第12話 かぼすな夜

灯火ステップが終わった夜。


舶灯館の露天風呂は、まだ湯気を立てていた。

湯船の表面を照らす橙色の灯りが、静かに波紋を描く。

かぼすがほのかに香り、夜風に揺れて広がっていく。


静かだった。


廊下の灯りは落とされ、玄関の橙色の明かりだけが、海から吹く風にゆらめいている。

昼間の喧騒が嘘のようだった。


灯火ステップ、商店街の協力、かぼすの精油作り、瑠夏たちの動き——

新しい希望の芽が見え始めた日だった。


しかし、千尋の胸の奥には、まだ重い痛みが残っていた。


料理長の去った足音。

黒川華の涙。

消えた灯り。


喜びと痛みが混ざった夜だった。


蓮は露天風呂の清掃道具を片づけようと、裏口から出てきた。

そこで、縁側に座る千尋の姿を見つけ、思わず足を止めた。


「千尋さん。」


千尋は、湯上りの髪をタオルで拭いながら、静かに顔を上げた。

頬にかかる髪が、夜風に揺れる。

わずかに赤くなった目元は、涙のあとかもしれなかった。


「……こんな時間に、どうしたの?」


蓮は小さく息を吐き、千尋の隣に腰を下ろした。

木の縁側は、少しひんやりと冷たかった。


遠くで、波の音だけが響いていた。


「今日は……ありがとう。」

千尋はかすれた声で言った。

「瑠夏ちゃんのことも、商店街の人たちのことも……全部、天城くんが来てから動き始めた。」


「俺は何もしてない。動いたのは、みんなだよ。」


「でも、始まりは——あなたが、ここに来てくれたから。」


千尋は指先で縁側を撫でながら、ぽつりと言った。


「ねえ、怖かったことある?」


「もちろんある。」


「私はね、ずっと怖かった。」

千尋の声は、夜の海に溶けるように小さかった。


「父が倒れて、旅館が私の肩に全部乗って、

 “やめたら弱い人間だ”って思い込んで……

 誰にも甘えられなくて、泣く場所もなくて……

 なのに、守りたいものばかり増えていって。」


蓮は黙って聞いていた。


「全部失うのが怖かった。

 でも——いちばん怖かったのは、

 本当はずっと、ひとりで立っているふりをすることだった。」


言葉の端が震えていた。


蓮は千尋の横顔を見た。

決して弱くはない。

ただ、強くあろうとし続けてきた人の顔だった。


「逃げない人ほど、怖がりだよ。」

蓮はゆっくり言った。


千尋は目を丸くした。


「俺も同じだから。

 強がりだった。

 できないのに“できる”と言って、

 助けてほしいのに言えなくて——

 全部守れなくなって、やっと気づいた。」


風が二人の間を通り抜けた。

かぼすの香りが、そっと揺れた。


「だから今は、強くなりたいとか、守りたいとかじゃなくて……

 ちゃんと向き合いたい。逃げないで。」


千尋は静かに息を吸った。


「……隣に、いてくれる?」


蓮は、少しだけ笑った。


「もういるよ。」


千尋の視線が、そっと蓮の横で落ち着いた。

風がまた吹き、湯気が白く揺れた。


「ねえ、天城くん。」


「うん?」


「……手、貸して。」


小さな声。

千尋の手が、そっと蓮の手の甲に触れた。

震えていた。

けれど、確かに温かかった。


二人は、手をつないだまま、海を見た。

言葉はなかった。

ただ灯りのように、寄り添っていた。


彼女の肩が、ほんの少しだけ蓮に寄りかかった。

蓮は気づかないふりをして、少しだけ近づいた。


その夜、波の音は静かに寄せては返し、

舶灯館の灯りは、柔らかく、確かに光っていた。




 

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