第18話「空を覆う天蓋」

 ジャファルが、バシラが誇る精鋭部隊を率いて、王都から国境へと出陣していった。その勇壮な後ろ姿を、ノアは王宮の最も高い塔の上から、祈るように見送っていた。


 彼らの姿が地平線の向こうに見えなくなると、ノアはゆっくりと目を閉じた。


 民の祈りが、温かい光となって自分に集まってくるのを感じる。市場の商人たち、農夫たち、子供から老人まで、バシラの全ての民が、王の無事と国の勝利を、そしてノアの力の成功を祈ってくれていた。


(みんなの想いに、応えなくちゃ)


 ノアは、そっと両手を天にかざした。


「―――来て」


 心の中で、己の力に呼びかける。それはもはや、恐れや戸惑いを伴うものではなかった。愛する人々を守るための、強く、そして優しい祈りの力。


 ノアの足元から、これまでとは比べ物にならないほど濃密な影が溢れ出した。それは塔の床を瞬く間に覆い尽くし、壁を伝い、天へと向かって昇っていく。


 一本の黒い柱となった影は、上空で傘が開くように、大きく、大きく広がり始めた。


 それはもはや、市場の一角を覆うような、小さな天蓋ではなかった。


 王都全体を覆い、さらにその先へ、どこまでも、どこまでも伸びていく。まるで、空に巨大な黒い大陸が生まれたかのような、神話的な光景だった。


 影は伸び続け、やがて、ジャファル率いる軍が進軍する国境地帯の空まで、完全に覆い尽くした。


 灼熱の太陽は完全に遮られ、戦場となるであろう砂漠地帯に、広大な、涼しい日陰が生まれた。


 王宮に残った人々は、空を見上げて息を呑んだ。


「おお……!」


「国中が、ノア様の影に守られている……!」


 その奇跡的な光景に、誰もが畏敬の念を抱き、勝利を確信した。


 一方、国境付近でバシラ軍を待ち構えていたサルディス軍は、その異常事態に混乱していた。


「な、なんだ、あれは!?」


「急に、太陽が消えたぞ!」


 空を覆う巨大な影。先ほどまでの灼熱が嘘のような涼しさ。それは、地の利を完全に奪われたことを意味していた。


 サルディス軍の強みは、その圧倒的な兵力と、兵士たちの灼熱への耐性にあった。彼らは、暑さで動きが鈍るバシラ軍を、日中に一気に叩く作戦だったのだ。


 だが、この涼しさの中では、バシラ軍の動きは全く鈍らない。むしろ、慣れない涼しさに、サルディス軍の兵士たちが戸惑い、士気を下げていた。


 そこへ、万全の状態で進軍してきたジャファル率いるバシラ軍が現れた。


「見ろ!ノア様が我らに道を作ってくださったぞ!」


「この影の下にいる限り、我らは無敵だ!」


 バシラの兵士たちの士気は、天を突くほどに高まっていた。


 ジャファルは、馬上で天を仰ぎ、遠い王都にいるであろう愛しい人の存在を感じていた。


(ありがとう、ノア。お前の愛、確かに受け取ったぞ)


 彼は剣を抜き、高々と掲げた。


「全軍、突撃ィィィ!!!バシラの誇りを見せてやれ!!」


「「「オオオォォォ!!」」」


 王の号令と共に、バシラ軍は怒涛の勢いでサルディス軍へと突撃していった。


 遠く離れた王宮の塔の上で、ノアは民の祈りを一身に受けながら、力のすべてを天蓋の維持に注ぎ込む。額には玉の汗が浮かび、体は小刻みに震えていた。それでも、彼は決して力を緩めない。


 愛する人が、無事に帰ってくるその時まで。


 この空を、守り抜くと決めたから。

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