第3話 目標

 だからなのか、昔からのことではあるが、

「何かが、どこかが違う」

 と思うことがある。

 というのは、

「他人の子供が、夢をかなえる」

 ということに対して、やけに、皆がひいき目に見るというものである。

 海外で活躍するスポーツ選手など、皆、

「素晴らしい」

 とはいうが、悪く言う人は一人もいない。

 それも、

「マスゴミというものが、あまりにも粘着的にひいきするからではないか?」

 と思えるふしがある。

 テレビの情報番組の、スポーツーコーナーでは、その対象選手が活躍などをすれば、

「今日もやってくれました」

 とばかりに、

「1安打打っただけ」

 ということなのに、褒めちぎるのだ。

 しかも、

「スランプに落ち込んだ時」

 というのも、徹底的に褒めまくり、ひいきしている状況を演出しているようだ。

 そもそも、マスゴミとしては、

「持ち上げた手前、何か悪いことでもしない限り、叩き落すような真似はしない」

 ということであった。

 しかし。これが、

「国内でがんパっているスポーツ選手」

 ということであれば、

「一時期だけ活躍した選手がいれば、同じように持ち上げる」

 というところまでは同じなのだが、実際に、ピークを過ぎると、今度は、

「まったく騒がなくなり、世間から見捨てられる」

 ということになるのだ。

 マスゴミとしては、

「他に活躍している人に鞍替えしないと」

 ということになるのだ。

 つまり、

「持ち上げておいて、一気に叩き落す」

 というのが、マスゴミという商売である。

 その証拠として、

「大東亜戦争」

 の時がそうだった。

 戦争前の頃は、

「大陸に侵攻して、日本の領土を広げる」

 ということを、正当性をもって賛美していた。

 だから、国民も、それに乗せられて、

「軍国主義」

 としての、考えが、

「軍における士気」

 というものを高めることになり、

「すべてがうまくいっていた」

 ということになる。

 だから、戦争がはじまると、

「実際に快進撃をしていた」

 という事実もあるが、

「新聞が売れる」

 ということで、どんどん戦勝記事を大げさに書いて、国民を扇動したのである。

 しかし、

「戦局が悪化していき、軍部が、情報統制をした」

 ということで、戦後になって、

「軍が悪い」

 として、すべての責任を軍におっかぶせたというのはいかがなものだろう。

 確かに、

「本来であれば、当初の計画通り、頃合いを見て、和平に持ち込む」

 という作戦があったにも関わらず、強行突破で戦争を續けたというのも、大きな問題だといえる。

 しかし、それよりも、

「ここで辞めると世論が騒ぐ」

 ということで、辞められなくなったというのも事実だ。

 しかも、

「辞められないのは、マスゴミの扇動が大きい」

 ということもあるだろう。

 だから、軍としても、実際の戦果を隠したというのも悪いだろうし、そもそも、

「戦争を始めるという時に、マスゴミや世論を利用した」

 ということで、

「因果応報だ」

 ともいえる。

 しかし、結局戦後になると、そのすべての責任は、軍部に押し付けられ、占領軍によって、

「武装放棄」

 というものをさせられ、再軍備禁止という、

「平和国家」

 ということになったのだ。

 だが、歴史としては、

「軍部が悪い」

 ということで、すべての責任を押し付けたということは、これを、本当に、

「歴史が出した答えだ」

 といえるのだろうか。

 今の政府は、それを思えば、

「当時の軍部」

 よりも、もっと悪いといえるだろう。

「国民は民主主義によって自由だ」

 ということで、政府と軍の違いを見せ、さらに、

「民主主義で選ばれた政府」

 ということで、政府が何をしようとも、文句を言ってもそこまでだということになるのだ。

 なんといっても、

「今の政府が変われば、それだけで世の中はよくなる」

 といっていた時代を最悪だと思っていたが、今の時代のように、

「他にやる人がいないから、しょうがないから、今の人がソーリになっているだけだ」

 というのだ。

 つまりは、

「ソーリにしている以上、国民が悪い」

 ということで、国民からすれば、

「右を見ても左を見ても、まったく何も見えない五里霧中の状態だ」

 ということになるのであろう。

 そういう意味で、

「世界でプレイしている選手をひいきして、持ち上げる」

 などというのは、実に変和ボケを証明しているようなものではないか。

 ただ、疑問なのは、

「自分の子供でもないのに、どうして、そんなに皆が、海外に行った選手を応援できるというのか?」

 ということである。

「皆が皆応援する」

 ということは、

「集団意識の表れ」

 ということになるのではないだろうか?

 考えてみれば、

「集団意識」

 というものほど、恐ろしいものはないといってもいい。

「大日本帝国時代の戦時中は、情報統制であったり、治安維持という観点から、特高警察などというものが存在し、世間を徹底的に抑えていた」

 ということである。

 さすがに、戦況が悪化してきて、国民生活は、貧窮にあえぎ、徴兵も、

「誰にでも赤紙が来る」

 という状態になり、実際に、

「連戦連勝」

 というマスゴミ報道というものに対して、

「さすがに、矛盾している」

 ということで、おかしいと思う人も多いだろう。

 しかも、

「反戦」

 であったり、

「国家体制に異議」

 というものを唱えれば、連行され、

「殺されるかも知れない」

 というほどの拷問を受けることになるのを考えると、

「政府を心から信じるなどできるわけはない」

 と思う人も出てくるだろう。

 しかし、それを口にすれば、

「特高に連れていかれる」

 ということで、国家が、

「本来であれば、自由であり、自由と憲法で決まっているものまで、特別法を作って陽動する」

 というのだから、異常ということだ。

 それも、

「戦時下」

 という有事では仕方のないことであろう。

 しかし、今の、

「民主主義の時代」

 というものであっても、

「さすがに大っぴらに拷問のようなものはできない」

 といっても、ソーリの一存で、世論開いてであれば、多数決で負けていても、

「ソーリの権限」

 ということで、強行突破をするということも、少なくはなかった。

「数年前のオリンピック強行開催」

 というものを思い出さない人はいないだろう。

 そんな政府と、マスゴミは、昔から、国民から見れば、

「一連托生」

 二しか見えないというものだ。

 だから、マスゴミは、

「自分たちに権力がある」

 と思い込んでいるのではないだろうか。

 なんといっても、

「表現の自由」

「出版の自由」

 ということで、

「マスゴミを擁護する」

 という手段は、

「憲法の条文」

 というものからはじまって、いまだにずっと続いてきているものであった。

 そういう意味で。

「なぜに、そんなに、海外で活躍するスポーツ選手を、厭らしいまでにひいきしなければいけないのか?」

 ということと、それ以上に、

「なぜ国民が、皆、海外組の選手を、誰もが持ち上げるのか?」

 ということであった。

 国内で活躍する選手だってたくさんいるのに、これをひいきと言わずになんというか?」

 ということである。

 そもそも、日本の球団とすれば、

「せっかく、ドラフトなどで苦労して取ってきた選手なのに、数年の活躍だけで、法外ともいえる契約金をかっさらわれて、たまったものではない」

 といえるだろう。

 日本にも、

「あの選手が海外に」

 ということで、最初は

「日本で見られなくなるのは残念だ」

 といっておきながら、実際に海外で活躍を始めると、

「日本の誇り」

 などというようになるのだ。

 そして、スポーツでの特にサッカーなどは、日本のリーグをそれほそ興味を持ってみないくせに、

「ワールドカップ」

 などの国際体感になると、急に興味を持ったりする。

「どうして、そんなに海外への進出を、日本の誇りと感じるのか?」

 ということである。

 考えてみれば、

「日本人にそれほど愛国心がある」

 といえるのだろうか。

「愛国心」

 というものが、本当にあるのか?

 よく言われるが、それも、一つの考え方として、

「諸外国との軋轢」

 というものを考えた時、

「大日本帝国の犯した罪」

 を鑑みることで、

「愛国心はもてない」

 と考えるのだろう。

 それの良し悪しというのは、

「その人それぞれの考え方」

 ということであろうが、

「海外に出ていく選手を応援する考えがあるのであれば、少なくとも、愛国心というものはある」

 といえるわけで。それだけでも、

「海外選手を応援する」

 という心境が信じられないといってもいいだろう。

 確かに、時代が混沌としていたり、スポーツでも見ないとやっていられないなどということであれば、

「海外選手を応援して、気を紛らわせたい」

 と感じることであろう。

 さらに、

「自分にできないことを果たしてくれる」

 という発想になるのだろうが、それもおかしな話になるのではないだろうか?

 普通であれば、

「自分にできないことを達成してくれる」

 ということになると、その場合、嫉妬心というものが湧いてくるものではないのだろうか。

 確かに、そこで嫉妬心が湧けば、

「妬ましい考えを持つのは心が狭い」

 といわれるかも知れない。

 しかし、実際に、海外のスポーツ選手を応援する人は、その人たちを、

「国の誇り」

 と思っているのかどうか、どうにも信用できない。

「だったら、もっと、愛国心というものがあっていいのではないか?」

 と思うのだが、いくら、戦犯で処刑されたとはいえ、

「海外、特にアジアの国に配慮しないといけない」

 とはいえ、

「国を憂いて、戦争を起こした人を、自国民が敬意を表しない」

 ということはおかしいといえるのではないだろうか。

「戦争だったらダメで、スポーツだったらいい」

 といいたいのだろうが、それこそ、

「お門違い」

 といってもいいだろう。

 それを考えると、

「海外で活躍をしている人を応援している人のほとんど」

 というのは、

「皆がお応援するから」

 という、いわゆる、

「ミーハーなのではないか?」

 と思えるのだ。

 それ以上に、

「まわりが応援しているのだから、自分も応援しないと、まわりから相手にされなくなってしまう」

 という、いわゆる、

「集団意識」

 というものからきているのではないだろうか。

 また、最近では少なくなってきたかも知れないが、まだ、一定の人たちの間では、当たり前のようになっている、いわゆる、

「家督相続」

 といわれるもの。

 例えば、医者であったり、政治家などがそうであろう。

 特に、病院を持っているような人であれば、

「息子であったり、娘婿というのが、病院を継ぐのが当たり前」

 と言われている。

 大病院では難しいかも知れないが、会社組織であっても、

「病院が世襲で経営される」

 ということは今でも結構ある。

 そのかわり、よくサスペンス劇場で描かれる、

「遺産相続などの、ドロドロした関係が、裏に潜んでいる」

 といってもいいだろう。

 また、

「世襲」

 という意味で、無視して通れないものとして、

「政治家」

 というものがある。

「父親と同じ政治家に息子がなる」

 というのは、結構あることで、今までのソーリなどを見ていると、そのほとんどが、

「世襲議員」

 ということではないか。

 つまりは、

「父親の地盤を息子が受け継ぐ」

 というのが当たり前であり、それこそ、

「父親の夢を息子に託す」

 ということでもあるだろう。

 たまに、スポーツ選手の中にも、そういう人がいる、

 それは昔からのことで、いわゆる、

「熱血根性スポーツもの」

 というものを描く時は、

「父親の夢を息子に託す形で、子供の頃から、想像を絶するような特訓」

 というものを行ったりして、それこそ、

「今ではありえないような大特訓をするということになる」

 しかし、これも面白いもので、

「大人の、プロの選手でさえできないようなことを、まだ、小学生の子供が、まるで芸当のごとくにやってのける」

 というシーンがあるが、

「よくも、それを見て、こんなのおかしいと誰も言わないのだろうか?」

 ということである。

 たとえば、

「木造家屋の壁にボールが通るくらいよりも少しだけ大きな穴が開いていて、そこの向川には、普通に木がある」

 という状況があったとしよう。

「それを、まだ小学生の少年が、胡坐をかいて、穴に向かって、ボールを投げ、その穴を見事に通す」

 としよう。

 これくらいであれば、

「よほどの素質があって、練習を毎日のように重ねていれば、できるようになるだろう」

 しかし、問題は、

「その穴を通り抜けたボールが木の幹に当たり、正確に跳ね返り、最初に通った穴をすり抜けて、こちにらに戻ってくる」

 というものだ。

 こなると、

「奇術師」

 といっても無理であろう。

 それこそ、

「魔法使い」

 でもなければ、できるはずもないのである。

 なんといっても、穴の向こうにあるのは、

「木の幹」

 である。

 これが、壁であれば、強引にこじつければできなくもないかも知れない。

 なんといっても、

「円柱形」

 ということなのだから、当たったとしても、正確に戻ってくるなど、精密機械でもなければできないだろう。

「いや、精密機械でも、何とかに一度成功する」

 という程度ではないだろうか?

 要するに、

「どの方向に跳ね返るか?」

 というのは、

「天文学的数字による確率だ」

 ということになるだろう。

 さらにである、

「もう一度同じ穴を通る確率」

 ということになると、今度は確率ということよりも、

「物理的に可能なのだろうか?」

 ということである。

 というのは、

「初速と終速が同じ」

 ということでないとできる芸当ではないということだ。

 なんといっても、地球には空気というものがあるのだ。

 というのは、

「空気抵抗があるから、最初は勢いがあっても、途中から速度が落ちて、カーブを描くことになる。

 ということなので、

「同じ軌道で返ってくる」

 ということであれば、

「跳ね返りも物理的に穴を通すことは不可能ではない」

 といえるかもしれないが、

 実際に、蛇行を描くということであれば、跳ね返りで穴を通すのは、

「物理的に不可能だ」

 といえるのではないだろうか?

 それを、なんと、小学生の子供がやるのである。

「精密機械でも無理ではないか」

 といわれることを、小学生の子供が、しかも、胡坐をかいて行うのだ。

 しかも、一度も失敗せず、ずっと続けていけるなどできるわけはない。

 少なくとも、

「初速と終速というものを、同じにしないと不可能だ」

 といわれる芸当を行うのだ。

 それこそ、

「魔法使い」

 のようではないか。

 当時の

「スポーツ根性マンガ」

 というのは、そんな、

「常識外れ」

 といわれるようなことが、普通に描かれていたのだ。

 今では、

「懐かしのアニメ」

 などといって、かつての、

「スポーツ根性マンガ」

 というものを、あたかも、ギャグマンガのように映し、効果音でも、笑い声に包まれるというような演出をしているのであった。

 でたらめであっても、

「熱血根性」

 というテーマを大げさであっても、写し出そうと考えることは、その時代にはありだったということであろう。

 その時代に、

「努力する」

 ということに対しての目標というものが、

「どこまで達成できたのか?」

 と考えてしまうだろう。


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