アンドロイドはアイしてる
すばみずる
第1話
鉛色の雲が垂れ込める前線基地の天幕内には、湿った土埃とオイル、そして隠しきれない死臭が充満していた。作戦卓を囲む上級将校たちの視線は、異質な存在へ向けられている。
リシアは直立不動の姿勢を崩さず、深紅の光学センサーを明滅させていた。
「──以上だ。第303独立機動班、リシア。貴様は単独で敵第9方面軍司令部へ浸透、これを壊滅させよ」
参謀の男は、視線をリシアの白磁のような顔に向けようとはしなかった。手元の端末に表示された廃棄リストを処理するような、事務的で冷淡な口調である。
「敵戦力は重装甲師団を含む推定二千。作戦成功率は極めて低いものと見込まれますが、命令に相違ありませんか」
リシアの音声出力は、感情の起伏を一切削ぎ落とした合成音だった。しかし、その問いかけ自体が将校たちの神経を逆撫でする。
「貴様の性能ならば可能だと判断した。……それとも、命令拒否か?」
いっそ拒否しろ。参謀は喉元まで出かかった本音を飲み込む。分かりやすく反抗的なら手間も省けるというもの。
だがリシアは
「否。命令を受諾します。直ちに出撃します」
踵を返し、リシアは天幕を出る。背後で安堵の息が漏れるのを聴覚センサーが捉えた。
厄介払いをされたのだということは、論理回路を回すまでもなく明白だった。
(……好都合です)
雨足が強まる泥濘を踏みしめながら、リシアは思考リソースの一部を割いて自嘲に近い結論を導き出す。『マスター』のいないこの世界に、稼働し続ける意義など存在しない。敵の集中砲火を浴び、ジェネレーターごと爆散すれば、あるいは電子の海で彼の魂の残滓に触れられるかもしれない。
戦場は、灰色の瓦礫と紅蓮の炎が入り混じる地獄の様相を呈していた。
敵の防衛ラインに到達した瞬間、リシアの機体は戦闘モードへと移行する。
「戦闘プロトコル起動。リミッター解除。全兵装、オンライン」
胸部の装甲プレートが微かに展開し、内蔵された大容量ジェネレーターが唸りを上げる。127cmという規格外の胸部容積は単なる装飾ではなく、金属骨格の肉体を機動させるための出力を生み出む心臓部が納められている。そこから供給される莫大なエネルギーが全身の駆動系を駆け巡る。
「敵影確認。排除します」
一足飛びで塹壕を飛び越えると、リシアは両腕の高周波ブレードを展開した。
漆黒のボディスーツに包まれた肢体が、人間には不可能な速度で加速する。太腿部の強化アクチュエータが過負荷ギリギリの悲鳴を上げ、戦車の装甲をも紙のように引き裂く一撃が放たれた。
轟音と共に敵の前衛部隊が火球に包まれる。
当然、敵からの反撃は凄まじいものだった。四方八方から機関砲の弾丸が降り注ぎ、対戦車ミサイルがリシアを捕捉する。
(ここで、被弾すれば……)
回避行動を取らなければ、数秒で機体は破壊される。
しかし、リシアの身体は彼女の破滅願望を裏切るように、あまりにも洗練された動きで死を拒絶していた。死にたいという願望と、死ねという命令もどき程度では、彼女の本能を覆すには至らない。
視界に表示される脅威判定マーカーが真っ赤に染まる中、彼女の処理中枢はコンマ数秒先の未来を予測し、最適な回避ルートを弾き出してしまう。それは、亡きマスターが彼女に叩き込んだ生存戦略そのものであった。
「警告。右翼より熱源接近」
思考とは裏腹に、リシアの体は滑らかに回転し、飛来した砲弾をミリ単位で見切る。プラチナシルバーの髪が残像を描き、衝撃波だけで周囲の兵士が吹き飛ばされた。
彼女は踊るように戦場を駆け抜ける。その動きは優雅で、残酷なほどに完璧だった。
敵兵の絶叫がノイズとして処理される。
振るわれるブレードは正確無比に敵兵器の急所を貫き、次々と鉄塊の山を築いていく。
破壊された敵機のオイルが雨のように降り注ぎ、彼女の純白の肌と漆黒のスーツを汚していくが、リシアの歩みが止まることはない。
(なぜ、当たらないのですか。なぜ、壊れないのですか)
内部モニターには「損傷軽微」の文字が並び続ける。マスターを守るために極限までチューニングされたその力は、守るべき相手を失った今になって、その真価を遺憾なく発揮していたのだ。
敵の最終防衛ラインである重厚な隔壁が、リシアの目の前に立ちはだかる。
厚さ500mmの複合装甲。通常ならば工兵部隊による爆破作業が必要な障害物だ。
「出力最大。強行突破します」
リシアは重心を低く落とし、臀部から大腿にかけての筋肉模倣アクチュエータを極限まで収縮させる。地面が陥没するほどの踏み込みと共に、彼女は自らを巨大な砲弾と化して隔壁へと突撃した。
ブレードの超高周波振動と、300kgを超える質量による運動エネルギーが一点に集中する。
金属が引き裂かれる不快な高音が響き渡り、爆風と共に隔壁が内側へと吹き飛んだ。
土煙が晴れる中、司令部の中枢へと踏み入ったリシアは、ゆっくりと姿勢を正す。
そこには、腰を抜かして震える敵の司令官と、数名の護衛兵がいた。護衛たちが震える手で銃を構えるが、リシアにとっては静止画のように遅い動作でしかない。
瞬きの間に距離を詰め、護衛たちの武装を無力化する。
殺害はしない。ただ、手首の骨を正確に砕き、戦闘継続を不可能にしただけだ。
そして、リシアは司令官の喉元に冷たい刃を突きつけた。深紅の瞳が恐怖に歪む司令官の顔を無機質に見下ろす。
自己診断プログラムが走る。右腕装甲に擦過傷、左脚部に軽度の熱損傷、エネルギー残量68パーセント。
戦闘能力に影響なし。五体満足。
(……ああ)
リシアの論理回路の奥底で、行き場のない虚無感が広がっていく。
これほどの激戦地帯を単独で突破し、あまつさえ無傷で敵将を確保してしまった。死に場所を求めた特攻は、彼女の圧倒的な性能と皮肉な幸運によって、歴史的な戦功へと変わってしまったのだ。
「第9方面軍司令官の身柄を確保しました。これより帰還します」
通信回線を開き、淡々と報告する。その声には、勝利の喜びも、生還の安堵も含まれていない。
ただ、冷え切った雨音だけが、彼女の聴覚センサーに虚しく響いていた。
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