くろかん! 雲雀丘学園クロスカントリー部

鵺野かげり

第1話:風の音、私の音

 校舎裏にある小さな森は、穏やかな風が吹き、どこか懐かしい土の匂いがした。


 わたし、森山風花はその匂いを胸いっぱいに吸い込み、少しだけほっとする。

 中学の陸上部では、いつもタイムを気にしていた。コンマ一秒を縮めるために、ただひたすら走るだけの日々。フォームを気にして、呼吸も歩幅も一定に保って。手の指先から足の爪先まで全神経を集中して。それはそれで素晴らしい経験だったはずだけど、風や土の感触も、自分には感じられなくなってしまっていた。だから、雲雀丘学園に進学して、陸上を離れることにした。


「クロスカントリー部……珍しいわね?」


 担任の教員にそう言われたとき、わたしはただ「はい」と答えるしかなかった。速さだけを求める競争から逃れるように、クロスカントリー部の門を叩いた。


 クロスカントリー部での、初めての練習。

 他の部員たちがストップウォッチを片手に、真剣な顔で走り出す中、わたしは最後尾から、ゆっくりとスタートを切った。


 森の中に入ると、空気がひんやりと冷たくなった。

 少し立ち止まって、目を閉じる。少し湿った緑の匂い。木漏れ日が葉の間から差し込み、小鳥の囀りが聞こえて、春先なので色とりどりの花も咲いている。足元に広がる腐葉土は、歩くたびに柔らかく沈んだ。その感触を確かめるように、一歩一歩をしっかりと踏みしめる。速く走ることよりもただ、この感覚を全身で感じたかった。


「あなた、何をしてるの?」


 不意に、後ろから冷たい声がした。振り返ると鋭い眼差しをした少女が立っていた。すらりとした体型に、結んだポニーテール。彼女こそ、このクロスカントリー部のエース、二年生の清沢凛先輩だった。


「トレーニング……ですけど?」

「トレーニングですって? サボりのトレーニングかしら? 練習はタイムを縮めるためにするものでしょう? だらだらと走って、何になるの?」


 凛は鼻で笑って再び走り出し、立ち止まったわたしを颯爽と追い抜いていった。そのフォームは、まるで風を切り裂くように鋭く、迷いがなかった。凛の足音は、目標に向かってひたむきに進む、迷いのない音。それはまるで、かつての自分を見ているようだった。


「……サボりだって言われちゃった」


 周回遅れなのだから、そう思われても仕方がない。

 一呼吸、整えてからまた走り出す。頬を撫でる風の匂い、葉っぱから零れる雫の音、蝶々が花の周りを飛び交っている。それらをひとつずつ拾い集めるようにゆっくりと、しかし確かに前へ進んだ。


 自分にとってのゴールは、タイムや順位ではなかった。それは、風に吹かれる木々たちの語りかけてくれる声を聞き、広がる大地と空気と生命の感触を確かめること。そして自分だけのペースで、この道を最後まで走りきることだった。

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