第2話





 川口花恋と田村雪乃が出会ったのは、三年前。

 母親が望む点数を出せず、深夜に追い出された花恋が彷徨い歩き、辿り着いたのがあの公園だった。

 ベンチでは、田村がタバコを咥えながらぼーっと夜空を見上げていた。綺麗な顔立ちが月日に白く照らされた姿は、まるでドラマのワンシーンのようだ。


「こ、こんばんは」


 座る場所を探していた花恋は、勇気を出して声を掛けた。生憎、公園のベンチはひとつだけ。ここを逃すと、長時間立ちっぱなしの苦行が待ち構えている。それは避けたいと願っての行動だった。

 どうしてか、強く惹かれたのもある。田村雪乃の大人びた雰囲気に。


「……こんにちは」


 花恋の存在に気が付いた田村は、まだ長い火をつけたばかりだったタバコを躊躇いなく消し、携帯灰皿の中へ押し込んだ。


「座る?」


 そして、席を譲る。

 少しズレて空いたスペースに、おずおずとお辞儀をして腰を下ろす。纏うくすんだ煙の香りが、鼻腔をついた。

 家では誰も吸わない。嗅ぎ慣れない匂いは、ツンとくる刺激臭でいいものじゃなかったが、不思議と嫌ではなかった。


「何してるの、君。小学生でしょ」


 500mLの水を差し出しながら、聞かれる。


「親に……反省するまで、帰ってきちゃだめって」

「なにそれ。ひどい話だね」


 温和に笑みを作っていた瞳は、途端に怒りでギラリと光った。自分に向けられているわけではない事実のみが、安心を運ぶ。そうでなければ、震え上がっていただろう。


「夏の夜は、湿気がすごいね」

 

 どのくらい経ったか。沈黙の後、口を開いたのは田村だ。

 そこから、ぽつぽつと。

 ふたりは何気ない世間話に明け暮れた。だいたいは、田村の話を花恋がうんうんと聞くだけだったが。

 お互い、深く踏み込んだ話はしない。孤独を癒やすための、暇潰しにしか過ぎない時間を、週に何回か。水を買わない日でも、田村は花恋のため顔を出してくれたという。

 連絡先も交換しない、親にはもちろん話せない秘密の関係は何ヶ月も続いた。


 緊張も警戒も解れてきた頃、眩いものを見る目で田村はそばにいる花恋を遠く見つめた。


「……子供がね、大好きだったの」

「だった……今は、好きじゃない?」

「今も、好きだよ。だけど、私が産むのは無理かなぁ」

「どうして?」

「作るの、難しくて」


 子供相手だからと、内容は伏せた。田村の脳裏では、過去のトラウマが痛みとしてのたうち回る。

 発狂寸前の精神でも、花恋の前では笑った。

 愛しく尊い、小さな命の前で泣き喚く大人にはなりたくなかった。そうでなくても、惨めだ。

 

「花恋ちゃんは、お母さんが好き?」

「う、うん。怖いけど……好きだよ」

「こんな風に、夜に追い出されても?」

「うん。これも、私のためなんだって」


 それが虐待であると、世間を知らない花恋は気が付かない。自分の家庭だけが世界で、常識だからだ。

 世間を知る田村の表情は、沈む。助けたいと思うことは簡単だが、実際に助け出すのは難しい。まして、母親が大好きな少女だ。引き離す方が酷なこともあるだろう。

 ――自分には、社会的信用も金もない。非力故に、手を差し伸べられなかった。

 結果的に、ほんの些細な息抜きの場として自分を提供することにした田村は、親身になって花恋の悩みや不満に耳を傾けた。


「お兄ちゃんは、勉強ができるの。だから、怒られないんだ……でも、ずるいなって思っちゃうの」

「……わかるよ」

「お姉さんにも、兄弟がいるの?」

「うん。兄と姉が、ひとりずつね。……もう、何年も会ってないけど」


 数年は帰っていない、遠い田舎を思い浮かべ苦い顔をする。あそこには、良い思い出がほとんどない。

 気になって、花恋は「どこに住んでたの?」と――


「――待って。君は、田村雪乃の実家を知ってるの?」


 話を中断させて、船崎は花恋に訪ねた。


「うん。たしか、みほむら?って言ってたよ」

「みほむら……」


 有益な情報は、すぐさまメモに残した。

 生まれ故郷や家族構成は、警察は公表していない。花恋という少女に出会えただけでも他を凌駕できるほどの大スクープだというのに、これは運がいい。

 得た魚の大きさに思わず拳を握るほど熱くなるも、まだ取材は始まったばかり。花恋への質問を続けた。


「彼女は、どんな人だった?」

「どんな……おとなしい、感じでした」


 優しいお姉さん。

 彼女への印象は穏やかなもので、とてもじゃないが殺人鬼とは程遠い。

 想像していたサイコパスな人物とは真逆の、子供好きで世話焼きな一面が、困惑させる。

 虐待や弱い者いじめに拒絶反応を示していたことから、彼女なりの正義があったのかもしれないが……それも、行動力を伴う強いものではない。

 現に、田村は花恋の悲惨な状況を知っていながら、放置している。正義感に溢れた人物ならば、行政に連絡したりと何かしら動いてもおかしくはないだろう。

 ただ、代わりに「おなかすいたでしょ」と菓子パンなんかを恵んでいたらしい。少しの食料を買っていたのは、彼女のためでもあったのか。


「……不思議な人でした。雪乃さんは」


 同じ感想を、抱く。


 偽善的でもなく、傲慢的でもない。

 無力を悟っていたからこその、謙虚さ。とでも言うのだろうか。

 世界の片隅で、少女の孤独をひとつ掬い上げていた彼女の目には、何が映っていたんだろう。視線の先にいる花恋を眺め、船崎はしばし思考を巡らせた。

 

 子供好き。


 不妊。


 トラウマ。


 ――彼女の闇は、そこにある?


 そして、踏み込んではいけない深淵にまで足を突っ込むことになる。


 






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