ケロッケロ帰宅

うちやま

帰り道寄り道

仕事が終わった瞬間、張りつめていた意識がぱたりと落ちた。

今日もいろいろあった気がする。

でも、仕事の内容を思い出せない。

本気で思い出そうともしていない。

シュレッダーが詰まったこと。

昼休みに隣の席の同僚が「おでんの締めは何が好き?」と本気なのか冗談なのか分からないことを言っていたこと。

「おでんに締めってあるのか?」

「出汁なんだから飲めるだろ」

「大根の臭みが残った汁苦手なんだよな」

「敏感だな。そんなの感じたことないよ」

取り止めのない会話が脳内再生される。


あ、今気が付いた。

「蕎麦もありだな」

細々とした出来事が一気に解放されていく。


自転車置き場に向かう道は、夕方の色がゆっくり夜へ変わりつつあるところだった。

濃くなっていく青がまだ完全に暗くならず、

通りの街灯と混ざって微妙なグラデーションをつくっている。薄手のアウターに腕を通す。

自転車にまたがってペダルをひと踏みした瞬間、

職場での自分が背中からずるりと抜け落ちるような感じがした。振り返れば、ドロっとしたほろ苦いコーヒーゼリーのような塊が落ちてるに違いない。


子どもが産まれてから時間が勝手にどんどん流れて行く。時計の針にブレーキはついていない。

家に帰れば、待っているのは一歳の息子だ。

この世の全力を集めたような笑顔で突進してくる。

その勢いはかわいいけど、

こっちの体力が尽きたタイミングを容赦なく突いてくることも多い。

大人の都合なんて知らないし、知る理由もないのだ。


そう思うと、

ふと、今日はまっすぐ帰らなくてもいいな、

という気持ちが芽生えた。


本屋の前で自然とブレーキを握っていた。


店内に入ると紙の匂いがすっと鼻の奥に入ってきた。

この匂いは、なぜこんなに落ち着くんだろうと思う。

仕事のメールも、息子のミルクも、洗濯物の山も、この空間の前ではいったん行方不明になる。


文芸コーナーを一巡し、

雑誌の棚も眺め、

店員独自のおすすめコーナーをじっくり目を通す。

買う気があるかどうかは、その日に気分にもよるが、眺めるだけで十分に心が整う日も多い。今日はまさにそのタイプだった。


本屋をあとにすると、

いつもより明るく感じる街灯の下を走り、

中古ゲームショップに吸い寄せられるように入った。


店内は少し古い蛍光灯が唸るように光っていて、

ガラスケースの中には懐かしい色合いのカセットやソフトが並んでいる。

レジ横のワゴンには、

値札が二重に貼られた掘り出し物のゲームが雑に積まれていた。

手に取ると、裏面のラベルに〝ほんだ〝と書かれている。

「前の持ち主は、どんな気持ちでこれをクリアしたんだろう」

そんなことを考えると、

ほんの数分だけ、今日は今日でないどこかの時間を歩いている気分になる。


外に出ると、空はもう完全に夜になっていた。

風の温度が昼とは違う。

ペダルを踏むと、さっき感じた本屋の静けさと、

ゲームショップの少し埃っぽい記憶が、

胸の中でじわりと重なった。


家に近づくにつれて、

「そろそろ日常モードに戻らなきゃな」という感覚が顔を出す。

それでも、寄り道で拾った静かな灯りは、まだ胸の奥でゆらゆら残っていた。


玄関の鍵を回すと、

ドアの向こうからすぐに息子の声が聞こえた。

まだ文字にならない声だが、

あれは確実に「おかえり」を全身で表現した音だ。


玄関に足を踏み入れた瞬間、

妻がこちらに振り返った。


「助かった。はい、抱っこ。」

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ケロッケロ帰宅 うちやま @yoshidapasuta

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