気が狂いそうになる日もしばしばあった。

 不安に押し潰されそうな夜、母の言葉を思い起こしては何度か枕を濡らしたものだ。


 そしてある日の夜、とうとう耐えられなくなり琴和は、ベランダから見える夜空に向かって「神様、お願いします。」と口にした。


『神様どうか、私の孤独を埋めてください。』


 と。


(いや、埋めろとは言った。言ったけど。)


「ちぇ、ちぇんじで……っ。」

「客人にかける第一声が叫び声とそれって失礼だろ!あと扉を閉めんな!」

「ひぃ……。」


(天使直接輸送ってなに、聞いてない!!!)


 ベランダに布団の代わりに干さっている人外的な存在は、不服そうに文句を垂れている。

 琴和は腰を抜かしそうになりながら、窓枠を掴んだまま訝しげに目の前の異界の者を見つめる。


「だ、誰。普通に誰……どうやってきたの……。私の布団返して……。」

「心配する所オレじゃなくて布団かよ。」


 唯一の寝床を失った上、奇々怪々とした状況に巻き込まれるだなんて、ついていない。

 ベランダの柵に腹這いになっているを混乱した頭で今一度見てみれば、白い羽が背中の右側から生えていた。

 青と金色の宝石を交互に嵌めた双眸と、北風に靡く目元までのブロンド。さながら、漫画やアニメで見る天使のような容貌であった。

 絶世の美少年があろうことか、自分の家のベランダにいる現実を琴和は受け止められず、改めて叫んだ。


「有り得ません、怖い!!」

「だから叫ぶなっての。」

「どうして羽が生えてるの、ここマンションなのに、どうして私のベランダの柵─いや、と、取り敢えず救急車、いや警察消防SPテレビ局……。」

「おい何か厄介なもん呼ぼうとしてるんじゃねえだろうな。やめろよ。」


 涙目になりながら通報を試みる琴和を止めようと、ベランダの天使は声を荒らげながら、こちらへ向かわんと手を伸ばしている。


「動い!?た、助けて、お巡りさん、UMA取締班さん……う、うええぇ……。も"し"も"し"ぃ…っ」

「だから、変なの呼ぶなっ──い"っっ!」

「うぇ……?」


 威勢のいい怒声がいきなり途切れ、琴和は発信ボタンを押し忘れた携帯を耳から離し、ベランダに視線を戻した。次の瞬間、瞳に入り込んできた光景に絶句する。


 柵に凭れていた天使の身体がずるずると、外側へ引き込まれていたのだ。自力で上がって来れないのか、重力に圧されるように下へ下へと。


「えっ、え、落ちないで落ちないで!」


 転ぶように、ベランダの窓を開けると、天使が何故体勢を直ぐにでも整えられなかったのかが分かった。右の翼だけしかないというのは一目見て理解できたが、問題はもう片方の翼である。

 根元からずたずたに引きちぎれ、青色の体液のようなものが大量に付着していたのだ。

 冷静さを欠いた思考のせいで、気付けなかったが、天使の顔も心做しか青白い。


「っ怪我してるの……!?ま、待って!」

「…ああ…くそ……羽が、言うこと、きか…。」


 刹那─。

 天使の辛うじて柵を掴んでいる指先が、はっと離れた。

 琴和はその瞬間、かつてない速さで身を乗り出し力を失った天使の片腕を掴み、精一杯の力で引き上げようとしたのである。

 しかし人間一人分、それも無力状態の異性の身体を持ち上げるともなると相当の力が必要だ。最悪、二人諸共アスファルトに叩きつけられる展開も有り得ると、琴和は覚悟していた。


 だが。


「えっ、か、軽っ!?」

(嘘でしょ!?あ、倒れる。筋力も体幹もないせいで、大人になって情けなく地面に雪崩込む…っ。)


 彼の腕を掴んだ瞬間、恐ろしいほど重みを感じなかったのだ。寧ろ、勢いのあまりに尻もちを着いたほどである。ベランダの床にどたんと、大きく雪崩れ込んだ天使と人間。何とも妙な光景だった。

 痛む臀部を擦ったも束の間、琴和は慌てて天使様態を確認した。

 医者でもなければ、看護師でもない。医学部も出ていないし、知識は学校で習った保健止まりの、頼れぬ脳みそをフル活用して天使を確認する。その内、身体の大部分を占めている肩甲骨から伸びる翼に触れた時。べたりと冷たい感触がした。それはまるで絵の具のような青の色をしている。


 そのうえ、琴和の手首に伝う、彼のものであろう青い体液は、ひしゃげた翼からとめどなく溢れ出ている。


「これ、血、なに……?」

(どうしよう、どうしよう。)


 手にべっとりと付着した青い液体に鼻を近づけてみるも、特別人間や獣のような独特の臭いはしない。しかし、見るも無惨な状態の翼から察するに、血液と判断した方が良い気がして琴和は尚の如く焦燥感に掻き立てられた。


 先程までやんややんやと騒ぎ立てていたのに、今や意識が朦朧としている天使を見て、怯えている場合ではないと立ち上がる。

 床の上に散らばるゴミを爪先で避けながら、箪笥に辿り着き、引き出しを開け、ストックしておいたガーゼと包帯を取りだし、急いでベランダへと戻った。

 慣れてもいない手つきで、ちぎれた翼を傷付けないように配慮しながら、応急処置を施す。


(……天使の血が青いなんて知らなかった。)


 琴和は、まさか人生で天使の手当をする事になろうとは夢にも思っていなかった。肝心のベランダに干していたはずの布団は、マンション直下のアスファルト上に落ちている様子は不思議となく、目の前の床に横たわらせた彼の肩甲骨から自然に生える翼も、どうやら幻覚ではないらしい。


 彼が意識を取り戻したら天界に直ぐさまお引き取り願おうと思っていたが、かぐや姫のように迎えが来るとなると、暫くは自分の家を貸すことになるだろう。琴和は、意を決して汚部屋と化したリビングの掃除に手をつけたのであった。


 ──数時間後。


 宵に差し掛かる頃、天使はのそりと身体を起こし辺りを見渡した。自分が堕ちてきたベランダから見える碧空は見事に闇に呑まれてしまい、天界への導きを示す陽の光を覆い隠してしまったようであった。あるのは、天井に設置されたやけに眩しい白光と、鼻腔を掠める人間臭だ。

 加えて、左の翼に滅茶苦茶に巻かれた包帯が動きを制限しているせいか、気持ちが悪くてしかたがない。しかし幸いにも、琴和の咄嗟の判断に救われた天使は、その嫌悪感をやり過ごす他なかった。


「あ、起きてる……。」

 部屋に繋がる廊下の角から顔をのぞかせた琴和は、恐る恐る天使に話しかける。


「大丈夫?」

「………おう。」


 ぶっきらぼうに返した天使が、琴和を試すように睨みを効かせると、彼女は「ひぇ」と小さく悲鳴をあげて、リビングに繋がる扉をパタンと閉めた。


「だから、閉めんなって。」


 眉目秀麗な見た目に反して、やけに口調が荒い天使のギャップに琴和は押され、どう対応してよいのか躊躇っていた。しかしながら、怒りをかって神様パワー的な何かで制裁を下される事が何よりも恐ろしい為に、蛇に睨まれた蛙の如き態度で扉を開ける。


「…驚かせて悪かった。」

「どうしてあんな所に?」

「そりゃこっちが聞きてえよ。下界に堕とされる時に記憶ごと持ってかれちまって、何一つ思い出せねえんだ。まあ、検討がつかねえこともないがな。」

「堕とされたって、な、何か悪い事でも?」

「ああ…まぁ、そんな所だろうな。…罰ってやつだよ。オレはそれを贖う為に堕天させられたに違いねえ。」


 自嘲気味に天使は笑った。相対して琴和はひどい胸の痛みを覚えた。しかしぎゅうと心の根元を引っ掴まれているような、例えようのない不快感には既視感を感じる。酸欠で脳が落ちていくような感覚も同時に襲ってきて、琴和は口を引き結び、静かにその場に膝をついた。


「ああまだ、落っこちてきた時の衝撃でぐらぐらする。羽の治りも時間がかかりそうだな。そこで折り入って頼みがある…あんたには悪いが、暫くここに置いてほしい。」

「えっ。」

「羽が治るまででいい。最低限の事は手伝うから。頼む。」

「う、え、私の家に…こ、この汚部屋に?!」


 琴和は自分の部屋を見回しながら、「こんな所には住ませられない」と猛反対した。しかし天使は気にもとめずに、散乱したゴミを拾い上げて、適当に開きっぱなしにされたゴミ袋の中へと投げ入れる。


「汚部屋?あー、まあ汚部屋だな。そうだ。」

「む、無理!こんな所より近くのホテルの方が絶対─」

「このなりで人間が受け入れるかねえ?」

「コスプレ…イベントで…。」

「なんだよそれ。」

「アニメとかのキャラクターに扮装する感じで、どうにか。」

「難しい言葉は分かんねえなあ?オレ。」


「天使のくせにがめつい」という感想を琴和は無理矢理呑み込んで、その後も押し問答を展開した。しかし最終的に野放しにしたら、重要参考人として、怖い特殊機関に呼ばれる可能性を危惧して、渋々折れたのである。


「こ、ここに住むからには汚部屋でも了承してもらうから。あと、養うってことは出来ない。私、お金ないし…。」

「んだよ、困ってんのか?」

「とっても!自分一人食べていくので精一杯の毎日なんです、すみません…。」

「チッ。しゃーねえな。」


(おい、舌打ちしたかこの天使。)


 天使は悪態をつきながら、人差し指を立てて、絵本の中の魔法使いの如く、くるりとその指を回した。琴和は目の前にまさか、目の前に大金が現れるのではと露骨に期待する。

 しかし、望んでいた夢のような景色は一向に見られない。


「えーーっと…。」

「んだよ。」

「今のは?」

まじないかけてやったんだろ。一応は天使だからな、見返りなくったって、人助けくらいするっつーの。」


(そんなオラついた口調で言われても説得力ないな…。)


 琴和は肩を落としながら、寝る支度を始める。そもそも天使がベランダにいる時点で有り得ない話なのだから、疲れて悪い夢でも見ていると考える方が現実的だった。


「何してんだよ。」

「寝ます。明日も仕事で。」

「へえ。」


(そういえば、天使って寝るの…?)


「なあお前。これなに。」


 考える琴和を他所に、天使は机の上に散らばっていたゴミを拾い上げると、頬杖をつきながら尋ねた。琴和は質問を受けて、唇を引き結ぶと、「お菓子だ」と笑う。それにしては、あまりに量が多いが、人間の食事量も食事もさらさら関心がない天使は、差し障りのない相槌を適当に打った。


「お前、一人なの。」

「一人。」

「いつもこんなんかよ。」

「うん。」


 琴和もまた、愛想のない返答をした。

 仕事から帰ってみれば、得体の知れないものを迎え入れる状況になり、平々凡々な取り柄のない日常が、大きな音を立てて爆ぜていく感覚がして、気が滅入っていたのだ。

 きっと寝れば、明日には元通りだろうと思う他に自分を守れる術がない。


「人間。お前、名前は。」


 ふと目を瞑ろうとした一瞬の隙に、天使の顔が映った。頭の中で描いた理想の人物のような、未知なる天使への憧憬の具現化のような彼には、眠ろうとした意識を奮い起こさずにはいられなかった。眩しくて、影さえ強い光を帯びているように思えたのだ。


「……琴和。」

「ことわ、明日ちゃーんと起きろよ。」

「なに、それ。…ねぇ、天使さんの名前は。」

「オレはアンジュ。」


 アンジュと名乗る天使は、ベランダから見える雲間に隠れた月を眺めている。


「不思議。」

「なにがだよ。」

「私が前に見た友達の名前と同じなのね、」

「勝手に親近感感じてんじゃねぇよ。いちいち一緒にすんな。」

「じゃあ天使さんって呼ぶから。もういい寝る。」

「おい─」


(この生意気天使っ!!とんでもないハズレくじ!神様の意地悪!!そこは「へえ」とかで返してよ!)


 琴和は盛大に文句を心の中で垂れたあと、不貞腐れるように被る布団もなく、ゴミの嵩張る一室、そのフローリングの上で胎児のように縮こまって眠りについたのである。












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