鈴の少女と白い夜

綴葉紀 琉奈

プロローグ 焔の夜に

里が燃えていた。

焔が赤く弾け、風に煽られた火の粉が空を乱れ飛ぶ。

ぱん……ぱん……という何かの破裂音が時折響く。

遠くからは、一緒に暮らしてきた仲間たちの悲鳴が聞こえてくる。


「いや……やだ……!」


絞り出すような声。

背後を気にして何度も振り返りながら走る。


つばきの手は、冷え切って震えていた。

その手を包む掌は痛いほどに強く、

その力が“絶対に守る”という決意を伝えているようだった。


「……つばき、こっち!!」


声が掠れていた。

いつも穏やかな温かい声が、今は恐怖に揺れて聞こえる。


つばきは荒く息をつきながら、

腕を引かれるまま、煙の立ちこめる暗い道を走った。


足元で枝が砕ける。

喉が焼けるように痛む。

前だけを見ているのに、背中が熱くて仕方がない。


そのとき――

背後で、何かが木々をかき分ける音がした。


ざっ……ばきっ……!


追ってくる気配。

地面を蹴る重い足音。

獣のような息の荒さ。

焔の爆ぜる音とはまるで違う、生々しい気配。


「大丈夫、大丈夫だから……っ」


そう言う声も、引く手も震えていた。

息が乱れ、足取りも不安定だ。


ふいに、鈴が小さく鳴った。


り……ん。


走る振動で、腰の鈴が震えた。

その一音が、逆に恐怖を鮮明にする。


背後の音は近づいていた。


ばきっ……ばきっ……


荒い呼吸。

枝を踏み砕く重い音。

つばきは思わず後ろを見そうになるのを必死にこらえた。


前を走る影は、振り返る余裕もないほど必死だった。

長い髪が煤に濡れ、狐の耳の影が揺れている。

肩が激しく上下し、腕を引く力は悲鳴のように強い。


「……あと少し……っ、つばき……離れないで……!」


喉が痛くて声が出ない。

足が絡まりそうになりながらも、必死で走る。


背後の音は、もうすぐそこだった。


ばさっ……!


木が倒れる音。

誰かの叫び。


つばきの耳が焼けるように熱くなった、その瞬間――


空が、静かに裂けた。


夜の黒を破って降りそそぐ白光は、

焔よりも、炎よりも、なぜかつばきにだけ優しくふれた。


背後の追跡音が、すうっと遠のく。

痛みが消え、呼吸が軽くなる。


さっきまで世界を満たしていた音が、

全部、水に沈むように静かになった。


光は、つばきの指先に触れた。

つばきは前へ引く“誰か”の手を必死に掴もうとした。


なのに――

その手は、抵抗もなく、光にほどかれていった。


「……っ、だめ……!」


影の声が縋るように震えた。


力を奪われたのではない。

光が、あまりにも優しかったせいで、

つばきの指は眠るように開いてしまった。


握る手のひらの温もりが遠ざかる。

熱が消え、息遣いが消え、追跡の音さえ消えていく。


つばきの身体は、光のほうへ滑るように引き寄せられた。


掴まれたのか、抱かれたのか──

それすら分からない。

ただ、あまりにも心地よかった。


耳元で、鈴が震える。


りん……


その最後の音が消えるより早く、

つばきは光にさらわれた。


光に包まれ、つばきの意識は、

荒れ狂う世界から切り離されるように、静かに暗転していった。

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