毟る

かいとおる

           毟る


                         かい とおる


 目の前をタクシーが、流れる街灯りを虹色に映しながらゆっくり通り過ぎて、少し離れたところで止まった。点滅するウインカーに照らされて、冷たい風の舞う深夜の歩道で枯葉や紙屑が生き物のように身じろぎする。ゆっくり開いた車のドアから黒いパンプスを履いた格好のいい足がぬうっと伸びる。すっぽりと影のようなコートの前を合わせながら女が出てきた。週末の夜、女は肩をおとして歩き出そうとしたが、ふと視線に気付いて顔を上げた。怪訝そうな表情が男の手元を見て、いっそう険しくなる。眉をひそめて口元が何か言いたそうに引き攣った。結局、関わり合いになるのを止めて、そそくさと歩き去り、路地裏の方に折れていった。

 男は通りに面した小さな居酒屋の軒下に座っている。ひび割れたぐらつく敷石からじかに伝わる冷気が痛い。尻から背筋を這い上がってくるけど、その夜血中に流し込んだアルコールのおかげでそれほど気にはならない。左手にぶら下げている半分毛の抜けた鴨がだらりと重い。伸びきった首を掴まれて星を見上げる鴨の眼は、まだ硝子のように澄んでいる。通りを奔る様々な光を受けてすらりと瞬く。もうなにも見えてはいないはずなのに、あらゆることを受け入れ理解しているように思える。

 鴨の羽を毟るのは考えていたよりずっと大変だった。まだ生々しい柔らかさをもっていて、モノとして安定しない鳥の死骸は手に余った。ぐにゃりとした皮膚を押さえつけてやっと羽を抜いたかと思っても、灰色の産毛が一面を覆っている。指も疲れてきたし、途方に暮れてぼんやり目の前を行き交う車を眺めていた。片側2車線の道路はこんな時間でも結構往来が激しい。地方都市の中心部から少し離れた住宅街を横切るこの道の両脇には、こじんまりした商店やら飲食店が軒を連ねている。裏にはアパートや小さなマンション、下宿屋が多い。二つの大学を結ぶ位置にあるこの辺りは学生の街でもある。夜が更けても数人で縺れ歩く声が響く。酔って陽気なサラリーマン、不機嫌な飲み屋の女、誰もが男を見下ろして一瞬立ち止まる。面白そうに話しかけてくるやつもいれば、顔を背けて歩き去るやつもいる。男は曖昧に笑うだけだ。


                  *


「あんた、カモ食いたい?」

 肩肘ついて豆腐のかどを箸で崩していた男に大将が聞いてきた。年季だけは入った木のカウンター越しに大将の広い背中を見る。着古した黒いTシャツは少々小さめなようだ。数人いた客も出て行って、店のなかは洗いものをする音と、古い蛍光灯の唸り声と、食器棚のうえのトランジスタラジオから流れてくるざらついた深夜放送がいい感じで混じり合う。暖かく、居心地がいい。

「カモ?食ったことないけど、うまいのかな・・」

「うまい、おれが美味くしてやるよ」

「カネないよ、たかいんでしょ?」

「ただで食わしてやる」

 死んだ鴨を持ち上げて目を細めた。

「ただし、自分で羽を毟ってくれ」

 どうやら貰い物らしい、詳しいことはしらない。もちろん男は引き受けた。

「店の外でやってくれよ、寒いけどな」

 大将は気付けの焼酎をコップについで、羽を入れるための段ボール箱をくれた。それから、猫でも抱くように鴨を抱えて厨房から出てきた。


 その日は男の27才の誕生日だった。だからと言って何の予定もなく、早番の仕事に出て単調な作業をこなし、残業が終わったらすっかり夜になっていた。そのまま六畳のアパートの部屋に帰るのもつまらないから、自転車でわざと知らない裏通りを巡りながら飯屋を探すうちに、結局いつもの見慣れた界隈にたどり着いた。

 先述の居酒屋の、通りを挟んで向かい側にある『バルバラ』という洋食店。一応、イタリアンの店なのだが、バルバラはフランスの歌手だそうで、流れる曲もシャンソンが多い。いかにもおしゃれな感じなのに、トイレの壁はピン止めされたいかがわしい写真で埋まっている。夜遅くまでやっているから、酒を飲みに来る客が多い。テーブル席が二つしかない狭くて細長い店内は、けっこう賑わっていた。話し声と煙草のけむりに包まれると男は少しほっとする。カウンターの一番奥に座って、一番安いバジルのパスタを注文する。腹が減っていた。

「おっ、珍しいね、飲まないの?」

 髭のマスターが忙しく手を動かしながら横目で笑う。

「じゃ、ビール」

 マスターはひょいと上を見上げて顎をしゃくる。カウンターの上には何本もワインの空瓶が紐でぶら下がっていて、つまりはそれを頼めというんだろう。マスターは何故かスペイン産のワインがお好みだ。

「いや、ビール」

 誕生日にワインなんか飲んでたまるか。

 口ひげに白髪の混じりだしたマスターは、昔、東京のシャンソンの生演奏が売りのクラブで修業をしたらしい。ピアノを弾いていた坂本龍一と麻雀をしたのが自慢で、芥川賞より直木賞の方が偉いと思っている。いつも渋めのアロハシャツを着ているのは、沖縄出身で元劇団員の奥さんの影響かもしれない。この店に通いだしたのも、最初は手伝っていた奥さんが目当てだった。いつの間にか大学生のアルバイトに変わってしまったが、その頃にはマスターのなんとも言えない人柄に惹かれるようになっていた。目の奥と口の端でいつも笑っているマスターのお陰で男は、世の中をアイロニカルに眺めることが出来るようになった。男の部屋の映りの悪いテレビはマスターに貰ったものだ。

 ビールの小瓶を2本空けたところで、常連のサトさんが隣に座ってきた。通りの端に『ふるさと』という老舗の居酒屋があって、サトさんはそこの若旦那でもある。いつも縒れた服をだらしなく着て、そこら辺の店を順番に飲み歩いている。腰まで届く長い髪に半分隠れた大きな黒縁眼鏡と青白い顔には表情がない。昔は全共闘だかなんだかで一目置かれたらしいが、今は老夫婦と若い嫁さんに店をまかせて、自分はふらふらと昼間から通りを彷徨っている。

「隅っこに座ってさみしそうじゃない」

 いい加減すわった目をして、そう声をかけてきた。

「いつものことでしょ・・お互いに」

「おっ、機嫌が悪い、若者はそうじゃなきゃ・・」

「今日、何の日か知ってます?」

「んっ、なんだ?ジョンレノンの死んだ日?パールハーバー?ひょっとしてクリスマス・・」

「・・月ぐらいは把握してるんですね、僕の誕生日です」

「なあーんだ」

「なんだじゃないですよ、いくつになったって聞かないんですか?」

「野郎の歳聞いてどうするんだよ」

「いや、ながれとして・・」

「で・・」

「で・・?」

「いくつになったよ」

「なんかおごってください」

「・・俺の店来るか?コロッケ食わしてやる」

「いやですよ、あんたの友達だと思われるし」

「うん、まあ俺も言ってみただけだ・・」

 男はすぐ脇にある小窓を開けた。隣のビルとの隙間に、庇からステンレスのピンチハンガーが吊るされていて、よく烏賊やら魚の開きがぶら下がっているのを知っていたからだ。その夜はイカだった。

「マスター、これ食べていい?」

 少し客も落ち着いてきて、煙草を吸う余裕のできたマスターに声をかけると黙って頷いた。

「一夜干し、おいしいですよね、奢ってください」

 すでに眠そうに目が泳いでいるサトさんに一応断って、まだ柔らかい烏賊を物干しからはずし、マスターに手渡した。

「旦那の奢り?珍しいじゃない」

「・・マスター、この若者はなんと誕生日だそうだ」

 サトさんは目の前を通り過ぎる烏賊の足をぼんやり見送りながら、誰にともなくつぶやいた。日に日に増える白い筋の混じった髪はカサカサに乾いて、揺れるたびに物悲しい音がしそうだ。

「ボトル、カラだよ、キープしとく?」

 マスターが聞く。もちろんサトさんに対して。

「・・ああ、うん」

 顔を上げ、手元を見つめ、握っていたグラスを開けた。そして、何か切ないものでも見つけたように微笑んだ。この辺りではサトさんを悪く言う者はいない。むしろ愛されていたのだ。数年後、通りを横切る大きな川に向けて橋の上から飛んでみたが、しっかり生き残って今でも何処かをうろついているはずだ。

マスターは、サトさんのウイスキーをビールの大ジョッキにどぼどぼと注いで、氷をたっぷり詰め、男の前に置いた。

「乾杯だ青年、生まれてきてよかったな!」

 ちゃっかり自分の分も作っていたマスターがジョッキを掲げて言った。サトさんもなんとなく頷いて、他の客は意味も分からずグラスを干した。男は唇に氷の冷たさを感じながら、一気に灼ける水を喉に流し込んだ。食道から胃にかけて熱いものが刺さって溶けていった。そこからのことは男もよく覚えていない。


 気が付けば、客も入り口付近のテーブル席にいる大学生らしい二組のカップルと、カウンターに突っ伏して寝ているサトさんだけになっていた。烏賊の足を噛みながら放心状態になっていた男は、とりあえず外に出ようと思った。今日はいい日だった、明日も昼から仕事だがなんとかなる。トイレで四つん這いになって胃の中のものをぶちまけているところを見られても、気にする奴は誰もいない。

「マスター、お勘定・・」

 なんとか立ち上がれた。

「ん、もう帰る?きぃつけて」

 キッチンから出て椅子にもたれていたマスターも、潤んだ眼の焦点が定まらない。ビールとパスタ代だけ払って店を出たとたん、ジャンパーの襟から入り込んでくる冷たい空気に少し現実に引き戻された。目の前の街路樹に抱きついて慰めてもらう。地面は柔らかく波打っている。黒く湿った木の肌を抱きしめながら、ゆらゆらと幹が伸びて空に昇っていくような気がした。街に漂う様々な音や光や気配が、枝葉になって男を支えている。深く息を吸って、甘くて苦い苔の匂いで胸をいっぱいに満たしながら、「大好きだ・・」と呟いた。


 突かれて顔を上げると、何本もの足が地面から生えていて、何やらがやがやと五月蠅かった。

「なんやこいつ、だらしねぇな」

「じゃまなんだよ、おっさん」

「なにぶつぶつ言ってんのぉ」

 少年の一人がしゃがんで男の顔を覗き込んだ。

「酒くせぇなあ、はよ家帰れよばか」

見回せば、誰一人笑ってはいない。草をはむウサギのような眼をして男を見下ろしていた。

「あっちいけ、向こうで遊んで来い」

 言った途端に頬を張られた。

「ちょっと立とうか・・」

 胸ぐらをつかまれて、壁に沿って引き揚げられた。どうやら歩道でどこかの家にもたれて座り込んでいたらしい。背中が押し付けられているのは、古い板壁でミシミシと脆そうに軋んだ。道路の向こう側に『バルバラ』のドアから薄明かりが漏れているのが見えて、自分のいるだいたいの位置がわかった。

 今度はナックルで一発食らってメガネが飛んだ。すかさず脇腹に蹴りが入る。

「なに笑ってんの、きたねえ顔でぇ」

 男は自分が笑っていることさえ気づいていなかった。でもさっきまでは確かに幸せだったのだ。


 がらりと格子の扉が開いて、小柄だががっしりと肩の張った男が出てきた。太い首に大きな坊主頭、不釣り合いな小さな眼が真ん中に寄ったかと思ったら、眉間に皺を立てて低い声を出した。

「・・なにしよるんじゃおまえら」

 先ほど喰らったげんこつよりも圧のある声だった。支えていた何本かの手が慌てて離れていったので、膝に力の入らない男はまたずるずると地面に座り込んだ。

「いや、なにも・・」

 かけ去っていく少年たちのなかの2、3人は、どうみても中学生くらいだった。

「大丈夫か、おまえ」

「だいじょうぶっす・・」

「・・・寒いから、ちょっとなか入れ」

「いいっす」

「いいから入れ」

 立ち上がり、メガネがないことに気付いて、辺りを見回していると、開いたままの扉の奥から、

「何してる、早くこい!」

と、苛立つ声がした。


 大将はどことなく、中学時代のコーチに似ていた。男は陸上部に所属していたが、後ろから追いかけてくるコーチの声に反射的に体が反応したのを思い出す。濡れたタオルを手渡され、顔の反面に押し付けると、かえって殴られた頬が熱を持って訴えてきた。唇が切れていて血が滲む。脇腹の痛みは大したことないが、明日になればわからない。言われるままにカウンターに座り、辺りを見回すと、奥に座っていた老人二人と目が合った。潤んだ目を細めてこちらを見ている。『まあ、よくあることさ』と、でも言いたげな表情で口の端を歪めている。

 男は、醒めかかった酔いをもう一度手繰り寄せたくなった。

「ビール・・いや焼酎をください」

 大将はちらりと見て、

「水にしとけよ・・」

「いや、しょうちゅう・・氷入れて」

 口の中の血の味を消すには一番相応しいような気がした。それからやっと気が付いた。

「あの・・さっきはありがとうございました。助かりました」

「おう」

「サイフ、取られる前で良かったです」

「あいつら、そこまでやるかなあ、まあ最近はわからんな、なあジロさん」

 ジロさんと呼ばれた老人は、かっかと笑い、

「いやあ、昔だっていっしょさあ」

 この小さな店は昔から、『バルバラ』の向かいにあったはずだが、男は知らなかった。

「ここ、なんて店なんですか」

「おもてに看板出てただろうが、かぁわ」と、大将。

「カワ?」

「流れる川、かわって書いてあったろ」

 そういえばなんか、ウナギがのたくったようなものが書いてあったような気がする。

「焼き鳥のカワじゃねえかんな」

 タキさんというじいさんが、つまらないことを言って一人で笑っている。ここには、焼き鳥もあればおでんもある、てんぷらだってできるし、カレーも作ってくれるぞ、と勝手に宣伝を始めた。後ろの壁に下がった黒ずんだ札の文字は達筆すぎてよく読めない。

「三途の川だったりして、ひっひっ」

ジロさんも欠伸を噛み殺しながら笑っている。

「はいよ、焼酎、それからこれは付け出しだ」

 大将が出してきたのは、豆腐まるごと一丁に鰹節をふっただけの、シンプルだがインパクトのあるものだった。これは誕生日のケーキだと思えなくもない。

「醤油はそこにある、わさびいるか?」

 今夜は何故か人が親切にしてくれる。

 

                  *


 どの程度まで羽を毟ればいいのかわからないまま、男は慣れない手つきで鳥の死骸をひっくり返しながら、悪戦苦闘していた。夜目にも怪しい光沢を見せた羽が抜けていくと、鳥は美しかった威厳を失い、だぶついた袋に近くなっていった。ただ、毟れば毟るほど、それは生き物であった頃のしたたかな存在感を主張してくる。店の軒下に燈っている丸い電灯が月明りのようで、羽を引き抜くたびに伸び縮みする鳥の皮膚を薄赤く照らしている。ぶつぶつと凹凸のある皮膚に黒い影ができて、手触りもより生々しくなった。だらりと垂れ下がった首の先にある頭はもう世間を逆さまに観るしかない。

 目の前の低い植え込みを縫って野良猫がこちらを注意深く観察しながら通り過ぎていった。男はなんとなくそれを見送る。猫が振り返ったと同時に扉が引かれてガラガラ声が降ってきた。

「あんた、いつまでやってんだ」

 振り返るとあきれ顔の大将が見下ろしている。

「・・・えーと、こんなもんでどうでしょう・・」

 大将は黙って鴨の背中を掴み上げ、バリバリとまばらになった羽を毟りだす。たちまちそれはただの肉塊になり、鳥の魂はやっと自由になって、通りの向こう、それから街並みを超えて星空に消えていった。

「さあ、なかに入れ、こいつを食うぞ」

 

 大将の後を、おもちゃを取り上げられた子供のようについていく。鴨の首が包丁で断ち切られるのを見届けてから、やっと呪縛が解けたように自分の席に戻れた。

 店の中では少し前に入っていった二人連れが疲れた様子でボソボソ喋っている。青いシャツと銀色のネクタイを寛げた中年男と、ラメの入ったベージュのブラウスに黒いカーディガンをひっかけた髪の赤い女だ。壁にダウンジャケットとフェイクらしい毛皮のコートが掛けてある。どうやら夜のお勤めを終えた女と店の関係者らしい。居酒屋の敷居を跨ぐときに見せた表情からすると思いのほか女は若いのだろう。毛を剝かれつつある鴨に気付くと、目を丸くして口をぽかんと開けた幼い素顔を見せた。

 小声で繰り返す女の愚痴を、中年男は無表情で頷きながら聞いていた。厚化粧と中年男の光沢のあるネクタイが、不思議とこの場に馴染んでいる。カウンターだけの細長い店の奥には、三畳ほどの小上がりの座敷があって、半分開いた障子から、畳まれた小さなちゃぶ台と般若の面の横顔が見えた。

 大将が鴨を料理している間、男は枝豆をもらってお湯で割った焼酎を飲んでいた。今夜はもういくら飲んでも意識を失わない気がする。若い女の愚痴は永遠に続き、次第に自分の小さな溜息と重なって、辛抱強く聞いている中年男に畏敬の念すら感じるようになった。

「ほら、まずこれ食いな」

 目の前に置かれた赤い肉片は、確かにさっきまで男の掌を押し返してきたものだ。墨色の皿の上に生姜を添えてきれいに並べられている。

「ほう、鴨刺しか、珍しいな・・」と、中年男。

「これ、にいさんがそこで羽毟ってたやつよね」

 また幼い顔に戻って、女が箸でつついている。

「これ、ほんとにただで食っていいんですか?」

「ああ、あんたの殴られ賃だ」

「えっ大将が殴ったの?なんで?」

 女がそれほど興味はなさそうに聞いた。でも、なんとなく今夜の低空飛行の精神状態からは抜け出せそうな様子だった。弾力のある肉を真剣な顔で噛みしめ、遠い目をして虚空を見つめる。中年男もいくらかほっとして、瓶ビールを追加で注文した。

「いや、こいつが店の前で絡まれてたんでね」

 男はその夜の自分に起こったことを、遠い昔の記憶のように眺めた。立ち込める靄を透かして、通りの灯りの断片が硝子の破片のように散らばっている。

「にいちゃん、ご馳走になるよ、災難だったな」

「いや、僕は・・・」

「でも、なんで鳥の羽毟ってたの?」

「いや、それは・・なんでだろ・・」

「にいさんが捕まえたの?」

「まさか・・」

「話が見えなあ~い」女は上機嫌だ。

 大将が大きなお椀に鴨汁をよそって持ってきた。

「これは貰いもんだよ、散弾の弾が入ってたらごめんな」

「ん~生々しぃ~、でも良い匂いだわこれ」

「うん、美味い!大将、全然臭みもない」

「カモネギってこれのこと言うんですね・・」

「にいちゃん、いかにもカモられそうだもんなあ」

「ネギなんかしょってないんですけどね・・」

「唇腫れてるよ、痛くない?」

 女はあらためてまじまじと男の顔をみた。歪んだ眼鏡を斜めにかけて、汗臭い髪がもさもさと襟元まで伸びている。客としてはとても歓迎するタイプではない。

「沁みるけど痛くない」

 男は痛みについて考えていた。万華鏡のような脂の輪が浮いた飴色のスープを見つめながら、自分の胸の内を探っていた。ここのところ、痛みを忘れて生きていた。何を言われても、どう思われても、別の次元に自分を置いてきたつもりでやり過ごしてきた。カサカサに乾いた生活、錆びた躰にねじを巻くようにしてその日を送る。痛みを遠ざけて、いや心の中のオアシスに深く沈めて。

 少年に殴られた痛みは、蜜蜂に手のひらを刺された時のように、眠っていた男の目を開かせた。少年の凍えた拳と熱を帯びた視線が、よそ見をしていた自尊心を振り向かせた。

「今日は、いや昨日は僕の誕生日だったんです」

「・・あら、そう、おめでとう」女が言う。

「そりゃ散々な誕生日やったな」中年男の顔が伸びる。

「いや、そうでもなくて・・」

「あんた、あちこちの看板蹴とばして回ってたの憶えてるか?」

 大将はにやりと笑って隣に座ってきた。

「俺が殴ってやろうと思ったが、その前にへたり込んじまった」

「えっ本当ですか・・」

「都合よく忘れたか?もうガキじゃねんだからしっかりしろよ、どうだ、自分で毟った鴨美味いだろ」

「はい、痛いほど沁みます」

 男の自尊心はまたこそこそと隠れだした。大将の太い腕で殴られていたら、蜂に刺されたぐらいじゃ済まなかっただろう。

「にいちゃん、けんか弱そうだもんな、あんまりハッスルしたらあかんで、自分を知らな、鏡みてみぃな」

 中年男は少し酔いが回ってきたみたいだ。

「毎朝な、自分の顔をしっかり見るんよ、真正面からこう、ちゃんと見るのよ、おのれが何もんかよく判る」

「僕もおっさんほど面の皮が厚くなったら見るようにしますよ」

「おっ、言うねぇ、元気出たねぇ、やるかぁ」

「やめなよ、みっともない、ごめんねぇにいさん、一杯奢るわ、この人悪気はないのよ、ただ、男の人には厳しいの、知らんけど」

「知らんなら言うな、外に出ろおっさん、明日鏡見て驚けよ」

「おいおい、あんたどうしたんだ、喧嘩売るのは看板だけにしとけ」

「僕だって肘を使うことくらい知ってるぞ」

 大将と中年男は顔を見合わせて笑った。

「なぁに肘って、肘鉄喰らわすの?へんなの・・」

 大将と中年男はまた大笑いだ。

 自分が、自分以外の何物でもなく見られていることに、男は寧ろ爽快な気分だった。急に体が軽くなって、頭が冴えてきた。そういえば、知らない路地を彷徨いながらこの通りに帰ってきた時から、いつもと違う、どうしようもなく懐かしい気分になったのではなかったか。自転車のからからという音に巻き取られるように、溜まっていた余計なものが抜けて言って、からっぽの身体でここまで来たのだった。そうだ、走ろう、昔みたいに風を分けて景色のなかに飛び込もう、肺の中の空気をすべて入れ替えて、草木の抵抗の柔らかさと繊細な痛みに全身を晒すのだ。

 唐突な衝動に身を任せることに男は有頂天になった。

「今夜は朝までパレードだ!」

 毟り取るように服を脱ぎ始めた男をみて、最初、他の三人は面白いものが始まりそうだと、手をたたいて喜んだ。だが、下着にまで手をかけだしたところで、こいつは本気だと気付いて目を見張る。男二人は顔を見合わせ、女は口に手をやったのだが、眼を覆うべきだったかしら、と頭の隅で考えた。

 貧相な裸体が泳ぐように戸口へ向かい、扉を開けながら前かがみになって靴下を脱ぎ捨てた。

「見たか・・」

「ああ、なんというか・・」

「意外とかわいいおしり・・」


 火照った頬に冷たいものが触れて胸に滑っていった。街路樹を巻いて通りを浚う風には粉雪が混ざっている。ゆっくりと道路に出て中央線に沿って走り出した。寒さは感じなかったが、耳の脇を通り過ぎる風の音が悲鳴のようでやけに煩い。お陰で、時折パッシングと共に鳴らされるクラクションの音が遠くへ追いやられた。通りの端の交差点までくると、くるりと反転してもと来た道を戻り始める。疲れは感じない。頭を振ってスピードを上げた。眼鏡が飛んで、通りはいっそう輝きに溢れた。サトさんが飛んだ橋を渡り、大学へ向かう曲がり角の所でまたUターンする。橋をまた超えた辺りから、歩道にちらほら人影が見えるようになった。踵がしびれて感覚がなくなっている。熱い舌で舐められている感覚の胸や腹よりも、汗の冷えていく背中の方からゾクゾクと震えが上がってきて、男はさらに追い立てられた。折り返してくると、『川』の前に三人が立っているのが見えた。手を振って声援を送っている。こちらも手を振り返す。向かい側の『バルバラ』の紅い灯の前でもマスターが笑い、サトさんが腕を組んでいる。歩道の見物人は次第に増えてゆき、声援も罵声も車やバイクの唸り声も、瞬く街の灯りと共に男は躰に纏い、すぐにそれも脱ぎ去った。 


                了  

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