灰の空、七十三回目

桃神かぐら

第1話 灰色の空の下で

 ――空は、今日も灰色だった。


 鉛を流し込んだみたいに、重たく、低く、沈んでいる。

 街の輪郭を押しつぶすように垂れ込めた雲は、もう誰も「雲」とは呼ばない。

 ただ、“落ちてくる天井”としか。


 七十年前、空は一度、世界から失われた。


 その結果として残ったのが、この都市国家〈アスノヨゾラ〉だ。

 地図に載る街は、もう他にはない。

 かつて海があった場所は、すべて雲の下に沈んだと教科書には書いてある。


 だが、そんな昔話を気にして生きているやつなんて、もうほとんどいない。


 今を生きる人間にとって大事なのは――


 今日の夜を、どうやって生き延びるかだけだ。


 遠くで、防壁を走る巡回車両の音がした。

 金属の軋む音が、灰色の空に吸い込まれていく。


 高台にある観測塔の屋上で、橘悠斗たちばな ゆうとは、その空を見上げていた。


 風は冷たくも熱くもない。

 焼け残ったコンクリートの匂いと、油の匂いと、錆びた鉄の匂い。

 それが、この世界の“普通の風景”だ。


(……また、夜が来る)


 胸の奥が、鈍く痛んだ。


 ――七十三回目の夜が。


 腕時計の針は、そろそろ十七時を回ろうとしている。

 日没なんて、本当はもう存在しないのに、今でも人々は“日が沈む時間”と呼ぶ。

 灰色が、少しだけ濃くなる、その瞬間を。


 塔の下から、拡声器の声がかすかに届いた。


「哨戒班待機シフト、第三ローテーションへ移行! 繰り返す――」


 悠斗は、ふっと息を吐き、空から視線を外した。


 この街の誰も知らない。

 あの灰色の向こう側に、本当は何があるのかを。


 そして、この世界が、もう七十二回も壊れていることも。


 


 階段を降りていくと、狭い踊り場の壁に貼られたポスターが目に入った。

 色あせた文字で〈雲の向こうに“青”がある〉と書かれている。


 子どもの頃、教師に教えられた。


『昔の空は、青かったんだぞ』


 写真を見せられ、真っ青な空と、白い雲と、太陽に眩しそうな人々の笑顔を見た。

 その時は、本当にそういう世界があったのだと信じていた。


 でも。


(そんな空、少なくとも七十二回分の“世界”の中には、一度もなかった)


 教科書の中だけの空。

 伝説として語られる“青”は、もはや幽霊のようなものだ。


 足を止めて、ポスターの端に指を触れる。

 紙は端からめくれ、テープも剥がれかけている。


「……悪いな。今日も、守れないかもしれない」


 誰にともなく呟いて、指を離す。


 階段を下り切ると、視界に広がるのは灰色ではなく、銀色だった。


 


 地下格納庫。


 天井の低い空間に、旧世代飛行戦闘機が四機、並んで眠っている。

 塗装は剥げ、あちこちに補修の跡。

 最新鋭機という言葉とは程遠い、骨董品みたいな機体だ。


 それでも、今も空を飛べる。

 それだけで、この世界では十分に“最新兵器”だ。


「橘、早いな」


 機体の脇で工具箱を抱えていた整備士の男が、顔を上げた。

 油で汚れた作業着、短く刈られた髪。

 年齢に似合わないほど、深い皺が額に刻まれている。


「第三ローテーションの集合は、まだ十五分後だろ?」

「どうせ呼ばれるんだ。先に来た方が楽だ」


 悠斗が肩を竦めると、整備士はふっと笑った。


「お前は本当に“らしくない”パイロットだな。普通は少しでも寝たいと言ってギリギリに来るもんだが」


(そうかもしれないな)


 七十三回目ともなると、“普通”がどこにあったのか、もうよくわからない。


 悠斗は、自分の機体――〈01〉の機首を軽く叩いた。


 無骨な、その額に。


「今日も頼むぞ」


 もちろん、返事なんて返ってこない。

 ただ、金属の硬い感触が、掌に残るだけだ。

 それでも、この儀式をやめたことはない。


 七十二回、死んできた。

 そのたびに、この機体も何度も壊れ、直され、部品を変えられてきた。


 けれど、コクピットに座ればわかる。


(こいつは、ずっと“同じ機体”だ)


 七十二回分の“夜”を、一緒に越えてきた相棒。


 機体の横に貼られた真新しい白い線が、今日の出撃回数を示している。

 その下に、薄く残る無数の線の跡――剥がしても消えない痕跡。


 それは、誰も知らない“過去の世界”の数だ。


 


「哨戒班第三ローテーション、全員集合!」


 鋭い声が格納庫に響き、空気が一気に張りつめる。


 振り返ると、軍服に身を包んだ女教官が立っていた。

 黒髪をきっちりと束ね、帽子の下の瞳は冷たく鋭い。


「全員、前へ!」


 悠斗も整備士から離れ、他の隊員とともに歩み寄る。


 哨戒班に所属しているのは、十五歳から十八歳までの少年少女だ。

 体格も、表情も、まだ“子ども”の面影を残している。


 だが、彼らの背負っているものは、成人した兵士よりも重い。


 都市の外で戦えるのは、哨戒班だけ。

 ナイトメアに対抗できるのは、旧世代機と、彼らの“適性”だけなのだから。


(今日は……)


 顔ぶれをざっと見渡し、悠斗は一瞬だけ眉をひそめた。


 いつものメンバーに混じって、見慣れない横顔がひとつ。


 


 短く切り揃えられた茶色の髪。

 まだ着慣れていない深緑色のフライトスーツ。

 緊張で肩に力が入りすぎているのが、遠目にもわかった。


 星野ミライ。


 ――この世界では、今日が彼女の“初出撃”だ。


 けれど悠斗にとっては、もう数え切れないほど繰り返してきた光景でもある。


 何度、彼女がこの列に並ぶ姿を見てきたのか。

 何度、同じ緊張した表情を見て、同じ話をして、同じ夜を迎えたのか。


 指折り数えることはできても、意味はない。


(七十三回目)


 数えたところで、結果が変わったことは、一度もないのだから。


 


「今日の夜間防衛は、通常パターンC。ナイトメアの出現予測地点は第二北壁上空だ」


 教官の声が、乾いた空気を切り裂いていく。


「第三ローテーションは、二十一時三〇分に離陸。二十三時まで前線空域の哨戒と迎撃を行う。新規アサイン――星野」


「は、はいっ!」


 びくりと肩を震わせて、一歩前に出る新顔。


 教官が突き刺すような視線を向けた。


「今日が初飛行だが、訓練記録は問題なし。橘と同乗だ」

「……了解」


 その言葉に、周囲の空気がほんの少し揺れた。


 悠斗は、ほとんど表情を変えずに返事をした。

 本当なら、もっと驚いた顔をしなくてはいけない場面なのだろう。


 でも、驚くには、あまりにも回数を重ねすぎた。


 教官は全員を見渡し、短く言った。


「繰り返すまでもないが――」

「――生きて戻れ。それだけだ」


 敬礼。

 隊員たちも、それに倣う。


 この挨拶も、もう数え切れないほど聞いてきた。


 


 解散の声とともに、格納庫は再び忙しない熱気に包まれた。

 誰かが工具箱を蹴飛ばし、怒鳴り声が飛ぶ。

 笑い声と罵声が入り混じる、その喧騒さえも、悠斗にとっては既視感でしかない。


 機体の方へ戻ろうとしたところで、


「あ、あのっ!」


 背後から、少し上ずった声が追いかけてきた。


 振り返る。


 そこに立っていたのは、やっぱり彼女だった。


 星野ミライ。


 胸元の名札が、その名前を示している。

 だがそんなものを見なくても、彼女の顔は、目を閉じても思い出せる。


 幾つもの世界の中で、幾度も“失った”相手なのだから。


「橘先輩、ですよね? あの、今日から同乗させてもらう……星野ミライです!」


 緊張で早口になりながら、彼女はぺこりと頭を下げた。


 その仕草も、声の調子も、息継ぎのタイミングすら、ほとんど“知っている通り”だった。


(何回目だっけ、これで)


 もう、正確な数字なんてとっくに忘れた。


「橘悠斗。よろしく、ミライ」


 努めて淡々と、最低限の自己紹介を返す。


 本当は、もっと話したいことはいくらでもある。


 どんな食べ物が好きか。

 哨戒班に志願した理由は何か。

 初めて空を見た時、何を思ったのか。


 ――七十二回分の会話が、喉の奥で石みたいに詰まっている。


 けれど、それを口にしてしまえば、きっと壊れてしまう。


 この“最初の夜”という、かろうじて均衡を保っている時間が。


「あの、その……!」


 ミライがもじもじと指を絡ませる。

 何か言いたげに、何度も口を開きかけては閉じる。


「……なにか、気になることでもあるのか?」


 悠斗が促すと、彼女は困ったように笑った。


「変なこと言っても、笑わないでくださいね?」


「内容による」


「ですよね……えっと、その……」


 ミライは周囲を一瞬見回し、声を少しだけ潜めた。


「ここに来るの、初めてのはずなんですけど……なんか、その、知ってる匂いがするんです」


「匂い?」


「はい。格納庫の匂い……油とか、鉄とか……ここに立ってると、胸がぎゅって痛くなるんですけど、でも、嫌じゃなくて。懐かしい、みたいな……」


 そこまで言って、自分で自分の言葉に戸惑ったように眉を寄せる。


「おかしいですよね、やっぱり。初めてなのに“懐かしい”って」


 懐かしい。


 その言葉に、悠斗の心臓が、ひとつ強く跳ねた。


(……やめてくれ)


 そう思ってしまう自分が、少しだけ嫌になる。


(まだ、その言葉は早い)


 彼女の記憶が、断片的にでも“こちら側”を向いてしまえば、世界は加速度的に壊れ始める。

 それは、何度も見てきたパターンだ。


 ミライが、すべてを思い出してしまった世界。

 彼女が、自分の死を理解したまま夜空に飛び立った世界。

 ――どれも、碌な終わり方ではなかった。


 だから。


「おかしくなんかないさ」


 悠斗は、できるだけ穏やかな声で言った。


「誰だって緊張してれば、そういうふうに感じるもんだ。初めての場所でも、何かに似てる匂いがしたら“懐かしい”って錯覚する」


「……そう、ですかね?」


「そうだ」


 言い切る。


 それは、半分は嘘で、半分は本当だった。


 人間は誰でも、似た匂いの場所に立てば過去を重ねる。

 だが、ミライが感じているのは、きっと錯覚なんかじゃない。


 七十二回分の“死んだ記憶”が、灰色の空の下でまだ燻っているだけだ。


 それでも、今は。


 それを“錯覚”にしておく必要がある。


「……あの」


 ミライが、ほんの少しだけ視線を落とした。


「もうひとつ、聞いてもいいですか?」


「なんだ」


「さっき、教官が言ってましたよね。私、今日が初出撃で……。その……」


 身体の前でぎゅっと握りしめた拳が、わずかに震えている。


「正直、怖くて。ナイトメアに遭遇したら、本当に戦えるのかなって……」


 その言葉には、作り物の気丈さは一切混じっていない。

 ただ、等身大の十五歳の不安だけがにじんでいた。


 ――それを聞くのも、何度目だろう。


 この世界には、訓練記録やシミュレーションデータとしての“経験”は山ほどある。

 だが、“死ぬことの感触”を知っているのは、ごく一部の人間だけだ。


 その中でも、全てを覚えているのは――悠斗だけ。


 


「大丈夫だ」


 気がついた時には、もう口が動いていた。


「俺がいる。ナイトメアの相手は慣れてる。お前は、まず“空に馴れる”ことだけ考えてればいい」


 ミライがぱちぱちと瞬きをして、顔を上げる。


 その瞳が、まっすぐに悠斗を射抜いた。


「……今の」


「ん?」


「今の、その……“大丈夫だ”って。なんか……」


 彼女は胸元に手をあて、ぎゅっと握りしめた。


「どこかで聞いたことがある、気がして」


 喉の奥が、きゅっとつまる。


 七十三回。


 この言葉を、何度繰り返してきただろう。


 血の匂いが充満したコクピットの中で。

 脱出すら間に合わず、白く燃え上がる空の中で。

 彼女の瞳から光が消えていく、その瞬間に。


「そう、か?」


 努めて平静を装って返す。


「気のせいだろ」


「……ですよね。変なこと言ってすみません」


 ミライは、照れ隠しのように笑った。

 その笑顔を、悠斗はずっと覚えている。


 七十二回分の“最後の笑顔”。


 それは毎回少しずつ違って、けれど確かに、同じ光を宿していた。


 


「星野!」


 遠くから、教官の鋭い声が飛ぶ。


「同期チェックに入る。制御室へ来い」


「は、はいっ!」


 ミライが慌てて返事をし、ぺこりともう一度頭を下げた。


「あの、橘先輩。……後で、また」


「ああ。コクピットでな」


 彼女が駆け出していく背中を、悠斗はしばらく見送った。


 やがて、その姿が人の影と機体の間に紛れる。


 格納庫の天井に埋め込まれたライトが、少しずつ色を変え始めた。

 薄い白から、暖かい橙へ。

 それは、地上の人々にとっての“夕暮れ”の合図だった。


 灰色の空には、夕焼けなんてもう存在しない。

 だから、人工の光で夜と昼を仕切るしかない。


(……さて)


 悠斗は深く息を吸い込み、01のタラップに片足をかけた。


 コクピットの中は、外よりも少し冷たい。

 薄いシートの硬さ、膝の裏に当たる金属の感触、計器類の並ぶパネルの配置。

 すべてが、手の内に入っている。


 シートベルトを締め、ヘルメットを被り、通信ケーブルを接続する。

 耳の中で、小さなノイズが弾けた。


『――こちら制御室。01、聞こえるか?』


「こちら01、橘。クリアに聞こえる」


『では、適性同期リンクの準備に入る。今日は、補助席に新人が乗る』


「聞いてる」


 適性同期――それこそが、哨戒班の存在理由だ。


 この戦闘機は、ただ操縦桿を握るだけで飛ぶようにはできていない。

 パイロットの脳と機体の制御を直接リンクさせることで、通常の人間には到底不可能な反応速度と、空間認識を得る。


 その代償に、ナイトメアの“干渉”も、まともに受けることになるのだが。


(ミライの適性値は、悪くなかった)


 訓練記録を思い出す。

 初期同期率は平均より少し高く、伸びも良かった。

 あとは、実戦の中で“慣れていくだけ”だ。


 ――慣れる前に死ななければ、の話だが。


 コクピットの外で、誰かがタラップを駆け上がってくる足音がした。


「し、失礼しますっ!」


 ヘルメット越しでもわかる声。

 わずかに息を切らしながら、ミライが補助席に滑り込んでくる。


「お、お邪魔します……」


「邪魔って言うな。お前の席だ」


 シートベルトを締める手つきは、多少ぎこちない。

 それでも訓練通りに動こうとしているのがわかる。


「星野ミライ、補助席、搭乗完了しました!」


『制御室了解。心拍数、やや高めだな』


「ご、ごめんなさい……」


『謝るな。誰でも初回はそうなる。橘、フォローしてやれ』


「了解」


 悠斗は、小さく頷きながら言う。


「深呼吸、できるか」


「は、はい……」


「吸って、吐いて。三回くらい、ゆっくり」


 ミライが、ヘルメットの内側で素直に従うのが伝わってくる。

 呼吸のリズムが、通信越しにわずかに聞こえた。


『同期シーケンス開始。意識同期を三十パーセントまで上げる』


 頭の奥に、微かな熱が流れ込んでくる。

 視界の端に、数値のバーが浮かび上がる。

 それがゆっくりと、二十、二十五、三十と上がっていく。


 同時に、後席からも小さな息の乱れが伝わってきた。


「……なんか、変な感じがします」


「当たり前だ。初めてだろ」


「身体が、ちょっと、浮いてるような……」


『同期率三十パーセントで安定。星野、その状態に慣れろ』


「りょ、了解……」


 リンクを完全に上げれば、二人の意識は機体と一体になる。

 視界は計器越しのものだけでなく、機体各所のセンサーから送られる情報も重なり合う。


 ナイトメアと戦うには、それくらいの“視界”が必要だ。


(……さあ、行くか)


 通信が切り替わり、今度は管制塔からの声が入ってくる。


『01、エンジン始動許可。第二北滑走路までタキシー』


「こちら01、了解」


 スイッチを倒す。

 すぐに、機体の奥で唸り声のような振動が立ち上がった。

 長い眠りから目覚めた獣が、喉を鳴らしているみたいだった。


 ミライが小さく息を呑む。


「これが……」


「エンジンだ。怖ければ目を閉じててもいい。離陸するまでは、俺が全部やる」


「……いえ、大丈夫です。ちゃんと、見ておきたいので」


 言葉だけではない覚悟が、その声には宿っていた。


 七十二回見てきた、“初出撃前のミライ”。

 毎回、少しずつ違う。

 怯え方も、強がり方も、表情も、それを誤魔化す冗談も。


 これが“七十三回目の彼女”だ。


 01がゆっくりと動き出す。

 格納庫の扉が開き、狭い道を抜けて滑走路へ向かう。


 外に出た瞬間、灰色の空が視界いっぱいに広がった。


「……本当に、空って灰色なんですね」


 ミライの呟きは、驚きと、少しの失望と、それでもどこか嬉しそうな響きを混ぜていた。


「教科書の写真と、全然違う」


「写真は、昔のものだからな」


「昔って、どれくらい前なんでしょう」


「さあ。俺が生まれるよりも、ずっと前だ」


 七十年前。

 ――正確には、“七十年前に起きた空の喪失”は、もう七十三回繰り返されている。


 だが、その事実を知っているのは、自分だけだ。


 滑走路の端に到達する。

 誘導灯が淡く光り、灰色の地面に細い道を描く。


『01、離陸許可。ナイトメア、第一波接近。早めの上昇を推奨する』


「了解。01、離陸する」


 スロットルを押し込む。

 機体が震え、加速する。

 身体が座席に押し付けられ、地面の振動が滑らかになっていく。


「うわ……!」


 ミライが思わず声を上げる。


 地面が遠ざかる。

 灰色一色だった視界の下の方に、やっと街の輪郭が浮かび上がる。


 黒ずんだコンクリートの建物。

 傷だらけの防壁。

 動き回る小さな車両の列。

 ――それらすべてが、灰色のフィルターの下に押しつぶされている。


『高度三百到達。風速、問題なし。星野、どうだ』


「す、すごい……。怖いですけど、でも、すごいです!」


 ミライの声が、わずかに震えている。

 恐怖と興奮が、ごちゃ混ぜになったような響き。


「これが……空……」


 彼女は“それ”を、まだ知らない。


 今見ているのは、本当の空ではないことを。

 灰色の天井の上に、何があるのかを。


(……教えなければよかった世界も、あった)


 ミライに“青空の真実”を告げてしまった世界。

 その結果、彼女が見せた顔を、悠斗はまだ鮮明に覚えている。


 だから今回は、まだ何も言わない。


 01はさらに高度を上げ、灰色の雲の“底”に近づいていく。

 雲と言っても、それは水蒸気の塊ではない。


 冷たく、ざらついた、巨大な壁のようなもの。

 試しに機体をぶつけようとしたこともあったが、何度やっても弾かれるだけだった。


『北壁上空に異常反応。ナイトメア第一波、三体確認』


 管制の声が、わずかに硬くなる。


『01、迎撃を開始せよ。他の機体は離陸準備』


「こちら01、了解」


 HUDに、赤い印が浮かび上がった。

 防壁の外側、灰色の濃淡の境目を這うようにする影。


 ミライの身体が、後席でこわばるのがわかった。


「あれが……」


「見えるか」


「はい。……思ってたより、ずっと……」


 言葉を選ぶように、彼女は息を飲んだ。


 ナイトメア。


 正体不明の、空飛ぶ異形。

 輪郭は不定形で、見るたびに形が違う。

 灰色の雲と同じ色をしているのに、そこだけがじわじわと“濃く”なっていく。


 光を吸い込む影。

 見ているだけで、頭の奥がざわざわと掻き乱される。


 それが、防壁の外側から、じわじわとにじり寄ってくるのだ。


「星野」


「……はい」


「怖いなら、それでいい。怖くなくなったら人間じゃない」


「……?」


「俺だって、今でも怖い」


 七十二回分、何度も死んできた。

 そのたびに、ナイトメアの影は、夢にも出てきた。


「でも、怖いからこそ、ちゃんと見ろ。目を逸らしたら、喰われる」


「……はい!」


 ミライの返事に、ほんの少しだけ力が戻る。


 HUDの赤い印が、ゆっくりとこちらへ向かってくる。

 その動きは速くもなく、遅くもない。

 ただ、確実に“侵食”してくる速度だ。


(七十三回目)


 逃げることはできない。

 この街を守るとか、人類を守るとか、そんな大層な理由ではなく。


 ――彼女を、また失いたくないから。


「行くぞ、ミライ」


「……はい!」


 スロットルをさらに押し込み、01は灰色の空を切り裂いて、影へと向かっていく。


 七十三回目の夜が、本当に始まろうとしていた。


 そして悠斗は、胸の奥でもうひとつの声を聞いていた。


(――今度こそ、終わらせる)


 何度繰り返しても変わらなかった“夜”に、終止符を打つために。


 たとえ、その先に何も残らなくても。


 たとえ、青い空なんて、どこにもなかったとしても。


 少なくとも――


 彼女の“明日”だけは、ここで止める。


 


 それが、この世界で唯一、橘悠斗が選べる“救い”だった。

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2025年12月17日 18:00
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灰の空、七十三回目 桃神かぐら @Kaguramomokami

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