第5話:雨の足音、記憶の足跡
朝から降り続く雨は、クロスカントリーコースを深い泥に変えていた。
今日の練習は中止かな……そう思いながら部の集合場所へ向かう。しかし、そこにはすでにランニングウェアに着替えた凛先輩がいた。
「雨でもやるんですか?」
「当たり前でしょ。大会は雨天でも決行よ」
わたしが尋ねると、凛先輩は冷たく言い放ち、すでに泥で汚れたコースへ足を踏み入れた。その背中は、どんな悪条件でも目標を曲げない、強い意志を物語っていた。
わたしもわたしのペースで走り出す。いつもなら小鳥の囀りが聞こえる森は、今は雨音が響くだけだ。足元は滑りやすく、一歩進むたびに靴が泥を吸って重くなる。こんな中で速く走るのは、とても難しいことだ。
泥の感触、濡れた葉っぱの匂い。雨に打たれることで、森の息吹がいつも以上に強く感じられる。そのとき、前方から「きゃっ!?」という短い悲鳴が聞こえた。
わたしが急いで泥の坂道を登ると、凛先輩が倒れていた。足首を庇うようにうずくまり、悔しそうに顔を歪めている。
「大丈夫ですか!?」
「さ、触らないで……!」
わたしが駆け寄ると、凛先輩は鋭く言い放つ。その目に浮かんでいるのは、痛みではなく、恐怖だった。
「なんで……なんで、こんなところで……」
彼女は震える声でそう呟いた。わたしは、それが怪我を恐れる声ではないと気づいた。それは、過去に経験した挫折の痛みだった。
「わたしも、中学のとき陸上部で怪我をしたんです。もっと良いタイムを出さなきゃ、試合で勝たなきゃって。それで、走るのが怖くなっちゃいました……でも、この森に来て、タイムだけが全てじゃないって気づいたんです」
わたしの言葉に、凛先輩は視線をそらした。その頬を伝う雫は、雨なのか、それとも……
わたしは彼女の隣にそっと腰を下ろした。泥まみれになりながらも、彼女の背に手を添えた。
「私の妹は体が弱くて、病気がちで……それでも、私が優勝するたびに、心から喜んでくれて……だから、私は……」
途切れ途切れに話す凛先輩の言葉は、まるで泥の中から湧き出る、彼女の心の声のようだった。彼女が目指すゴールは、自分のためだけじゃなくて、大切な人の期待を背負っていたのだ。
わたしは何も言わず、ただ彼女の言葉を聞いた。雨はまだ降り続いている。でも、森の囁きは、雨音の中でも確かに聞こえていた。それは二人の少女が、それぞれの『ゴール』に向かって歩み始めた、新たな一歩の音だった。
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