ニートのおじさん、幼女吸血鬼になる

　有坂滉は、深い森の奥で目を覚ました。

　

　聞いたことのない鳥の鳴き声がする。

　

　まだ意識がはっきりとしない。頭の中がくらくらする。

　普段の寝起きとは異なった感覚だ。不自然に体が軽い。今なら一回の跳躍で、高木を飛び越えることすらできそうだ。

　

　眠気がまだ残っているのか、あくびが出る。

「ん……？」

　

　そこで異変に気が付いた。喉から出る声が、妙にかわいらしい。とても三十過ぎのおっさんが出すものとは思えない。風邪だとしても、こうまで激しい変化は訪れないだろう。

「うそだろ」

　

　舌足らずであどけない声音。

　適当な言葉をいくつか喋ってみたが、変化はない。元の声質に戻ることはなさそうだ。

「こんなことが本当に起こりうるのか」

　

　実はまだ夢の中にいるのかと疑う。

　頬を思いっきりつねってみるが、しっかりと痛い。疑いようのないリアリティを持っている。

「ちょっと待てよ」

　

　そして、気が付く。

　

　訪れた変化は、声だけの問題ではなかった。さらに重大な変化が訪れていた。

　

　体が明らかに小さくなっている。いや、もっと正確に表現すれば、幼くなっているというべきか。

　

　頬はもちもちで、まるでマシュマロのような柔らかさ。

　シミひとつない肌は、粉雪のように白い。

　小さな手は、上質なシルクのようにすべすべだ。

「な、ない！？」

　

　いやな予感がして股間の辺りをまさぐってみた結果、最悪の事実が発覚する。長年連れ添ってきた相棒が、どこにもいない。

　何度触ってみても、本来あるべき感触がない。

　受け止め難い現実に、息がつまりそうになる。

「俺は、女の子になってしまったのか……？」

　

　発する声音のひとつひとつが、子犬のように愛くるしい。

　どれだけ深刻になろうとしても、まるで緊張感がない。

「しかもここ、どこだよ」

　

　意識は鮮明になってきた。

　立ち上がって、辺りを見回す。

　森だ。見渡す限り木が生えている。

　人影どころか、人工物すら見当たらない。

　

　文字通りの孤立である。

　

　知らない動物の鳴き声が聞こえてきて、肝を冷やす。

　だが、空気はおいしい。都会では絶対に味わえない新鮮さがある。

　

　一度ゆっくりと深呼吸をする。

　……少しは楽になった気がした。

「さて、これからどうするかな」

　

　少しでも寂しさを紛らわすために、あえて声に出す。声質には違和感があるが、仕方ない。

　

　知らない森を無暗に歩くのは危険だ。無駄な体力を消耗して、さらに奥深くへ迷い込んでしまうかもしれない。

　

　ならばここでじっと救助を待つべきか。……それも賢い選択とは思えない。おそらくこんな辺鄙な場所には誰も来ないだろう。人間よりも先に、獣に見つかりそうだ。

「ちょっと歩いてみるか」

　

　考えてばかりいても、どんどん悪い方向に想像が広がる。なにかあれば引き返せばいいと判断し、歩き始めた。

　

　しかしとにかく、歩幅が小さい。大幅にスピードが落ちている。

　

　目線も低くなっているので、周りにあるものすべてが巨大だ。怖いというわけではないが、圧迫感を覚える。慣れればどうということはなさそうだが、時間がかかりそうだ。

「それにしても、変な森だな」

　

　高くそびえる木々は、異国情緒を漂わせている。

　今までに見たことがない姿形だ。色合いや匂いなど、日本のものとはまったく異なっている。虫や鳥の鳴き声も、記憶にないものばかりだ。

　

　絶望はしないが、やはり不安は募る。一体なにがどうなってこんなことになってしまったのか、見当が付かない。考えれば考えるほど、混乱してくる。

　

　風が吹き、ドレスの裾を揺らす。

　

　服装にしてもそうだ。身に覚えがないのに、目が覚めたらフリル付の青いドレスを着ていた。ひらひらしていて、歩きづらいことこの上ない。

　だが脱ぐわけにもいかず、仕方なく着続けている。

　

　しばらく歩いてから、奇妙なことに気が付いた。

　

　歩いても歩いても、息切れせず疲れないのだ。

　

　疲労の気配すらない。このまま休むことなく、一日中前進することだってできそうだ。

　若返って体力が付いたとかそういう次元の話ではない。おそらく、もっと根本的な部分で異変が生じている。

　

　今はその正体を掴むことはできないが、いずれ向き合うことになりそうだ。

　

　ともあれ、体力の心配は杞憂に終わった。一時は引き返すことも考えたが、その必要はなさそうだ。

「頼む、獣だけには遭遇しないでくれ」

　

　それが一番大きな気掛かりだ。

　今の姿では、まったく抵抗のしようがない。細い手足は、少しの衝撃で簡単に折れてしまうだろう。

　

　もっとも、元の姿なら戦えるかといったら、それも怪しいが。まあそこは、相手次第といったところだろうか。

　

　益体もないことを考えながら、ひたすらに歩き続けた。

　

　……出発してから二時間以上は経っているだろうか。

　

　周りの景色に大きな変化は生じていない。

　肉体的な疲労はないが、精神的な疲れはいかんともしがたい。

　前向きになろうと努めるが、すぐにマイナスなことばかり浮かんでくる。

　

　空を見上げたとき、近くの茂みでなにかが動いた。

「なんだ？」

　

　身構えて、警戒の度を強める。

　

　背を向けて逃げ出したい気持ちになるが、堪える。

　音がしたほうへじっと目を凝らす。

　冷や汗が頬を伝う。

　緊張で背筋がこわばる。

　

　無害な生き物であってくれと願いながら、その登場を待つ。

　

　残念ながら、期待は裏切られた。

　

　ぞっとするような唸り声。ナイフのように鋭利な牙。すえた獣臭。殺意のこもった目。

　大型犬をひとまわり大きくしたような体躯。

　姿形はオオカミに近いが、さらに迫力がある。

　

　距離は五メートルにも満たない。

「最悪だ……」

　

　運の悪さを呪いながら、つぶやく。

　

　どう考えても、勝てる気がしない。

　逃げおおせることは不可能だとすぐにわかる。

　

　それでも諦めるわけにはいかないので、後ずさりして距離を取ろうとする。

　だがそれに合わせて、相手も距離を詰めてくる。

　

　恐怖で漏らしそうだ。

　

　頭上で一羽の鳥が飛び立つ。まるでそれがスタートの合図だといわんばかりに、敵は襲ってくる。

　

　反射的に手を前に出す。

　すると、なにかが脳裏に閃いた。

　自然と次の言葉が口からあふれ出る。

「燃やし尽くせ、原初の炎よ」

　

　強烈な熱気。地獄のような灼熱。肉が焦げるにおい。

　一瞬、なにが起こったのかわからなかった。

　

　間を置いてから、理解する。

　

　いきなり手のひらから炎が飛び出して、敵を焼き殺した。常識外れの高温で、骨すら残っていない。すべて灰になってしまった。風に吹かれて、行方も知らず散っていく。

「なんだったんだ、今のは」

　

　心配して手のひらを確認するが、とくに外傷はない。柔らかい肌は、雪のような白さを保っている。

　また、近くの木々に燃え広がることもなかった。確実に敵だけを焼き尽くした。

　

　ひとまず命は助かった。それに関しては安心する。状況から考えて、今ごろ死体になっていてもおかしくなかった。

　

　まだ足が震えている。

　この森で目覚めてから、不思議なことが起こりすぎて脳の処理が追いつかない。

　近くの木に体を預ける。

　

　しばしの間、休もうと思った。