13月1日のブラックアウト

999年、12月31日。

 午後十一時五十分。

 東京、六本木。

 本来の歴史よりも十年早く建設された『G20ヒルズ』の最上階、ペントハウス。

 全面ガラス張りの窓の外には、世紀末の東京の夜景が、死に絶える寸前の恒星のように弱々しく瞬いていた。

 部屋の中は、極限まで濾過された無菌の空気と、サーバーの排熱を冷やすための強力な冷房によって、冷蔵庫の中のような冷たさに保たれている。

 私は、イタリア製の革張りソファに深く沈み込み、グラスの中で弾けるシャンパンの泡を見つめていた。

 金田正一、二四歳。

 表向きはIT投資ファンド『Gキャピタル』の若きCEO。

 裏の顔は、この世界の経済を血管の裏側から支配する「寄生虫」だ。

「……あと十分か」

 隣に座る男が、ポテトチップスを齧りながら呟いた。

 **博士(ハカセ)**だ。

 彼はタキシードを着ているが、足元はサンダル履きで、膝の上には無骨なノートパソコンを開いている。画面には、複雑なコマンドラインが緑色の文字で流れている。

「準備はどうだ、博士」

 私はシャンパンを一口含んだ。

 『ドン・ペリニヨン P2』。一本数十万の味がするはずだが、この世界特有の「金属的な後味」が舌に残る。まるで、金貨を舐めた後のような鉄錆の味だ。

「完璧だよ、カネちゃん」

 博士はキーボードを叩きながら、ニタニタと笑った。

「世界中の銀行、証券取引所、軍事施設……主要なシステムの九割は、俺たちがバラ撒いた『G-OS』で動いてる。バックドアは全開だ」

「ライバルのシステムは?」

「メークロソフト? アッペル? ……あいつらは今頃、パニックになってるよ。俺が仕込んだ『時限爆弾』に気づいてね」

 今日は特別な夜だ。

 世間は『2000年問題(Y2K)』に怯えている。

 古いコンピュータが西暦の下二桁「00」を認識できず、誤作動を起こすというアレだ。

 だが、この世界には、もっと致命的なバグが存在していた。

 博士が発見した、このシミュレーション世界の「暦(カレンダー)のバグ」。

 この世界のプログラムは、なぜか「一年」を「三六五・二五日」ではなく、微妙にズレた数値で処理している。その誤差が蓄積し、一九九九年の終わりに限界を迎えるのだ。

 具体的には、日付がオーバーフローを起こす。

「見てな。世界中の時計が狂うぞ」

 博士がモニターを指差した。

 部屋の壁一面に設置された巨大スクリーンには、NY、ロンドン、香港、そして東京のカウントダウンイベントの様子が映し出されている。

 渋谷のスクランブル交差点。

 若者たちが騒いでいる。

 「あと五分!」「ノストラダムスなんて嘘だ!」「ハッピーニューイヤー!」

 私は冷ややかにそれを見下ろした。

 愚かな民衆(NPC)たち。

 お前たちが迎えるのは、新しい千年紀(ミレニアム)ではない。

 私たちが支配する「地獄の一丁目」だ。

「……そろそろだ」

 私は手元の端末を操作し、世界の主要株価指数の「空売り(ショート)」ポジションを確認した。

 レバレッジ一〇〇倍。

 全財産、いや、G20がこの一〇年で稼ぎ出した数兆円の資金を、すべて「世界崩壊」に賭けている。

 5、4、3……。

 渋谷のモニターから、歓声が上がる。

 2、1……。

 ゼロ。

 その瞬間。

 世界が「落ちた」。

 プツン。

 スクリーンの映像が消えたのではない。

 窓の外の夜景が、一斉に消滅したのだ。

 東京タワーの明かりも、ビルのネオンも、街灯も。

 すべてが同時にブラックアウトし、眼下には漆黒の闇だけが広がった。

「来た!」

 博士が叫ぶ。

 部屋の非常用電源が作動し、赤い回転灯が回り始める。

 博士のパソコンの画面には、信じられない文字列が表示されていた。

 『1999 / 13 / 01 00:00:01』

 一三月。

 存在しないはずの月。

 だが、このバグだらけの世界のシステムは、年を越せずに「13月」というエラー領域に突入したのだ。

「ヒャハハハ! 見たか! 本当にバグりやがった!」

 博士が狂ったように笑う。

「『G-OS』以外のシステムは、この『一三月』を認識できずにフリーズしてる! 銀行のATMも、発電所の制御システムも、信号機も、全部ダウンだ!」

 これが、我々の仕掛けた罠だ。

 我々の『G-OS』だけは、あらかじめこの「一三月バグ」に対応するパッチを当ててある。

 つまり今、世界中で動いているコンピュータは、我々のものだけ。

 私は即座にトレード画面を開いた。

 市場は大混乱に陥っていた。

 NYダウ、ナスダック、日経平均。

 チャートが垂直に落下している。

 システムダウンによるパニック売り。資産消失の恐怖。

 「999」というエラーコードと共に、人類の富が電子の藻屑となって消えていく。

「買いだ」

 私は静かに命じた。

「底値で拾え。ママゾンも、ゴーグル(まだガレージ企業だ)も、オカザキも、ゴーイングも。全部買い占めろ」

 カチャカチャカチャカチャ!

 博士が組んだ自動売買プログラムが、猛烈な勢いで買い注文を出していく。

 紙切れ同然になった株券を、タダ同然の値段で吸い上げていく。

 

 外は闇だ。

 信号が消えた道路では、玉突き事故が起きているだろう。

 病院では人工呼吸器が止まっているかもしれない。

 暖房が止まり、凍えている人々がいるだろう。

 だが、ここG20ヒルズのペントハウスだけは、煌々と明かりが灯り、シャンパンの泡が弾けている。

「……なあ、金田」

 博士が手を止めずに言った。

「外、見てみろよ」

「なんだ?」

 私はワイングラス片手に窓際へ歩み寄った。

 停電した東京の空。

 星が見えるはずだ。

 だが、そこにあったのは、星空ではなかった。

 月だ。

 満月が浮かんでいる。

 しかし、その月は、私の知っている「ウサギが餅をついている月」ではなかった。

 解像度が、低い。

 まるで昔のエミコンのドット絵のように、輪郭がギザギザしている。

 表面のクレーターも、テクスチャが貼り遅れたポリゴンのように、のっぺりとしている。

 そして時折、ブラウン管の走査線のようなノイズが走り、月全体が歪む。

「……おいおい」

 私は窓ガラスに手をついた。冷たい。

「月までバグってんのかよ」

「処理落ちだ」

 博士がポテトチップスをバリボリと噛み砕きながら言った。

「地上のシステムが一斉にエラーを吐いたせいで、この世界全体のCPUリソースが足りなくなったんだ。だから、優先順位の低い『背景(月)』の描画を省略してるんだよ」

 処理落ち。

 この世界がシミュレーションであるという、これ以上ない証拠。

 私は背筋が寒くなった。

 恐怖ではない。

 あまりの「作り物感」に対する、生理的な嘔吐感だ。

 私たちが必死に支配しようとしているこの世界は、所詮、誰かのPCの中で動いているスクリーンセーバー程度の存在なのかもしれない。

 だが。

 私はグラスの中の液体を一気に飲み干した。

 喉を焼くアルコール。

 それだけが、私に「生」の実感を与えてくれる。

「構わん」

 私は吐き捨てた。

「解像度が低かろうが、バグっていようが、ここは俺たちの世界だ。……全部頂くぞ」

 私はモニターに戻った。

 画面の中の数字は、すでに天文学的な桁に達していた。

 私の資産は、この数分間で国家予算を超えた。

 ドアが開いた。

 入ってきたのは、権藤と、麗子だ。

 彼らもまた、この歴史的瞬間に立ち会うために集まっていた。

「外は地獄絵図よ」

 麗子がファーコートを脱ぎ捨てながら言った。

「信号機が全部『青』になって、交差点で車がスクラップになってるわ。救急車も呼べない」

「政府は機能不全だ」

 権藤がニヤリと笑った。

「総理から泣きついてきたぞ。『なんとかしてくれ、権藤くん』ってな。……これで、政権中枢への食い込みも完了だ」

「復旧はどうする?」

 私が尋ねると、博士がエンターキーを叩いた。

 タンッ!

「パッチプログラム、送信完了。……三、二、一」

 バッ。

 窓の外の夜景が、一斉に点灯した。

 東京の灯りが戻る。

 まるで何事もなかったかのように。

 だが、世界はもう以前と同じではない。

 この数分間の暗闇の中で、世界の所有権は、我々G20へと移転したのだ。

 私たちは窓際に並び、復活した東京の夜景を見下ろした。

 「綺麗ね」と麗子が言う。

 「ああ、俺たちの街だ」と権藤が頷く。

 私は空を見上げた。

 ドット絵のように粗かった月は、いつの間にか高精細な「普通の月」に戻っていた。

 世界は何食わぬ顔で、正常なふりを続けている。

 なら、私たちも演じ続けよう。

 このバグだらけの世界の、救世主のふりを。

「ハッピー・ニュー・イヤー」

 私は呟き、空のグラスを掲げた。

 それは、2000年代という、我々の独裁時代の幕開けを告げる乾杯だった。

 遠くで、救急車のサイレンが鳴り響いていた。

 その音さえ、今の私たちには勝利のファンファーレのように心地よく聞こえた。

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