影の巣

和よらぎ ゆらね

ぼく

冬と呼ぶにはまだ暖かい。そんな日。

ぼくは就職活動という名の未来へ続く細い糸を手繰っていた。

母は微笑んで言った

──「がんばりなさい」

その声だけを信じてぼくは歩いた。

内定が出た日

ぼくの胸にはやっと芽吹いた種のような

温もりがあった。


「おめでとう」

その言葉は祝福の鐘のように響いた。

ぼくはすぐに返事をした。

「入社します。これからよろしくお願いします」

自分の未来を、母の応援を信じて。

けれどその鐘は急に割れた。

「あんたにできるわけがない」

「一人暮らしなんて無理だ」

「断れ」

音もなく母の声が刃物に変わった。

なぜ今なのか──

そう思ったけれど違った。


ぼくが見ていた味方は最初から影の幻だった。

父は沈黙の沼のように

ただ一言だけつぶやいた。

「無理だろ」

その言葉はぼくの中にあった小さな舟を

静かに沈めていった。



この家から離れたかった。

けれどその願いすら疑われた。

バイトへ向かうと

「カラオケに行ってたの?」

と尋ねられる。

精神を削られ病院へ通い、学校を休めば

「ずる休みか」

と刺される。


ぼくの声が低ければ母の機嫌が曇る。

ぼくの顔が疲れていれば母の眉も険しくなる。

ぼくの存在が母の天気を左右してしまう。

それでも──ぼくは母が好きなのだ。

母の笑顔はまだ心の奥で灯り続ける

小さなランプのようだ。


だからぼくは母の前で「ぼく」を演じる。

小学生の頃からずっと。

行きたくない学校にも通った。

教師の虐待にも耐えた。

いじめられる友人を助けて

標的が自分になった日もあった。

それでも、母を心配させたくなかった。


気づけば、ぼくの輪郭は薄れていた。

「本当のぼく」はどこへ行ったのだろう。

影の中で誰かの形を借り続けた私は、

いつの間にか自分の歩き方も忘れてしまった。


ただひとつ、確かにわかることがある。


親子の愛とは深く、尊く、そして残酷だ。

その光は温かいが

同時に強すぎて影を濃くする。


ぼくはその影の中で

まだ名前のない「私」を探している。

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影の巣 和よらぎ ゆらね @yurayurane

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