第4話 泥とシャネルと、再生という名の「飼育契約」
【カイの視点】
都心の最高級ホテル。
画面越しにしか見たことがないスイートルーム。
専用のエレベーターを降り、重厚なドアを開けた瞬間、エリナは鼻に手をやった。
「……なんか、匂うわね」
彼女の後ろで、借りてきた猫のように縮こまっている俺を見る。
俺の作業着には、オイルと泥、そして安っぽい合成タバコと、7年分の疲労が染み付いている。
それは、この国の「停滞」そのものの悪臭だった。
「え、あ、悪い……。すぐ帰るよ」
「帰る場所なんてないでしょう? バスルームへ行きなさい」
彼女は顎で大理石のバスルームをしゃくった。
「全身洗い流して。そこに置いてある新しい服に着替えるまで、出てこないで」
「……あ、ああ」
俺は逃げるようにバスルームへ消えた。
熱いシャワーを浴びながら、泥と共に「篠田個人事業主」としての惨めな皮が剥がれ落ちていくのを感じた。
7年前、別れた女。
日本のインフラを底辺で支え、そして使い潰された俺。
……今の俺には何もない。
だからこそ「買い時」だったということか。
数十分後。
バスルームのドアを開け、俺はリビングに戻った。
用意されていたのは、イタリア製の細身のスーツだ。
袖を通すと、驚くほど体に馴染んだ。
かつての「好青年」の面影が、鏡の中に少しだけ戻っていた。
「……どうかな? サイズはぴったりだけど」
俺がおずおずと尋ねる。
エリナはソファでシャンパンを飲んでいたグラスを持ったまま、ゆっくりと立ち上がった。
そして、俺に歩み寄りぐるりと一周。
「ふぅん…」
――ドンッ! と、俺の胸を突き飛ばした。
「わっ!?」
無防備だった俺は、背後のキングサイズベッドに倒れ込む。
彼女は間髪入れずに俺の上に跨り、そのネクタイを掴んで締め上げた。
「エ、エリナ……!?」
「静かに。……私の所有物(ペット)になった自覚はある?」
至近距離で睨みつけられる。
彼女の瞳が揺れている。
恐怖と、混乱と、そして微かな劣情。
昔とは違う。圧倒的な「強者」の目だ。
「貴方の借金200万円、私が債権ごと買い取ったわ。つまり貴方の身体も、時間も、未来も、すべて私の帳簿上の『資産』よ」
彼女は俺の耳元に唇を寄せた。
「資産なら、有効活用してあげる。……黙って私に従いなさい」
事後のような静けさの中(実際には何もしていないが)、彼女はベッドの端に座り、俺に書類を投げ渡した。
「……なんだこれ? 『構造改革推進・再生企画室』?」
俺は書類を見て眉を寄せる。
「貴方を苦しめた諸悪の根源、『ベンチャー支援法』。……あれには、実は抜け穴があるのよ」
エリナはシャンパンを一口飲んだ。
「あの法律は、企業が社員を個人事業主として切り捨てることを推奨しているけれど、逆に『新規事業の創出』を目的とする場合、国から莫大な助成金と、特例的な正社員雇用枠が認められているの」
彼女はニヤリと笑った。
「皮肉でしょう? 貴方を殺しかけたナイフを使って、貴方を守る盾を作ったのよ。今日から貴方は、私が新設したこの部署の『室長(正社員)』よ」
「せ、正社員……!?」
声が上擦る。今の日本で、それはプラチナチケットだ。
「ただし、条件があるわ」
彼女は指を3本立てた。
「勤務は週3日。1日5時間の時短労働」
「は? それじゃ給料は……」
「当然、最低限よ。手取り12万ってところかしら。借金の返済と税金を引いたら、コオロギも食えないわね」
俺は絶句した。生殺しだ。
これでは生活保護の方がマシかもしれない。
「だから、『副業』を許可するわ」
エリナはサイドテーブルから、無骨な黒いスマートフォンを取り出し、俺の胸に押し付けた。
「週の残り4日、貴方は『再生企画室長』という会社の看板(信用)を使って、このアプリで外貨(ドル)を稼ぎなさい。……それが、貴方が生き残る唯一の道よ」
「……なんで、そんな回りくどいことを?」
「時間がないからよ」
彼女は冷徹な事実を告げた。
「この会社、私が買収したけれど……半年後には解散(バラ)して売り払うつもりよ」
「なっ……!?」
「資産価値のあるインフラ部門だけ切り出して、あとは精算。当然、貴方のその『再生企画室』も消滅するわ」
彼女は俺のアゴをクイッと持ち上げた。
「半年よ、カイ。会社という『宿主』が生きている半年間のうちに、その血を吸って、会社の看板を利用して、自分だけの『救命ボート』を作りなさい」
俺の目に、光が宿るのがわかった。
ただの労働者ではない。
生き残るために手段を選ばない、ハングリーな野犬の目。
「……わかった。やってやるよ、エリナ。……いや、ボス」
俺は彼女の手を握り返した。 よし。契約成立だ。
「いい子。……さあ、夜はこれからよ。まずはその鈍った英語力から叩き直してあげる」
エリナはベッドサイドのライトを落とした。
ここからは、甘いピロートークという名の、地獄のブートキャンプの時間だ。
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