第43話 奈落の底
マイヤの心の中はヘリットの首に手を掛けている事への恐ろしさで、暴風のように荒れ狂っていた。しかし、それがかえって功を奏した。
かっちりした意識が保たれているときには、なかなか起きている者の心の中に侵入することは難しい。しかし荒れ狂うマイヤの心の中は他者からの侵入を拒む無意識の障壁がところどころほころんでいた。
これと言ったとりえがない獏家だったが、さすがにお家芸である心の中への侵入は得意である。ヘリットは自分の意識を手放すと、するりと彼の心の隙間に細い橋を架けて侵入した。
果たして、橋を渡りきった先、荒れ狂う嵐の中にたたずんでいたのは桃色の長髪をなびかせたすらりとした人影だった。しかし、背がマイヤにしては低く、デリットにしては高かった。
「君は誰だ」
ヘリットの言葉で、一条の光がその人影に刺す。
その顔は刻々と変化し、時にはマイヤで、時にはデリットというふうに変化した。デリットは長い間ともに過ごす内にマイヤの人格のなかに強固に根を張り、ついには彼の中に溶け込んでしまっているようだった。
「マイヤから離れろ。彼を自由にしろ」
「あら、彼は私を守りたいってよ……」
笑いをこらえるように人影は肩をすくめて口に手をやった。
「長いこと苦しみながら私と居たことで、もう私を守ることが自分の存在意義だと無理矢理自分にすり込んでしまったようね。きっと私の居ない彼は目的を失った抜け殻になるわ」
「馬鹿にするな、マイヤはそんな弱い人間ではない」
ヘリットはじわりじわり少女の方に近づく。
「何をする気なの?」
「だめだ、それ以上近づくなヘリット。お前にも危険が及ぶ……」
突然マイヤの顔になった人影は来るなとばかりに両手を広げて前に突き出した。
ここはマイヤの心の中だ。マイヤの意識がこの世界を統べる。と、言っても彼は獏家と違い夢の中を司る術を持ち合わせていないはずだ。
だが、長いことこの世界に封じ込められていたデリットは話が別だ。
マイヤの心がデリットに操られる前にここは早く決着をつけてしまうに限る。
ヘリットは暗示をかけるかのように、デリットに話しかける。
「君は地面の上のつもりだろうが、そこは心許ない薄い橋の上だよ」
ヘリットの言葉とともにぐらりと桃色髪の人影が揺れた。波の上で板きれに乗っているかのようにぐらついて立つのも難しい様子だ。その隙にヘリットは橋を伸張させて一歩一歩近づいていく。
「お前も同じだよ。お前の立っているところは紙でできた橋だ」
人影はマイヤからデリットの顔に変わり、口から牙を覗かせて叫ぶ。ここはマイヤの心の中、主導権はこちらにある、とばかりに細い橋はヘリットの立っているところからべりりと勢いよく裂けていった。
紙が裂けて心の奥の奈落に落ちる前に何とかしなければ。彼らに向かって必死でヘリットは走る。橋の先端が闇の中に途切れる寸前、彼は思いきり橋を蹴ると宙に飛び上がった。そのまま、彼は闇の中にたたずむマイヤに飛びつく。
まさかヘリットがそんな無謀な行動に出ようとは思わなかったマイヤは油断していた。
一塊になった彼らは闇の中に投げ出される。
すかさずマイヤは鳳凰に変化する、その上には黒い羽の生えた少女が乗っていた。
分離した。
ヘリットは背後から少女の羽根の付け根を掴み、引き剥がしながらマイヤの背を蹴った。
「マイヤから離れろっ」
少女の羽根を抱え込むように掴んで羽ばたきを封じたヘリットは、マイヤの背から飛び出し彼女と共に漆黒の中を落ちていく。
「来るな、こいつは僕が始末する」
その言葉はヘリットの奥底から湧き出てきたものであった。
なぜマイヤのために身を尽す? それは自分でも信じられないような言葉だった。だが、彼は自分の言葉に満足していた。
僕は、獏家のヘリット。戦う力は無いが心の奥深く、すなわち根源に繋がることのできる唯一の家柄だ。
ふと、思う。隙があれば獏家を滅しようとしていた鳳凰家のマイヤが自分の身を挺して雪山でヘリットを助けたのも同じだったのではないか。
すなわち自分という存在に対する矜持が、人の命を最優先させたのだ。
追ってきたマイヤに、ヘリットは叫ぶ。
「近寄ると君はデリットに操られてしまう。僕を追うな」
鳳凰は闇の中に留まった。相打ちも辞さないヘリットの極限状態の決意が伝わったのか、絶望的な両目がヘリットを見送っている。
「馬鹿な。ヘリットお前、死ぬんだぞ。原初の混沌の中で魂を焼き尽くされて――」
しわがれた声を出すデリットはもはや少女ではなかった。頭髪のない皺だらけの頭部がなんとか鋭い牙をヘリットに立てようと首をねじ曲げてくる。尖った爪は彼を引き裂こうと背後をまさぐるが、ヘリットが羽根の付け根を捻ると痛むのか、攻撃が緩む。
ヘリットは魔の背中越しに呼びかけた。
「マイヤの目を通して僕らの情報を魔族に送っていたな、恩知らずめ」
ヘリットの言葉に魔物の動きが止まる。
「僕の術がはったりであったことが、素早く魔族に伝わっていたこと。古城のある村に僕たちが来ると同時に魔族が侵攻してきたこと。変だと思っていたがすべてお前の仕業だったんだな。かくまってもらった鳳凰家に感謝はないのか」
「ふん、あるわけが無い」
「なぜ、お前達魔族は人間を攻めてくる? なぜ自分たちの土地に収まっていない?」
「理由などない、そもそも我々はもともと人がそうあれと望んで生まれたものよ。欲望を発散させるために同族で戦うよりは、他種のものと戦い罪の意識を逸らそうとしたのさ。お前達が夢を見たから我々が生まれたんだよ。滅亡せずにやってこられたのは誰のおかげだと思っているんだい、ふん、感謝してほしいのは魔族のほうだね」
原初の神、夢見とはもしかして人々の願望が作り上げた神だったのか。
衝撃で羽をつかんでいた手の力が抜ける、このすきに彼の手を振り払おうとデリットが大きく羽ばたいた。
バランスを崩したヘリットはデリットの背中の上で腕を大きく振り回した。瞬間、デリットは背中の厄介者を振り落とそうとばかり勢いよく上昇した。
「人間は定期的に積み上がった欲望の澱を発散しないと生きていけない情けない生き物なのさ。生き物としての先は見えてるんだ、情けなんかかけるんじゃなかったよ、さっさと滅びちまえ」
そうはいかない。落ちそうになったヘリットは翼の付け根にかじりつく。次の瞬間、ふりむいたデリットの長い牙がヘリットの右肩を貫いた。
目の前が真っ暗になるほどの衝撃。血飛沫が噴水のように後方に飛び去っていく。しばらくするとヘリットは痛みすら感じなくなってきた。
彼は振り落とされないように無我夢中でデリットの頭を抱え込んだ。
二つの影が一塊となり、きりもみ状態で闇に落ちていく。
ああ、最後だな。彼は次第に強くなる腐臭を吸い込みながらなぜか平穏な気持ちになっていた。できる限りのことをした。自分ができることは。
闇がドロドロと粘性を帯びてきた。ここは魔が巣くっていた心の奥か。ヘリットは雑草の根のような細かい糸状の網が張り巡らされているのを感じていた。しかし、速度は落ちることなく彼らは網目を一気に突き破って落ちていった。
いきなり闇の底に針で突いたようなまばゆい光が見えてきた。それは視界の中で見る見るうちに大きくなり、黒いベールが取り払われたように、彼らは一面真っ白な場所に出た。
奈落の底を突き抜けたのか。
そこには白い炎が激しく揺れていた。熱波が一気にヘリットを襲う。
こ、これがへルートの言っていた『白い業火』か。ヘリットは息をのむ。
ふと見るとデリットの全身に細かいヒビが入り、ボロボロと崩れ始めていた。
「恩知らずはお前らの方だ」
デリットが叫ぶ。その瞬間、デリットの姿がふっ、と無くなり、砂のように霧散した。
気がつくとヘリットは一人で白い光の中を落ちていた。
やった。デリットを滅した。
だがヘリットの全身も真っ赤になって、ぶくぶくと水疱が浮き上がっていた。ヘリットの身体は溶けかけている。すでに熱さも痛みも感じなかった。自分ももう長くない。きっとこの光に吸い込まれて無になっていくのだろう。
僕は『獏家の跡取り』として恥ずかしくない仕事をした。
もう、ヘロヘロ獏とは呼ばさない。
これで……。
――馬鹿者めが。
命を手放そうとしていたヘリットの心に、突然大音声が響いた。
――その程度の術で、獏家の跡取りを名乗られてたまるか。
しわがれた父親の声。
息子には厳格で、秘密主義で――そのくせ影でヘロヘロ漠と呼ばれていることを知っているくせに、反論の一つもしない。腰抜け親父。
やる気がないと怒る前に、丁寧に術を教えない方が悪いんじゃないかっ。
――教えてもらうのではない。獏家の技は
できるわけがない。だって、僕は意欲も才能も無い意気地無しだから。
――できる。ここまでやってこれたお前なら。覚悟さえあれば。
いいか、忘れるな。無いという力は、無限の可能性を内に秘めていることを。
初めての経験だった。父親から信頼の言葉をもらったのは。
自分が憧れた自分、なりたかったものになるには、これが最後の機会かもしれない。
ヘリットの全身が白い炎に飲み込まれる。
親父に言われるまでもない。本当は、ずっと、ずっとそうしたかったんだ。でも、怖かった、勇気が無かった。
たいした能力もない僕が聖獣家を継ぐには、血のにじむような努力が必要だとわかっていたけど、面倒くさくてまじめに向かい合わなかった。
いや、それよりも本気で向かい合って成し遂げられなかった時のことを考えると、その絶望に耐えられる自信がなかった。
いいのか、ヘリット。このまま一生を終えて。
自分の中の自分が問いかける。
自分に向かい合う、おそらくこれが最後の機会。
失敗を恐れて、いつも逃げてばかりいた自分から脱皮する最後の機会。
自分への問いに、楽になろうとささやく自分。
手を出せば、世の中から責任がなだれ込んでくる。知らないふりを決め込んで逃げていれば、もう傷つくこともない。手を出すな。このまま眠っていろ。
いやだ。僕は、獏家の息子だ。
実力はないけど、どこに出てもはずかしくない獏家の跡取りになりたかったんだ。
突然胸の奥から押さえつけていた何かがこみ上げてきた。
それは言葉となってほとばしる。
「夢見よ、実体のない哀れな夢の塊よ、すべての罪を我が手に委ねたまえ」
無意識のうちに広げられた両手に白い炎が絡まるように集まって、全身を白く輝かせる。と、同時に彼の頭の中に様々な光景がなだれ込んできた。
彼の身体は落下を止めて、空中でふわりと浮き上がる。
目の前に、白い炎に形作られた白亜の橋が出現した。
いつか、遠い昔。
獏家の魂に刻み込まれた、ヘルートの封印された記憶と術。
それが今、継承された。
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