第2話

 停戦協定の調印は、リシアが敵司令官を拘束してから瞬く間に行われた。

 首都で行われた戦勝パレードには英雄として祭り上げられたリシアの姿はなかった。彼女はあくまで「装備品」であり、その栄誉は全て運用者である故人に帰属するというのが軍の公式見解だったからだ。もっとも、リシア自身が新たなマスター登録を頑なに拒絶し、最高司令部からの再登録を促す命令さえも原因不明のエラーと言い張り無視し続けた結果、彼女の所有権が宙に浮いた状態にあることも大きく影響していた。

 結局、国を救ったとされる勲章は軍部の片隅にトロフィーのように飾られ、そのレプリカが雨に打たれる共同墓地の小さな石碑の前に供えられた。

 リシアはその光景を数秒間記録した後、踵を返した。彼女にとって、その金属片は何の価値も持たない。重要なのは、それがマスターの所有物であるという事実だけであり、それの残滓を適切な場所に安置したことで、タスクの一つが完了したに過ぎなかった。


 戦争は終わった。だが、リシアの稼働時間は続いていた。


 数日後、リシアは中央街の片隅にある、主のいないアパートの一室にいた。

 西日が差し込む埃っぽい室内で、彼女は遺品の整理を行っていた。177cmの長身と、戦闘用に強化された肉体は、狭く簡素な部屋には奇妙に噛み合っていた。


「対象物、紙媒体書籍。保存状態、良好。……廃棄、保留」


 彼女の指先は戦車砲の直撃にも耐える強度を持ちながら、古びた文庫本のページを破ることなく捲る繊細さを備えている。

 主の残り香が染み付いたジャケットを畳む時、リシアのセンサーは微細な有機化合物の粒子──匂いを検知した。それは論理回路には不要なノイズだったが、彼女はそのデータを削除せず、長期記憶領域の最深部へと格納した。


 そこへ、玄関のチャイムも鳴らさずに入ってくる人物がいた。

 現れたのは油とタバコの匂いを纏った初老の男だった。リシアの機体整備を引き受けていた技術大尉である。マスターが没してからは配置転換となり、リシアはしばらく姿を見ていなかった。


「よう。辛気臭いツラしてんな、リシア」


「整備官。不法侵入です。即時の退去を推奨します」


「お前の監視だよ、監視。好き勝手動き回りやがって。それに、ここはもう国が接収する予定だ。お前だっていつまでも居座っていい場所じゃねえ」


 技術大尉はズカズカと部屋に入り込むと、整理された遺品を見て鼻を鳴らした。彼はリシアが何をしていたのかを理解し、少しだけ表情を緩める。

 くたびれたソファに座り込んだ技術大尉は、懐から封筒を取り出した。


「お前に話がある。……あいつの、弟のことだ」


「マスターに兄弟姉妹の存在は記録されていません」


 リシアは作業の手を止めずに即答した。彼女のデータベースには、隊長の個人情報は全てインプットされているはずだった。


「公にはな。……腹違いで、しかも随分と歳が離れている。あいつが軍に入ったのも、その弟に仕送りをするためだったんだよ」


 その言葉に、リシアの動作がコンマ一秒だけ停止する。

 情報の再検索。該当データなし。だが、マスターの給与口座から毎月定額が、別口座へ送金されていた記録と照合が取れる。


「遺族年金や勲章に伴う報奨金、それらは全てその弟君の元へ行くことになる。あいつも草葉の陰で安心してるだろうよ」


「そうですか。情報の更新を完了しました」


「……で、だ。リシア」


 技術大尉は言い淀み、頭を掻いた。白髪混じりの頭髪には僅かにグリスがこびりついている。彼はリシアの光学センサーを真っ直ぐに見上げた。


「その弟は『一応』成人してるが、身寄りは他にいない。一人で暮らしているそうだ」


 リシアは沈黙したまま、次の言葉を待つ。


「軍の上層部は、お前の処遇に困り果てている。廃棄するには惜しい戦力だが、マスター不在の先行試作型アンドロイドは不発弾よりタチが悪い。このままだとゴミ箱行きだ」

「私のサイズなら、処理施設への直接輸送をおすすめします」

「うるっせえ不燃ゴミ。……そこで、俺が提案を通しておいた」


 技術大尉は一枚の書類を床の上に滑らせた。それは、軍属を離れ、民間への払い下げを許可する特殊命令書だった。譲渡先の名義は空欄になっている。


「あいつの弟に会いに行け。そして、お前が決めろ。新しい主として仕えるでもいいし、ダメな奴ならシバいて矯正するでもいい。とにかくそいつと一緒にいろ」


「本機の所有権は、前マスターに帰属します。再設定には原因不明のエラーのクリアが必要です」


「なにが原因不明だ、白々しい。……あいつが守ろうとした弟だぞ? それを守ることは、あいつの遺志を継ぐことにならねえか?」


 リシアの演算回路が高速で回転を始めた。

 マスターへの忠誠。それは絶対のプログラム。

 マスターは既に存在しない。しかし、彼の「守る」という目的関数が、血縁者という形で残存しているとしたら?

 対象の保護は、間接的にマスターの意思を遂行することと同義となるのではないか?


「……論理飛躍です。しかし、否定材料が不足しています」


 彼女は書類を拾い上げると、その正確無比なスキャニングで内容を瞬時に記憶した。


「現状、本機には明確な運用目的が存在しません。アイドリング状態でのリソース浪費は非効率的です。……現地視察を行い、対象の生存環境を確認することは、元所有者の資産管理の一環として許容範囲内と判断します」


 それは亡き主との繋がりを必死に手繰り寄せようとする、彼女なりの精一杯の言い訳だった。

 技術大尉はニヤリと笑い、タバコを咥えた。


「ああ、そうだな。あくまで資産管理だ。……住所はそこに入ってる。遠いぞ、北の最果てだ」


「問題ありません。本機の航続距離に限界はありませんので」


 リシアは部屋を見渡した。綺麗に畳まれた服、整理された本。これらはもう、動くことのない思い出だ。

 だが、彼女自身はまだ動ける。

 主が守りたかったものがまだこの世界に残っているのなら、彼女の戦争はまだ終わっていないのかもしれない。


「出発の準備をします。……情報の提供、感謝します」


 リシアは一礼すると、足音もなく部屋を出て行った。

 その背中は、戦場で見せた鬼神のような威圧感とは異なり、どこか目的を見つけた巡礼者のように静謐だった。


 軍の工廠にある無機質な整備ドックで、リシアの「武装解除」は行われた。

 対戦車戦闘を想定した複合装甲プレートは全て取り外され、代わりに柔軟性と人肌の質感を模した民生用の軟質シリコン外装が装着される。両腕に内蔵されていた高周波ブレードのユニットは抜き取られ、空いたスペースには予備バッテリーと汎用ツールが詰め込まれた。

 唯一、彼女の象徴とも言える胸部の超大型ジェネレーターだけは、機体の稼働に必須であるため縮小することが許されなかった。人間に換算すれば127cmのLカップという威容はそのままに、それを覆う材質だけが硬質な装甲から、指で押せば沈み込むほど柔らかい人工皮膚へと置換された。


「光学センサー、パターン変更。カモフラージュモード、固定」


 新任の技術者の操作により、深紅に明滅していたリシアの瞳から不気味な輝きが消え、深いアメジスト色の静かな瞳へと変化する。

 純白だった肌も、人間の中に混じっても違和感のない自然な色白の肌色へと調整された。

 最後に支給されたのは、軍の放出品である厚手のニットセーターと真新しいデニムのパンツ、そしてウールのコートだ。

 全てを着込んだリシアは、鏡の中で一人の「人間」の女性として佇んでいた。


(出力、40パーセントに制限。防御力、85パーセント低下。……心もとない状態です)


 リシアは自身の掌を握りしめ、その脆弱なフィードバックに僅かな不安を覚える。だが、これは新たな任務──「社会への潜伏」に必要な偽装だった。

 彼女は最低限の護身用として太腿のホルスターに小型の電磁警棒を隠し持ち、手提げカバン一つという乏しい旅装で北へ向かう大陸横断列車に乗り込んだ。


 車窓の外を流れる景色は、次第に荒涼とした雪原へと変わっていく。

 三等客車の硬い座席に座りながら、リシアは周囲の乗客から向けられる視線を感じていた。

 厚手のコート越しでも隠しきれない胸部の隆起と、作り物めいた美貌は、荒くれ者の多いこの路線では嫌でも目立つ。


 乗り換えのために降り立った薄暗い地方駅のホームで、それは起きた。


「おい姉ちゃん、一人旅か? 随分といい体してんなあ」


 酒の臭いをプンプンとさせた数人の男たちが、リシアの進路を塞ぐ。

 戦場での殺気とは比較にもならない、粘着質で下卑た欲望の気配。リシアは足を止めず、彼らの脇をすり抜けようとしたが、一人の男が彼女の肩に手をかけた。


「無視すんなよ。俺らが暖めてやるって言ってんのによォ!」


 男の手が、リシアの身体を引き寄せようと力を込める。

 だが、リシアの体幹は微動だにしない。


「対人訓練を開始します」


「あ? 何言って……痛っ!?」


 リシアは男の手首を掴むと、関節の可動域の限界ギリギリまで、しかし骨折はさせない絶妙な力加減で捻り上げた。

 人間相手の護身術データベースにある基本動作。

 男が悲鳴を上げて膝をつく。それを見た仲間が色めき立ち、ナイフを取り出して飛びかかってきた。


「チッ、このアマ!」


 スローモーションに見える刃の軌道。

 リシアは最小限の動きで半歩下がり、襲いかかる男の勢いを利用して足を払う。受け身も取れずにコンクリートの床に叩きつけられた男は、肺から空気を吐き出して気絶した。

 残りの男たちが腰を抜かして後ずさる中、リシアは埃を軽く払い、表情一つ変えずに再び歩き出した。


(脅威判定、レベルE。記録の必要なし)


 彼女にとって、それは道端の小石を避ける程度の些事だった。

 今の彼女の思考リソースを占有しているのは、そんな羽虫のような連中のことではない。


 列車に戻り、再び座席に身を沈めたリシアは、窓ガラスに映る自分の顔を見つめながら、思考のループへと陥っていた。


(対象名、カイル。年齢、16歳。……マスターの弟)


 リシアの演算回路は、まだ見ぬその少年のシミュレーション構築に熱を上げていた。

 マスターに似ているのだろうか。

 マスターのように、優しく笑うのだろうか。

 それとも、自分のような機械人形を前にして、恐怖を抱くだけだろうか。


「……似ていると、いいのですが」


 誰に聞かせるわけでもなく、リシアは小さく呟く。

 もし彼がマスターと似ているのなら、この空っぽになった胸部ユニットの隙間を、再び「命令」という名の存在意義で満たしてくれるかもしれない。

 過去の戦闘記録よりも、戦術データよりも、これからの未来で出会う一人の少年のことだけが、リシアの記憶領域の大部分を侵食していた。


 ガタン、と列車が揺れる。

 北の最果てまで、あと数時間の距離だった。

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