盗作の海図と、歪んだ羅針盤

一九九三年、初夏。

 神保町にある大手出版社『集英館』の編集部は、古紙の埃っぽい匂いと、インクの揮発臭、そして締め切りに追われる人間たちが発散する濃密な焦燥感(ストレス)で満たされていた。

 蛍光灯の白い光が、積み上げられた雑誌の山を無機質に照らしている。

 あちこちで鳴る電話のベル音。編集者の怒号。FAXの駆動音。

 それらは、かつての私――50歳で死んだ売れない漫画家――にとっては、胃壁を溶かすような恐怖のノイズだった。

 だが、今の私は違う。

 阿久津健二、一八歳。有名私立大学の文学部に在籍しながら、すでに新人賞を総なめにしている「若き天才」。

 私は、編集部の片隅にある打ち合わせスペースで、安っぽいパイプ椅子に深く腰掛け、足を組んでいた。

「……先生。いや、阿久津くん」

 目の前に座る担当編集者・佐々木が、分厚い原稿用紙の束を机に置き、深く息を吐いた。

 彼の手元にある缶コーヒーは、すでにぬるくなっているだろう。表面に浮いた水滴が、安っぽい合板のテーブルに染みを作っている。

「読みました。……凄いです」

 佐々木の声が震えていた。

 当然だ。私が持ち込んだのは、前世で「世界一売れた漫画」としてギネスにも載った海洋冒険ロマン――『海賊王(パイレーツ・キング)』の第一話なのだから。

 画力は、私の50年の経験値で底上げされている。

 ストーリーは、未来の単行本一〇〇巻分の伏線を最初から完璧に配置してある。

 面白くないはずがない。

「主人公のラフ、いいですねえ。ゴム人間という発想、そして『海賊王におれはなる!』というストレートな台詞。今の閉塞した時代に、風穴を開けるようなパワーがあります」

 佐々木は興奮気味に語り、胸ポケットからタバコを取り出した。

 カチッ。ライターの火が灯る。

 紫煙が立ち上り、私の顔の前で揺らめいた。

 私は心の中で冷ややかに笑った。

 チョロい。

 この時代の編集者は、まだ「王道」に飢えている。私が提示した「友情・努力・勝利」の方程式は、彼らにとって麻薬のようなものだ。

「ですが……」

 佐々木が急に声を曇らせた。

 彼はタバコの灰を灰皿に落とし、原稿の一ページを指差した。

 そこには、主人公たちが目指す「偉大なる海路」の世界地図が描かれている。

「この設定だけは、マズいです」

「何がですか?」

 私は眉をひそめた。

「世界を『一周』する、という目的です」

 佐々木は言いにくそうに、しかし断固とした口調で言った。

「阿久津くん、君も知っての通り、地球は『円盤(フラット)』です。一周なんてできませんよ。端っこまで行ったら、氷の壁にぶつかって終わりです」

 出た。

 またこれだ。

 この世界のバグった常識。

 私は喉元まで出かかった「地球は丸いんだよ、バカ!」という言葉を飲み込んだ。

 ここで反論しても、「頭のおかしい新人」扱いされて連載会議に落ちるだけだ。

 私は一瞬、思考を巡らせた。

 G20の目的は何か?

 「安楽な老後」のための世界支配だ。

 そのためには、私が描く漫画は、単なるエンターテインメントであってはならない。

 民衆を、我々に都合の良い方向へ誘導する「プロパガンダ(洗脳装置)」でなければならないのだ。

 ならば、修正しよう。

 元の名作をレイプすることになろうとも、この狂った世界に合わせて、もっとグロテスクで、もっと扇動的な物語に書き換えてやる。

 私は身を乗り出し、佐々木の手から原稿用紙を奪い取った。

 そして、鞄からGペンとインク壺を取り出した。

「わかりました、佐々木さん。……リアリティがない、ということですね?」

「え、ええ。まあ、子供たちが混乱しますから」

「じゃあ、こうしましょう」

 私はペンの先にインクをたっぷりと含ませた。

 黒い液体が、ペン先から滴り落ちる。

 カリッ、カリカリッ。

 紙を引っ掻く音が、静まり返った編集部に響く。

 私は、原稿の中の世界地図を塗り潰した。

 球体を前提とした航路を消し去り、代わりに描いたのは、中心から外側に向かって広がる「放射状の航路」だ。

 そして、世界の果てにそびえ立つ「氷の壁」を、より巨大に、より禍々しく描き加えた。

「主人公の目的を変えます」

 私は手を動かしながら言った。

「世界一周じゃない。……『世界の果ての壁を越えること』にします」

「壁を越える?」

 佐々木が目を丸くする。

「ええ。この世界の常識では、壁の向こうはタブーです。でも、だからこそ燃えるんでしょう? 『壁の向こうには、誰も見たことのない楽園(エデン)がある』。そう定義するんです」

 私は、主人公の台詞を修正液で消し、上から太い文字で書き殴った。

 『海賊王に、おれはなる!』

  ↓

 『この世界の、支配者に、おれはなる!』

 ……いや、やりすぎか。

 私は少し考え、書き直した。

 『壁をぶっ壊して、新世界の王になる!』

 これだ。

 これなら、冒険活劇の皮を被った「体制転覆の扇動」になる。

 読者の子供たちに刷り込むのだ。

 「今の世界は狭い」「壁の向こうに行きたい」「新しい秩序が必要だ」。

 そうやって潜在意識を耕しておけば、将来、我々G20が世界政府を樹立した時、彼らは諸手を挙げて歓迎するだろう。

「……なるほど」

 修正された原稿を見て、佐々木が唸った。

「過激ですね。でも、その『壁への挑戦』というテーマは、今の閉塞感のある日本には刺さるかもしれません」

「でしょう? 私が描くのは、ただの漫画じゃありません」

 私はニヤリと笑った。

「『聖書』ですよ。これからの時代のね」

 佐々木はゴクリと唾を飲み込んだ。

 彼の目には、私への畏敬の念が宿っていた。

 一八歳の若造が放つ、老獪な策略家のオーラに気圧されているのだ。

「会議にかけます。いや、編集長の決裁を取ってきます。これは、間違いなく看板作品になりますよ!」

 佐々木が原稿を抱えて走り去っていくのを、私は冷めた目で見送った。

 インクの匂いが鼻をつく。

 指先についた黒い染み。

 それは、前世で感じた「創作の喜び」の匂いではなく、血なまぐさい「犯罪」の匂いがした。

 私は名作を殺した。

 そして、怪物を産み落とした。

 だが、後悔はない。

 この偽物の世界には、偽物の神話がお似合いだ。

 打ち合わせを終え、編集部の入っているビルのロビーに降りると、一人の女が待っていた。

 女子大生風のファッションに身を包んだ、派手な美人。

 ブランド物のバッグを持ち、ハイヒールのかかとをコツコツと鳴らしている。

 周囲の男性社員たちが、すれ違いざまに振り返るほどのフェロモンを撒き散らしている。

 麗子だ。

 G20の諜報担当。表向きはモデル兼タレント、裏の顔はハニートラップの達人。

 中身は68歳

「お待たせ、阿久津くん。……どう? 上手くいった?」

 彼女は甘い声で近づいてきたが、その目は笑っていなかった。冷徹な計算機の目だ。

「ああ。連載は決まりそうだ。……そっちはどうなんだ?」

 私は小声で尋ねた。

「バッチリよ」

 麗子はバッグの中から一枚の写真を取り出し、チラリと見せた。

 そこには、集英館の編集長(50代)と、麗子がラブホテルから出てくる姿が写っていた。

「……おい、編集長まで落としたのか?」

 私は呆れた。

「『落とした』んじゃないわ。『握った』のよ」

 麗子はふふっと笑い、写真をしまった。

「これで、あんたの漫画はアンケートの結果に関わらず、プッシュされ続けるわ。アニメ化も、映画化も、私の思うがままよ」

「恐ろしい女だな、相変わらず」

「褒め言葉として受け取っておくわ。……だって、必要なんでしょ? 『文化』の力」

 彼女は真顔になった。

「金田が経済を握り、鬼瓦が暴力を握った。でも、人の『心』を握るのは、あんたの仕事よ、阿久津」

「わかってるよ」

 私は自動ドアの向こうに広がる、神保町の街並みを見つめた。

 古書店街。学生たち。サラリーマン。

 彼らは皆、何かの物語を求めて彷徨っている。

「俺が描く漫画で、この国中のガキを洗脳する。10年後、彼らが大人になる頃には、G20の思想が『常識』になっているはずだ」

「頼もしいわね。……じゃあ、行きましょうか。次はテレビ局のプロデューサーと『お食事』なの」

 麗子は私の腕に手を絡ませた。

 その体温は温かいが、香水の匂いはどこか人工的で、防腐剤のような冷たさを感じさせた。

 私たちは並んで歩き出した。

 一八歳の大学生カップルに見えるだろう。

 だが、その影は、昼下がりの太陽に照らされて、巨大な怪物の形に伸びていた。

 私の鞄の中には、Gペンとインク。

 麗子の鞄の中には、盗撮カメラとボイスレコーダー。

 私たちはそれぞれの「武器」を携え、この歪んだ世界を犯しに行く。

 空を見上げると、今日もまた、毒々しいほど青い空が広がっていた。

 雲の形が、どことなく「円盤」のように見えたのは、私の罪悪感が見せた幻影だったのだろうか。

 いや、罪悪感などない。

 あるのは、成功への渇望と、この世界のバグを嘲笑う優越感だけだ。

 私はポケットの中で拳を握りしめ、次なる「プロパガンダ」の構想――忍者が里を抜けて世界を統一する話(これも大ヒット作の改変だ)――を練り始めた。

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