第4話 森の捜索 ②
灰色の空は徐々にインクを落とした様に次第に濃い闇を孕んでいく。不気味な風の咆哮は、一度大地に積もった雪も巻き上げて、視界は真っ白に霞んでいた。
雪が深くなるにつれて匂いは掠れ、更に強風に曝されて微かになった。雪に突っ込む鼻先は冷えて、全身の毛にも雪がくっついている。
「ラン、本当にこっちか?これは、俺達が遭難しそうだな。」
さすがのアースも、フードを目深に被り寒そうに手を擦り合わせている。レイモンドに至っては風に煽られて飛んでいきそうだった。
「もう少し行って駄目なら一旦戻るぞ。これ以上は俺達も危険だ。」
「待って。」
レイモンドは鼻水を啜りながら何かに集中しているかの様に目を閉じていた。
「いた。」
「なんだって?」
「1つ2つ3つ。まだ生きている。」
更に眉間に皺を寄せて集中を高めると、深いため息をついた。
「それと魔獣っぽいのが4つ。急がないとやばそうだ。」
「まだ遠いのか?」
「俺の探知ギリだから、うーん、2キロくらい?」
「・・・・。」
通常の山道でも、それなりに時間がかかる。ましてや雪道だ。みるみる増えた降雪に、歩く度にブーツの脹ら脛迄埋まっていた。
「アースだけ先に行った方が速くない?俺はここでランと待ってるから。」
「あのな。」
にこやかに提案するレイモンドを睨み付け、アースは髪をかきむしった。
「お前がいないと、アイツラの居場所が分からないだろうが。ああ、くそ。ランを呼び戻せ。抱えていくぞ。」
「置いていってくれてもいいのに。悪いね。ラン、おいで。」
全然悪そうでは無い、むしろ、歩かなくてラッキー、とまで思っているレイモンド。
彼の呼び掛けに、小さな毛玉は大急ぎで戻ってきた。ひょいと胸元に抱えると、顔や体に付いた雪を払ってやる。
「かわいそーに。こんなに冷たくなって。」
「・・・・しっかりランを捕まえておけよ。飛ばすからな。」
アースの体が薄っすらと光る。身体強化の魔法だ。そして、レイモンドを荷物の様に軽々と左肩に担ぎ上げた。もちろん、レイモンドに抱かれているランも。
「何が悲しくて、いい年した男を持たなきゃならんのだ。」
「綺麗な女の子だったら、奥さんにキレられるから?」
アースは黙った。
「場所を言え。」
「とりあえず、ここから真っ直ぐ。」
「よし。」
一瞬、世界が音を置き去りにしたのかとランは思った。ランも決して走るのは遅くない。4本足なのだから、2本足の人間より走るのは速くて当たり前だ、そう思っていた。
だが、アースの走る速度は異常だった。あっという間に木々が後に流れていく。レイモンドとランというお荷物があるのに、更には自分の体重だってそこそこあるはずなのに、全く重さを感じさせない。まるで雪の上を飛んでいるようだった。
「そこ、斜め左に。約500メートル。」
ご主人様はぎゅっとランの体を抱いたまま、目を閉じている。何時もより速い心臓の鼓動と何時もより速い息遣いに、ランは何となく不安になって、その手をペロペロと舐め続けた。
「まもなく右に。もう直ぐだ。」
「ここまで来れば、戦闘の気配で流石に分かるな。よし、お前らはここで待ってろ。」
急激に視界が止まった。
アースはレイモンド達を雪の上に放り投げると、腰の剣を引抜いて飛ぶように走り去った。
「はあ、疲れた。」
レイモンドは雪の上に座り込み、胸元のランを覗き込んだ。榛色の瞳にかかった栗色の髪は、雪と汗に濡れている様に見えた。
「危ないから其処にいるんだ。万が一、こっちに来ないとも限らないからね。」
『大丈夫です。ランに任せてください。ランがご主人様を守って上げますからね。』
魔獣の咆哮が森に響き渡る。
複数の人間の叫ぶ声。剣戟の音が暫し続き、そして、何か黒いものが木々を掻き分けてこちらに迫ってきた。
「レイモンドー。そっちに行ったぞー!」
『く、くるなー。あっちに行けー!』
するりとご主人様の懐から飛び出し、獣に向かって叫ぶ。
レイモンドやアースより、遥かに大きい。尖った口元に、鋭利な大きい牙。
恐怖に体がガタガタ震えた。だが、ここで引く訳にはいかない。
雪煙を上げて、その獣はあっという間に眼前に表れた。
「くっ。」
『わあっ。』
ランを摘み上げ、レイモンドは地面を転がって魔獣の猛攻を避けた。獲物を見失った魔獣は一瞬止まり、振り返って再び狙いをつける。
「〈バインド〉」
雪の上に転がったまま、レイモンドが呟くと、雪の中から影のような手が表れて魔獣の足を掴んだ。イノシシに似た魔獣は怒り狂って吼え、力を振り絞って影の手を引きちぎろうとする。
「ラン。今のうち逃げろ。速くっ!」
振り払われまいと集中するレイモンドの顔は歪み、額から汗が流れ落ちる。
『嫌です。ランはご主人様を守るんです!』
ランは勢いよく魔獣に飛びかかると、暴れる首筋に齧りついた。たが、固い表皮に阻まれてちょっと穴が空いただけだった。
『なんという固い。わあっ。』
魔獣は頭を振り、小さな小虫を振り払った。ランは木の葉の様に吹き飛ばされ、雪の中にスボっと埋まった。
「ラーン!」
レイモンドが叫ぶ。空気が震え、風が熱を帯びた。
『痛い、痛いけど。』
一瞬飛びかけた意識を懸命に繋ぎ止める。
『ご主人様を守らないと。』
たとえ、一矢むくいられなくても、たとえ力が及ばなくても。
ご主人様を助け無くては。
必死に雪を掻き分け、穴から這い出ると
「ギャアアアアアア。」
魔獣は全身を焼く炎に悶えていた。そしてドサリと雪原に倒れ、それきり動かなくなった。雪煙が上がり、肉の焦げた匂いが森に漂う。薄暗くなっていく森の中で、魔獣を燃やす炎だけが赤々と闇を照らしていた。
『ご主人様、ご主人様は?』
心臓がきゅっと握り潰されるようだった。
風に流れる匂いを探す。
暗闇の中で、マントをはためかせて、ご主人様は燃える魔獣を睨み付ける様に立っていた。
『ご主人さまー!』
安堵に全身の力が抜ける。
鼻水を飛ばしながら、ランは全力でレイモンドに飛び付いた。レイモンドはランを見つけると、強張った顔をくしゃくしゃにした。
「ラン、よかった。」
膝を落としてランを抱き留めて、長く息を吐くように呟いた。
「怪我はないか?うん、大丈夫そうだけど念の為な。」
温かい光がご主人様の掌から溢れてランを包む。優しい熱は、体の痛みを柔らかく包んで消えた。
『あ、痛く無くなりました。ご主人様、凄いです!』
レイモンドは穏やかに笑って2、3度ランを撫でた。そして、目を閉じるとバタっと雪の上に倒れた。
『ご主人様?』
「ちょっと寝る。」
『えーー!こんなところで寝たら駄目ですよ。風邪を引きます!ご主人様、起きて下さいっ!』
どんなところでも暇さえあれば寝ようとするご主人様だが、流石に冬の雪原は駄目だろう。全身に毛皮の無い人間は、普通に凍死してしまう。
ランは必死に叫び、顔を舐めた。更にはマントを引っ張って動かそうとしたが、全く起きる気配は無い。
ご主人様の顔は、いつも以上に血の気が無かった。それでいて、いつも以上に体に熱を感じる。
妙な不安が胸につのった。
「レイモンドー!」
アースさんだった。左半身が血で染まっているが、ピンピンしているから返り血なのだろう。
その後ろから、少年が2人と少女が1人。疲れた表情で追いかけて来ていた。
「全く無茶しやがって。」
倒れているレイモンドをやはり荷物の様に抱え上げると、アースは後方の3人組を振り返った。
「お前ら、もう少し歩けるか。この先に避難用の小屋がある。其処迄歩くぞ。」
既に日は落ちている。今日中の下山は諦めるのが無難だ。風は弱まり、雪も時折ちらつく程度になったが、疲労しきったメンバーでは魔獣に対応しきれない。更に、怪我をしている者もおり、処置が必要だった。
山小屋に比較的近い場所だったのは僥倖だ。
とはいえ。
帰りの長い道のりを思い、アースはため息をついた。こんなに遠く迄来ると分かっていたら、もう1人くらい、腕の立つのを連れてくれば良かった。
この仕事が終わったら妻が何と言おうと、浴びる程飲もうとアースは心に決めるのだった。
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