第2話 教育方針

 また、日本という国が、

「戦後復興」

 という時代から、

「経済成長に掛けて」

 という時代において、それまでの、

「遅れた教育」

 ということで、

「旧来の、大日本帝国における教育」

 さらには、

「敗戦の混乱における教育」

 ということで、本来であれば、

「復興にしても、発展にしても、海外の技術を理解できるだけの、教育水準に追いつかなければいけない」

 ということで、

「教育問題に力を入れる」

 ということになった。

 これは、

「明治維新後における、国家体制」

 と似ているところがあるのではないだろうか。

 というのは、当時の日本のスローガンとして、

「富国強兵」

 というものと、

「殖産興業」

 ということであった。

 これは、元々、

「日本が鎖国をしていた」

 ということで、徳川幕府下において、開国を申し込んでくる各国があったが、それらをいかに、さっりげなく断るかということで、

「我が国の外交は長崎に限られる」

 として、長崎まで行かせている間に、のらりくらりと、

「開国はしない」

 と言い切れたのだが、

「ペリーのよる砲艦外交」

 つまりは、

「脅し」

 というもので、開国せざるを得なくなったということで、最初こそ、

「外国打ち払い」

 という発想から、

「尊王攘夷」

 という考え方があったが、

「海外を見たり、その実力を肌で知る」

 ということになると、

「日本には勝ち目はない」

 ということで、それならば、

「海外に追いつけ追い越せ」

 ということで、

「先進国の仲間入り」

 を考えた。

 そもそも、開国の際には、日本は、不平等条約を押し付けられたという屈辱があった。

 だからこそ、逆に世界に認められる国になって、そこで初めて、その、

「不平等条約を、堂々と打ち破る」

 と考えたのだ。

 現代においても、

「世界に追いつけ追い越せ」

 という考えで、そのためには、

「国民の知識レベル」

 さらには、

「意識レベル」

 というものを向上させる必要がある。

 ということで、

「教育の充実」

 というのが叫ばれたのである。

 それが、功を奏しての、

「戦後復興」

 あるいは、

「高度成長」

 ということに、大いに役立った。

 しかし、

「メリットとなることは、デメリットもはらんでいる」

 ということで、

「教育の充実」

 ということも、大きな社会問題を引き起こしたともいえるだろう。

「高度成長」

 というものが引き起こした社会問題としては、

「貧富の差の拡大」

 ということと、

「公害問題」

 というものが大きかったであろう。

「教育の充実」

 というものが引き起こした問題ということで、

「受験戦争」

 という問題であった。

 そこで起こってくるのが、

「落ちこぼれ」

 という問題である。

「教育においての、レベル格差がひどくなり、結局、教育問題をいかに解決するか?」

 ということが、大きな問題となった。

「レベルの高い人間に合わせると、ついてこれない生徒が多数生まれ、結局、切り捨てる」

 ということになり、

「落ちこぼれを生む」

 ということになる。

 逆に、低いレベルに合わせてしまうと、元々の目的であった、

「教育レベルの向上」

 というものからの、

「経済成長につなげる」

 ということができなくなり、せっかくの経済成長が頓挫してしまい、国家レベルの目的が途中で崩れてしまうことになる。

 それこそ、

「本末転倒」

 ということであり、

「最初からの目的が何だったのか分からなくなる」

 ということだ。

 結局は、

「レベルを高いところにおく」

 ということを変えるわけにはいかず、教育問題として、

「落ちこぼれ問題」

 というのが、大きな問題となって出てきたのだ。

 そうなると、落ちこぼれた生徒は、

「非行に走るしかない」

 ということになり、それが、

「校内暴力」

 などにつながってくるということだ。

 その時代は、

「昭和の考え方」

 という時代で、どうしても、昔の、

「軍隊方式的な考え方」

 というのが残っていたりした。

 学校教育というと、

「熱血根性」

 と呼ばれた時代であった。

 学校側が、基本的には、

「大学進学率というものを伸ばす」

 ということが基本であり、それによって、学校の評判が上がる。

 さらには、

「部活においても、全国大会に出るような生徒を輩出」

 であったり、

「高校野球で、甲子園に出場するために、野球留学をさせる」

 という、今でいう、

「スポーツ推薦」

 などというもので、学校の人気が決まるということであった。

 しかも、昭和の頃というと、今とは違い、

「しごき」

 などというのは当たり前で、

「特訓」

 という言葉で、それによって、

「健全な肉体に、健全な精神が宿る」

 として、それこそ、逆の意味での、

「精神論」

 というものが、賛美されるという時代であった。

 もちろん、それで、大けがや死人などが出ると大きな問題となったが、基本的に、

「特訓」

 と称する

「しごき」

 というのは、

「熱血根性」

 ということで、賛美されたりした。

 マンガなどの世界では、それこそ、熱血根性スポーツマンガがはやったりした。

 特に、

「貧乏な子供が、スポーツにおいて活躍する」

 というのは、当時の社会に対して、

「希望を与える」

 というものだっただろう。

 特に、

「半世紀前の東京オリンピック」

 というものの開催から、

「スポーツ根性もの」

 というのは、マンガの普及とともに、発展していったものであった。

 学園ものということであれば、どうしても、親というものは、

「いい学校に入って、いい会社に入る」

 ということが、一番だと思っているので、基本が学校の味方ということになる。

 しかも、

「まさか学校が、生徒をふるいにかけて、落ちこぼれを作っている」

 などということはないと思っていることから、子供の成績が悪いというのは、

「子供が悪い」

 と思い込んでいるふしがあるだろう。

 そうなると、生徒とすれば、

「学校から、落ちこぼれ扱いされ、家でも同じように、落ちこぼれといわれる」

 ということで、

「誰も味方がいない」

 ということで、グレルしかないということになるのであった。

 それを考えると、

「落ちこぼれが増えて、退学者が増える」

 ということになる。

 退学した連中を待っているのは、街のやくざ連中で、行き場のない子供を抱え込み、チンピラとして、組織の下部に含められるということになるだろう。

 さらに、退学しないまでも、学校内で、ぐれた連中は、

「校内暴力」

 ということで、学校で我が物顔ということであった。

「学校で窓ガラスがほとんど割られている」

 などというのは、当たり前のことであり、

「街を、学ランなどを着て我が物顔で歩いている」

 あるいは、

「暴走族に入って、毎晩走り回っている」

 などというのが当たり前の時代だった。

 そんな時代が、社会問題になってくると。

「受験戦争」

 などというものが、引き起こした問題ということで、

「やっと、教育委員会であったり、文部省が気づく」

 ということになる。

 そうなると、

「詰め込み境域が悪い」

 ということになってくる。

 そもそも、時代としては、

「日曜と、国民の祝日のみが休み」

 という会社の体制が、次第に、

「週休二日制」

 に移行しようとしていた。

 それに伴って、

「学校も、週休二日制」

 ということにして、教育も、

「ゆとり教育」

 にしようということになったのだ。

 確かに考え方は立派だったかも知れないが、結局、教育レベルが、下がってしまったことで、今度は、またしても、

「教育レベルの問題」

 ということになってきた。

 というのも、

「年間のカリキュラム」

 というものを最初に決めているのだが、

「ゆとり教育」

 というものが進んでくると、カリキュラムとして、最低と考えていたラインを下回ることで、そもそも、

「ここまでは、何とか許容範囲だ」

 といっていた部分をまったく下回るということになったのだ。

 それを考えると、

「方針転換が行き過ぎて。結局は、元の木阿弥ということになってしまうのだ」

 ということになるのであった。

 今の時代では、

「ゆとり教育」

 というものから、少しでも、教育レベルを挙げようとして努力はしているのだろうが、

「一番の問題」

 ということとして、一つは。

「ゆとり教育」

 というものと、

「当時の社会情勢」

 というものが引き起こしてから、

「長年にわたって解決されないという問題が、引き継がれている」

 ということであった。

 その一つが、

「いじめ問題」

 ということであり、それが嵩じての、

「引きこもり」

 という問題である。

「理不尽ないじめ」

 ということで、学校に来なくなった生徒がたくさんいて、

「それでも、独自に勉強をしている人もいるだろうが、結局、高校中退」

 というような形で、しかも、

「家庭内に引きこもっている」

 ということで、

「社会の常識」

 なるものがまったく分かっていないという人がたくさんいるということになるだろう。

 確かに、

「バブル崩壊」

 というものからこっち、

「年功序列」

「終身雇用」

 というものがなくなったことで、

「会社への執着もない」

 ということで、

「会社内の人間関係」

 など関係ない仕事をしている人が多いということだろう。

「バイトやパートで食いつなぐ」

 というところであろうか。

 今の時代においては、

「詰め込み教育」

 でもなく、

「ゆとり教育でもない」

 ということで、今の時代は、そのせいで、一部の人に、

「そのしわ寄せがいく」

 ということになるのだ。

 それが、

「学校の先生」

 ということで、昭和の頃までは、

「比較的時間的にも楽な仕事」

 と言われていたのだが、今では、

「生徒を相手にしないといけないストレスやプレッシャーというものは変わっていない」

 といえるが、何よりも、

「勤務時間」

 というものがまったく違う。

 ほとんど、休みもない状態の人も結構いるようで、

「平均の勤務時間が、10時間」

 と言われているが、それも、

「少しさばを読んでいるのではないか?」

 と思うほどであり、実際には、

「今の時代で一番のブラックというのは、学校の先生だ」

 ということになるだろう。

 昭和の頃では、

「なりたい職業」

 というものにランクインしていただろうが、今ではきっと、

「なりたくない職業のトップ」

 ということになっているに違いない。

 ただ、実際に調査した結果としては、実は高校生が鳴りたい職業にカウントが多いようだが、きっと、詳しい状況を知らないということなのかも知れない。

 そもそも、

「なりたい職業」

 というものに、

「教師を選ぶ」

 という時点で、高校生の

「判断能力」

 というものと、

「現実を見極める目」

 というものがどうかしているという証拠だといってもいいだろう。

「実に皮肉なことだ」

 といえるのではないだろうか?

 それを考えると、

「大人になってからの夢を見る」

 ということは、

「夢を見るだけで無駄なことだ」

 という恐ろしい時代になったといえるのではないだろうか?

 実際に、

「将来について、夢を見る」

 などということが、今の時代にどこまであるだろうか。

「将来、どんな職に就きたい」

 ということくらいはあるだろうが、それも、

「社会貢献」

 ということであったり、

「自分のスキルから」

 というのは、昔ほどはないのではないだろうか?

 実際に、希望した職についても、実際には、

「きつくてつらい」

 というものであったり、

「教師」

 のように、

「親や教育委員会から責められ、子供からは、慕われるどころか、嫌われる」

 という状態で、しかも、仕事内容は、

「ブラック」

 ということになると、小学生の頃に抱いていた感覚が、次第に成長するにしたがって、まったく別の感覚になり、

「社会に出る」

 ということ自体に、抵抗を感じるようになることだろう。

 それは、

「仕事」

 というものに限らず、

「スポーツ」

 などでも、そうだろう。

 特にスポーツというのは、昔から言われていることで、特に、

「スポーツ推薦」

 というものは、

「その生徒に対して」

 というものではなく、

「その生徒が挙げるであろう実績が、いかに学校のためになるか?」

 ということからの、特待生扱いということだ。

 確かに、

「中学時代では、華々しい実力を発揮した」

 ということで、スポーツ推薦で高校に入ったとする。

「学費は免除、さらには、寮住まいも無料」

 ということで、

「特待生」

 ということになるだろう。

 しかし、これも、結局は、

「学校の役に立ってこそ」

 ということであり、期待通りに、一年生からレギュラーになったりして活躍したとしても、その途中で、けがをしたりして、結局、

「大けがによって、再起不能」

 などということになれば、その生徒の夢は、その時点で打ち砕かれることになる。

 本来であれば、学校が生徒のフォローをしなければいけないということなのだろうが、実際には、

「対象のスポーツができなくなった」

 ということであれば、特退ではなくなる。

 ということになるのだ。

 つまりは、

「他の学生と同じ扱い」

 ということで、

「学費や寮代が無料」

 という特別待遇はなくなり、さらには、

「勉強がおいつかなくても、落第にはならない」

 ということだったものが、

「成績が悪ければ、そのまま落第」

 ということで、そもそも、

「スポーツしかしなくてもいい」

 ということで、勉強などしていないので、及第点が取れるわけはない。

 そうなると、学校は、容赦なく落第させ、さらには、

「転校あっせん」

 であったり、

「退学」

 というものを匂わせるということをするだろう。

 そうなると、

「その生徒の行く末は?」

 ということであるが、結局誰も相手をしてくれないということになるだろう。

 それこそ、

「詰め込み教育時代の落ちこぼれ」

 と同じ事態である。

 要するに、

「時代は繰り返す」

 ということになるのだろう。

 だから、

「夢を持つなどというのは、ありえない」

 といってもいいかも知れない。


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