第拾弐話『建築と生命体都市』─都市空間は機能で出来ている?

A「都市、それは「造られた」ものだ。しかしその実態には様々な事象が絡んでいる。現在でも

定期的に呼ばれる「再開発」というのにも複数の語彙がある。民間資本の連携を指すRedevelopment。主に既存エリアの価値再発見・活性化を指すRevitalization。そして都市の再生・刷新を指すUrban Renewal。いわゆる東京都区域における再開発は3番目に当たる。

しかし、一旦、これらの源流。すなわち都市という歴史について振り返ってみたい。

はじまりは都市の不良物件・住宅を一掃する。スラム・クリアランスが十九世紀後半にて欧州の都市を中心に始まった衛生化である。イギリスでは一八七五年の公衆衛生法以降、老朽住宅の整理が進む。その基盤には、土地所有を可視化・簡素化したトーレンス法による登記制度の導入が一八六〇年代にあったと言える。日本では、一九二三年の関東大震災を契機に都市改良法が施行され、東京市による神田橋本町改良住宅事業が最初期のスラム・クリアランス事業として位置づけられる。これはUrban Renewal。不良住宅の「節約」(除却)は、防災・衛生・都市構造の近代化に向けた一歩だった。その約二十年後、一九四〇年代には戦時体制下の灯火管制が実施され、日本の都市は強制的なライトダウンの中に置かれる。照明という都市の表情が、戦争と共に国家に統制された瞬間だった。住宅照明の在り方は、スラムの排除から光の削減へと、その機能を変えていった。

この段階で可視化されたのはスラム・クリアランスで「どこを削るか」、

灯火管制で「どこを照らさないか」の二点。

華やかなランドマークや建築家のビジョンの裏で、「人が住む場所」「夜が来るということ」

「明かりをつけるという自由」そうした地味なことが制度と設計によって制御されてきた。

この段階においてclearanceからimprovementへ、そして目下controlからlighting policyへと変動して行った。スラム撤去も、光の抑制も、住宅政策にしても都市を「可視化/不可視化」する技術としてのrenewalだった。

そして一九六〇年、焼け野原からの復興完了後、東京オリンピックを控えた国家的再構築期において、丹下健三、浅田孝、大谷幸夫、磯崎新らが一同を介し高速道路・幹線鉄道・都市機能・住宅・商業のメタボリズム的構造都市を提案。これが《1960年東京計画》。「都市の容積」「人の流れ」「情報の処理」を総体として建築的に設計し直し、土地の有限性と人口集中に対応するための「構造としての都市」が目指された。同時に、大高正人は、同年代に新宿駅を巨大交通ターミナル+都市装置として再開発する構想を提案。つまりこの時期は、都市に人工内臓・人工骨格を移植する未来医療が「施され」ようとしていた。

一九二〇年代の都市改良=不可視性と衛生の政治

一九四〇年代の灯火管制=光の統治と戦時都市の管理

一九六〇年代都市そのものを可視化し、情報処理対象とした構造化された未来都市

すべてが「統治」と「空間設計」の延長線にある。

まぁ、詰まるところ、神田橋本町で始まった「都市の切開手術」は、二〇年後に光を奪う麻酔を施されさらにその二〇年後、丹下によって都市は人工臓器として再編されるに至った。

もちろん、史実が証明しているようにそれらは部分的達成に収斂した。

同時に、マイホーム・ガレージ・犬と芝生・ホームパーティー自由の具現化として建てることが国家理念に直結した、いわゆる『シザーハンズ』に代表される均質化された幸福の街並みとしてのレヴィットタウン以後のような、定着した国民の精神構造と完全一致という段階には至らなかった。当然、議論された。戦前から戦後の日本住宅政策に深く関与した高山英華や都市研究者の森村道美らによって議論された上で、それでもなお完全には達成されていなかった。具体的な部分は省略するとして、つまりは建築において思想性というのが一つの課題となった。

今、大多数が立っている東京都という場所。その立地自体が特殊な迂遠を経ている。

今「都市はどこまでデザインできますか?」という問いには根本としてこの理解がなければ

意味がない。

不良住宅一棟から、照明一灯、道路一本、そして東京全体へとスケールアップしたのが歴史だ。

さて、ここからが問題となる。丹下健三。戦後日本の「復興=建築=国家」の三位一体を設計した建築天皇。今日の観光はそう言った観点から結び直す。そんな回。だ」

【待ち合わせ場所にて】

Terminal:Hack Nerd Font 12pt

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A「なんでTerminalでさえ美を求めるの?」

B「機能が美に従うとき、私は最もよく動けるの」

ルートヴィヒ・ミース・ファン・デル・ローエを知らない?

A「無駄で言えばアドルフ・ロースは極端だよね」 B「そうね、でもモダニズム建築の先駆者でもあるわ。コルビュジエ、前川國男、丹下とそのパトロンの岸田日出刀、広がったものは

大きい」

A「あ、なんかこの建物だけ、ちょっと浮いて見えるな。ガラスと鉄骨の主張が強いわ。」

B「あぁ、そこね──多分、設計は伊藤喜三郎建築研究所。昔からの大手。竣工はおそらく

……2007年かしら。」

A「よくわかるね……」

B「外観からしてだいたい推測はつくわ。ハイテックっぽく見えるけど、それは意匠ではなく、

て必然性の方。病院って、建築思想における機能性の純化系だから。」A「純化系……?」

B「つまりね、人間スケールと医療動線と構造の最適化。その三つをクリアするために、設計思想が結果として原広司っぽくなるのよ。」

A「都市スケールで情報空間を設計する原と、病院の配置最適化って、似ているの?」

B「逆に、病院は都市空間じゃなくて身体空間そのもの。患者=使用者の最適導線と、看護動線、医療機器のレイアウト──それを空間で完結させようとすると、抽象度の高い意匠と構造の機能美が一致する。だから、ハイテックっぽくなるのは必然的に原的でもあるっていうわけ。」

A「つまり……計算された無機質は、冷たさじゃなくて、精度の表現?」

B「うん、そう。美じゃなくて、正しさの言語化。……ま、素人だけど。

なりに、考えてみたりするわ。一度京都駅でじっくり考えてみたいわ」

B「さっきミースの話をしたじゃない?「Less is more」──美は引き算に宿るってやつ。

でもね、世の中には必ず逆張りがいるの。本人は本気で言っているんだけどね。

たとえばロバート・ヴェンチューリ。」

A「ああ、ポストモダン建築の?」

B「そう。彼はこう言ったの。Less is a bore. ──少ないのって退屈よ、って。

つまり装飾は悪じゃない、複雑さこそが真実だ、って主張。」

A「……でもそれって、ただの反抗って感じもしない?」

B「それでもいいの。ミースが構造を抽象化したなら、ヴェンチューリは構造を引用で飾った。つまりこれは、建築による言語論的な挑発なの。それに私は─Less is a boreを否定できない。

だって、この服のポケット、見て。無意味に2つある。視線の誘導を段階的に外す。

でも、かわいいでしょ?」

手のひらをYOKEのチェスターコートの外ポケットに差し入れながらそういった。

A「そのコート、重くない?」

Bは「えいっ」と軽く叩きながら

B「バカね。重さって、情報の質量と同じで、分散すればバランスになるのよ。」

【散歩中】

A「なんとなく。都市って考えれば考えるほどゴジラなんじゃないか?と思う時があるんだ。」

B「言いたいこと、八割はわかる。つまりオブライエン『キングコング』から、ハリーハウゼンの経脈。そしてブラッドベリの『霧笛』を経た上で、『原始怪獣』に繋がりそれが翌年『ゴジラ』となる。その迂遠さが、特撮文脈の進化であること。そして都市構造論自体が都市の切開手術

としてのスラム・クリアランスであり、灯火管制/統制都市時期、それこそ一九四〇年代だね。

その時期が潜伏期であり、都市自体が、都市の自己制御=見えない「暴力性」の内包を開始。そして、丹下一派らの東京計画が、メガストラクチャー。今で言うとことの霞が関ビル。ああいったものが、やがては、ゴジラ巨大化と、都市破壊者として出現を促す。これは都市が「自己膨張して都市そのものを破壊する存在」へと転化した。ということ。都市の成長とゴジラの生まれた過程は物体物質的には違うけど、本質的には同期している。『シン・ゴジラ』が優れていたのはそこに『機動警察パトレイバー the Movie』『機動警察パトレイバー2 the Movie』

を混ぜたこと。それによって、都市という制度の亡霊に対する、倫理と美学の映画を内包することでより都市論に近いゴジラ像を提示したことでもある。ある意味で押井守が作るべき作品だったと思う。ゴジラとは、制度を通して拡張しすぎた都市の身体化された末路である。

今からでも伊藤和典に「ゴジラの心臓」=都市部という題材さえあれば本来の意味での「都市論」としてのゴジラ映画が作れると思うけど。」

A「代弁ありがとう。十割だ。もう。「特撮進化史」と「都市制度史」を絡められないかな?

という言う話だったのに見事につなげてくれたね。しかも伊藤和典案という最高のおまけ付き。」

B「『平成ガメラ三部作』を見た人間なら誰もが思うことよ。伊藤和典は唯一ゴジラだけ書けてない。そして、神山健治や都庁に掛け合って徹底した脚本を練った『シン・ゴジラ』に対抗本を書くには、そもそもあの作品が内蔵していた脚本を書いてきた彼が書く以外に、文脈上、選択肢はない。」

A「まぁ、『シン・ゴジラ』は都市論ではなかったからね。再定義であっても。その意味では、

ないだろうけれど押井守が撮ったとしたら本当の意味で「存在しない」けど「実存」としてのゴジラが描けるね。だって「都市不全」=「ゴジラ」という大枠があるのだから。伊藤脚本は

『パト2』ではあれだけ都市構造と制度と倫理を語った。『平成ガメラ』では生命論を軸に、

大義なき戦闘と都市崩壊をやっていたにも関わらず、都市そのものが怪獣であるという問いをゴジラでやっていない。そしてこれは逆に伊藤和典にしか書けない空白地帯。」

B「そうね、押井守とのコンビが一番映える。まぁ現実的には厳しいでしょうけれど。

押井守的ゴジラ像とは見えないけど存在するものを描く能力。つまりゴジラという現象は、

都市の制度が自壊する兆候であり、その発現はかつてそう呼ばれたというだけであり、

本質的には、都市の構造が暴走を始めた時点でゴジラはすでにいる。ということ。


柘植が「もう少し、見ていたかったのかもしれんな。この街の、未来を」と言っていた。あのラストは別解釈としてゴジラを導入するのであれば柘植の言葉はまさに「破壊者」の側にいた者の、「人間的」な喪失感。そしてこの視線の持ち主は、本来ゴジラであってもいい──あるいはゴジラの中にいた「誰か」であってもおかしくない。都市という巨大生命の「自壊の意志」

そしてそこに対して、かつて都市を設計し、関わった人間だけが「寂しさ」として見ることができる。ああ、これ完全に三島由紀夫の『英霊の聲』の建築版だ。じゃあ文芸的に成立はするわね。撮るのは押井監督ではないにしろアドバイザーで入ればいいだけの話よ。

それこそ『ガメラ2』で達成できなかったように、金子監督、伊藤脚本、押井アドバイス

この三点が集まれば完璧じゃない。丹下健三の解釈をするならば、「都市」は構造、内臓であり、骨格である。であるなら、破壊はテロではない。臓器の停止である。言い換えれば、これは、「丹下建築」を「ゴジラが」破壊することが、都市論の更新になるわ。そうなると珍しく東京湾から出てこなくていいの。そうね、順番は四国→長野→広島→東京がいいわ。これはあくまでも比喩表現だけれども、「建築界の天皇」を議題にするのとゴジラというのは実は相性いいの。

どちらも似通った思想で「成り立って」いるものだから。覚書にまとめて、今度東宝にメールで打診しようかしら。市川南宛に郵送しようっと。」

A「圧巻だね。もう創作じゃんそれ」

B「まぁ、本当にゴジラ映画作りたいならこれ以外ないっていうのが、結論だね。ちょっと頭捻ればわかることよ。そうだ、実はこっそり映画を見るためにチケットを取っていたわ。

これから見に行きましょう。会場は「109シネマズ新宿」

A「金額的な意味でお金持ち専用映画館だね。」

B「捉え方次第よ。別に通常価格の二倍って、施設管理と会場費、運営を考えれば妥当だし」

A「チケットがあるなら向かおうか。」

【109シネマズ新宿】

エントランスにおける第一印象は、「抑制された質感」と「輪郭を消した明度差」だった。

壁面はノングレアで仕上げられたダークグレーのシート材。

手触りは視覚越しにも鈍い反射が伝わる質。

この素材が持つ微細な皺感──疑似レザーのような粒子と光沢のない表面加工は空間の音響をも包み込むような沈黙の肌として機能している。

フロアにはカーペットタイルが敷かれており、マットな濃淡グレートーンのパターンで、視覚的な粗密を与えている。

この床材は空間に音の粒を落とさず、歩行の痕跡を吸い取る構造的配慮でもある。

通路に入ると、照明設計が如実に変わる。

天井から等間隔に吊られたスポット照明は、明確に照らすべき対象を壁面に示す。

光の円は壁に卵形の楕円として投影され、連続する光の楕円がまるで通路全体を五線譜のように構成している。この配置は美術館的でありながら、展示物がない。

空間そのものが観るべき対象になっているという演出。

壁面に当たる光の楕円は照明の角度と温度の絶妙な設計によって、ノイズのない柔らかい拡散を実現している。

素材の切り替えは非常に繊細だわ。たとえば黒と焦げ茶の境界──これは機能的分節ではなく、視覚の緊張を生むための意識的な継ぎ目でしょうね。

縦ラインで配された金属の見切り材は構造の継ぎ目を隠さず、むしろ構造の告白として立ち

現れる。これはル・コルビュジエが好んだ「構造と装飾の一致性」に通じる。

装飾を排しつつも、構造そのものを美とする姿勢が一貫しておりモニターや上映案内板は木質パネルの中に自然に埋め込まれている。

おそらく素材はアルミまたはアクリル面板+UV印刷/バックプリント。スマートフォンで撮ってもぶれないあたり、ノングレア処理された面、光源の干渉が少ない。文字は白で視認性が高く、光が均等に当たるよう制御されている。そして壁面素材は、この手触り。

スーパーマット加工かセミマットパール。どっちなのかしら?

そして微妙にここ。これはマットブラック金属フレーム。

厚み2mm〜4mm程度の細縁で、視覚的に主張せず、線として壁とパネルを分節

完全に「くっつけない」だけど、離し「すぎない」という2mm程度のディテール隙間。興奮。

ここでは映像という光の存在が、空間素材とコントラストを起こすように設計されている。

木パネルはウォルナット調の縦目地。ここに光源は直接当たらず、壁面にあたる間接光だけで柔らかく浮かび上がる。

照明を光源としての機能ではなく、空間全体の彫刻装置として扱っているように思える。

中に入るとそこにはホテルと見間違えるほどのモダニズムで溢れていた。

黒からダークグレーの壁は、人工皮革調のビニールクロスか、合板と樹脂シート仕上げのかな?

おそらく、サンゲツや川島織物セルコンあたりからの特注と考えるべき。

建具・ドア類・天井パネルには、突板風のメラミン化粧板、もしくはダイノック系シート材が使われていると推測。天井の木ルーバーは吸音兼装飾。映画館として音響を考慮した設計。

一部の壁はフラットなメラミン板/スチール塗装パネルのように見える。

青みがかった中間色グレーで、自然光との相性が良い。

グリッド割りを意識した継ぎ目があるのは、建築的な秩序性を表現。

インテリアとカーペットは、椅子やクッションがコントラストの強い色相、中間色の質感素材

カーペットは抽象幾何パターンで、視覚的に遊びを入れている。

機能よりもアクセント/アイキャッチの役割という意味ではモダニズムから離れている。

そしてモンドリアン風のクッションが置いてあるのは、おそらく意識的だろう。

壁面サインや上映情報は黒バック×白文字、つまり視認性優先のモダンデザイン。

間接照明・スポットダウンライトは演色性高めね。照明の等間隔配置、パネル壁のグリッド感は、「モデュロール」思想の応用ね。私にはわかるわ。

人間尺度に合わせた調和的比率。機能と、比例美の両立を強く志向しているように見える。

非対称配置天井照明はリニア配置で秩序的、一方ラウンジは感性的に柔らかく設計。

廊下、ロビー、劇場空間が照明や素材によって滑らかにつながっており、身体スケールで歩いて理解される空間構成。これはメタボリズムね。

コルビュジエの機能と光の美学とメタボリズムの構造と有機性加えて、 現代ラグジュアリーの素材感と快適性。


たまらないわ。滾ってしまいそう。


B「なにここ!!!最高の場所じゃない!!!美と遊びが職人によって作られた「空間」すぎ。

流石に驚くわね。チケ代が高いだけのことはあるわ。そして、チケットQRでポップコーンとドリンクまでいただけるなんてなんて豪勢。壁・天井・床の色彩はほとんどが無彩色~中間色ね。おそらく、グレー、チャコール、ブラックこれはコルビュジエの「建築は白い箱である」という初期理念や、視覚ノイズを排した造形主義に通じるわ。対してラウンジのファブリックやカーペットだけに色が差し込まれていて、これは色彩のアクセントを限定的に使う思想ね。つまり、ロンシャン礼拝堂における色ガラスの使い方に近い。隠さない。塗装しすぎない。素材のテクスチャで語らせる──これは「マテリアリズム的モダニズム」の特徴であり、明確に彼の系譜。なんというか、全体的に建築的マット美学なのよね。残念なのは、非常口に、デフォルトの緑色のシールがあるところ。壁面と扉が同一マテリアル・同色マット仕上げで統一

見切りも限界まで細く、隠された扉として空間に溶け込ませているし、右上部のピクトですらエスカレーターアイコンはエンボス処理+マットトーンで空間と調和しているのに。

でも、まぁこれは仕方ないわね。」

A「何枚写真撮るの?」

B「この空間にいて何も感じない方が変よ。ここはチケット代云々を除き、特別な空間よ。

足を運んで、自分の目で、皮膚で、光で、時間で体験すること。これは建築や空間の理解において、何よりも勝る「一次情報」よ。ネットに出回っている竣工写真やカタログ写真じゃ、こういう感触はほぼ伝わってこない。まさしく「リアリティ」の所在ね。

【プレミアムシートにて】

「SAION -SR EDITIONは体感しておきたいわね。Linea Researchの44C20

そりゃ音の解像度が異常なわけだよね。なんというか、こういい意味で「うるさいほど」耳に入ってくるというか。それに、あのサブウーハーの制振構造、バンドパスにしてバックロードって、あえて音の伝播速度まで演出しているの。

映像と音響の環世界を一番純粋に受け取れるのが、こういう場所だと思う。

人間の耳って、低音よりも中高音に理屈を感じるようにできている気がするけれど、でもこのシアター、逆に低音で理屈を消す方向に仕組んでいる。だから好き。ただ感じていい場所って、なかなかないから。


A「これからみる映画は、それはBによると

「フレイザー、ディーキンス、ロイ・ウォーカー、クリストファー・ラウズを混ぜた作品」

と書いてある。わかるけど、さっぱりわからない。とりあえずこう返事を返した。


「『ボーン・シリーズ』の編集は神。」


B「ちなみに、気づいていないだろうから補足するけど、ここ、普通の音響じゃない。

SAIONといって、坂本龍一が監修した音響よ。どう?」

A「チラシ見ればわかるわ。坂本龍一、教授ね。あの人頑張って売れ線目指した作品つまりは

『sweet revenge』(一九九四年)『SMOOCHY』(一九九七年)で彼なりに意識したが。しかし、実際に受けたのはcm用に作った『energy flow』が大ヒット。当の本人が「Ultimate Solo」のライナーノーツで「一生懸命やったポップの研究が無駄であると気づいた作品。売れればポップである。」とまで残したくらい。あんまり言いたくないけど、ごく一部を除いて、殆どの人が求めている坂本龍一という音楽家のイメージは「ピアノ楽曲」なんじゃないかな。ほら

一番有名な「Merry Christmas Mr.Lawrence」でさえ元はシンセ主体の楽曲なのに、定着しているのは、完全に「ピアノ版」でしょ?カバー含め。なんというかその辺は、久石譲の『Summer』も同様だけどさ、要するにピアノ=エモさみたいな一種の大衆的偶像の虚像があると思うわ。あと、Bって割と音楽ラインは弱いよね。発言に逃げと抽象を感じる。

音響が良いのはそう。だけど、システムとして理解するのと音楽として理解するのは別。

純粋に「よかった」と済ませる方が、楽だよ。」

B「悪かったわね。まぁでも確かに、私音楽はあんまり詳しくない。「蟻の穴から堤の崩れ」。

少なくとも、Aの前では通じないということが今のセリフで痛感したわ。」

─鑑賞後

A「映画、面白かったね」

B「うん。そして、名前の混ぜ方、間違ってなかったでしょ?」

A「むしろ、何を観たのか余計にわからなくなったけど。すごく楽しかった。」

B「ありていな感想ね。まぁでも「普通」の映画ならともかく「この布陣」の映画は流石に私も具体的なことはすぐには言えないわね。じゃあ二階分下降してグッズコーナーでも行きましょ。」


【POST CREDIT Souvenir Shop】

床の切り替えが空間のスイッチングを明確に示していて、「Souvenir Shop」という消費空間とラウンジ的余白との機能的分節がしっかり設計されているわ。ガラスと金属そして、間接照明で構成された視覚的フレーム化は、建築的には「透明な間仕切り」と判断するほうが聡明ね。でありつつも、実際には商品と来場者を演出するショーケース的空間として成立している。

天井が高く、照明レールと棚構成が縦長の構造を強調し、建築的には垂直性と視線誘導の演出空間になっている。うん。手抜きじゃない。


A「どうせまた見て想いにふけていたのだろう」

B「そりゃね。で、Aは何を見ているの?坂本龍一のコメント解説?」

A「うん。六十年代に新宿のジャズ喫茶に更けて、高校時代に、ミラノ座に通っていたっていう話とプロジェクト関与について話が書いてある。「オーディオケーブルからアンプまで拘っているって。流石に詳細はない。こっちには楽譜がある。ああ、「The Sheltering Sky」いいね。

ベルトリッチですよ。『ラストエンペラー』で日本人初のオスカー作曲賞を獲得した組み合わせ

これ、昔弾いたことがある。案外難しいよ。」

B「え、ピアノ弾けるの?」

A「逆に音楽嗜んでいて、一歩踏みだす勇気がある側の人間で88鍵を知らないと苦労する。」

B「ピアノって難しいよね。右手と左手が交差のあの感覚。弾き手の感覚が知りたいわ。」

A「弾かなければ永遠に理解できないよ、そちらのお得意領域と同じさ。」

B「今度聴かせてよ。演奏を。」

A「何が良いの?曲」

B「そうだなぁ、ボカロとか弾かせるのは中学生みたいな要求だからクラッシックがいいわね。

決めたわ。モーリス・ラヴェルの「ピアノ協奏曲 ト長調 第3楽章: Presto」

A「完全に悪質だわ。これ。名曲のライブラリは押さえているパターンだ。」

B「あら、自信がないのかしら?」

A「いや、弾けるけど。弾けない側が開口一番にいう楽曲じゃないと思って笑。普通はショパン『革命』とかその辺だろって思うだろ普通。初手ラヴェルは笑うしかないぞ。」

B「アルゲリッチとかプロの演奏を見るだけ見ることはしているからさ」

A「理由になってないよ。というか上澄すぎ。でもわかった。楽譜さらっておくよ」

B「日程とかは任せるわ。というか、音楽に関しては本当、敵わないわ、Aには。

それよりも次は建築回りよ。行く順番はほぼ決めているけど」

A「ほいよ、で初手はどこなの」

B「東京都庁」


【東京都庁】 

B、いつも以上に目を輝かせる。

都庁に到着したとき、「……Unnatural city、か」と誰ともなく呟く。

Bがイヤホンを外し、静かに景色に視線を投げる。

B「やっぱりこれ見ると『パト2』思い出すわよね」押井守監督で、レイアウトが今 敏という信じられないコンビの写実極まったレイアウトアニメ。以前以後といっていいかもね。

まぁ、こう言う話は今はなし。本来語るべきことを。


「丹下健三、本当は黒澤明クラスに語られるべきなのに知られていないのよね。広島、香川、長野に象徴をつくった世紀の建築家であるにもかかわらず、やっぱ岸田日出刀が亡くなってから大規模なプロジェクトがないのを見ると真相はわからないけど思うところはあるわね。とはいえ、興味深いのは、一方で、海外では都市計画を中心に活躍していたことなのだけどね。」

Bがふと、バッグの中から香川県庁舎の冊子を出す。「見に行ったの、去年。」


「今は本館だけどね。一九五八年という段階で、「近代建築」と「日本的伝統」の融合を

はじめて明確に打ち出し後の代々木競技場にもつながる作品だわ。坪井善勝の構造設計も見事。」


と語りかけるように述べた。

「海外への都市計画って具体的にはなにがあったの?」

「シンガポールのワンラッフルズプレイスタワー1、シンガポール・インドア・スタジアム

があるわね。象徴的なものは。」まさに「国際建築言語」を用いて世界にプレゼンスを築いた最初の日本人建築家と言う感じ。その意味では、実はね。丹下って、コンペだけで終わった幻の都市もいくつかあるの。アブジャがそうだし。でも、それらが図面上に存在する限り、

あり得た世界線として生き続ける。建築ってそういう記憶媒体でもあるの。

つまり、たとえImpossible architectureだとしても、そこにはしっかりと意義性があるの。」

「記憶媒体か─と、なればここで挙げるべきはずばり「日本武道館」かな。行ってみる?」

「そうね、私としたことが、愚かだったわ。時系列としては丹下よりまず山田守じゃない。

 これだから、「語りやすさ」って嫌いなのよね。言葉の帳尻のズレでは済まされない。

モダニズム建築として見た時にはどうしても陥ってしまうわ。ただ、それは同時に、山田守は丹下とも時代は交差しない、より前の建築家ゆえに、革新以前としては語りにくのよね。

しかし失態だわ。彼の建築は、都市・制度といった上位構造の設計には関心を示さず、構造そのものが語る建築を理想とした。その結晶が「日本武道館」のあの存在感──ゲニウス・ロキ

そのものよ。さ、早く行きましょう。

Bでもうっかりはあるのだと、この時体感した。時々感じていたことはあるけど。

【日本武道館】


A「……来たね。ほんとうに、丘の上に、唐突に現れるって感じなんだ」

Bは、少し息を整えてから、坂道の途中で立ち止まる。そして、静かに呟く。

B「建築には、あらかじめ語る言葉を持たないものがあるの。山田守の武道館は、その代表ね」

A「語る、じゃなくて、語らされる……?」

B「そう。これは理性で理解する前に、場としての声が身体に響く建築なの。

あの八角形──構造と象徴が一致している。合理と精神の交差点。そういう場所」


Aは、武道館の屋根を見上げながらふと気づく。


A「さっきBが「ゲニウス・ロキ」って言っていたの、今なら少しわかる気がするよ。

ここって武の精神性が、そのまま建築になったみたいだ」


B「……その通り。そして、それは山田守がモダニズムから距離を取ったがゆえの成果。

構造を詩にした建築家──それが彼だったのよ」

少し風が吹き抜け、八角屋根の影がゆっくりと地面に落ちる。

B「さ、見に行きましょう。あの天井の力学美を、直接この目で感じるために」

A「そういえば、ここでライブをするというのは、音楽家なら目標の一つ。収容数で言えば、

もっと大きい場所はある。なのに、そういった観念が一度解体され、「ここ」で講演する意味を見出すのは、不思議だね。確かにきっかけはThe Beatlesなのかもしれない。でもそれだけで

ここまで「目標」という枠組みになるとは思えない。結局、それ以前に原初として山田守の美ではなく、感性で象徴する、その信念が、ある種「日本的」と言えるんじゃないかな。

ほら、磯崎新はブルーノ・タウトと桂離宮との関係性をみて「タウトの日本的美意識」が結果亭にモダニズムを牽引したから結果的にはいい側面があった。

しかし、そこにはそれ以前、あるいはそれ以外の、例えば五重塔はどうなのか?という問いをしていた。つまり、モンドリアンをみて「モダニズム」「日本的」と言ってしまう逆説さを指摘していたけれど、この路線でいえば、山田守は丹下以前でありながら「象徴」的建築を作り上げた時点で、この読みの補助線にならないかな。」

B「……いいところ突くわね。つまり、あなたが言っているのは、制度的モダニズムじゃなくて、身体感覚としての日本的象徴性ってことでしょ? それ、山田守の核心よ」

A「うん。制度の言語に還元されないかたちって、あるよね」

B「それを象徴と言い切ったあなたの言葉、ちょっと感動した。

武道館ってね、理屈の建築に見えて、実は祈りに近い。どこか、宗教建築の気配すらあるの。

だからこそ、音楽家にとって登る場所になった。登る、というより、捧げるに近いのかも」

A「まるで舞台じゃなく、祭壇……」

B「そう。しかも、制度化されていない、野生の神殿」

A「そして、今や「武道館!!」という叫びは、実はもう音楽のジャンルや文化的背景を超えたイベントの頂点としての記号。しかも今、それが実況者/VTuber/インフルエンサーにも波及している。これを意味嫌い人もいるけれど、本質的にはリアルに具現化された象徴。

というかそれ言い出したら元々「武道館」だし。だから武道館はもはや「音楽ジャンルの聖地」だけではなく、リアルイベントの聖域としてのフォーマット空間になっている。

そこに立った瞬間、「一段上に上がった」と皆が感じる。

それは音響でも観客数でもなく、「場の構造記憶」としての強さ。それは代えが効かない。

みんな言語化できないのに、「武道館に立つのが夢でした」と言う。これは一種の建築に根ざされた隠れ宗教と同義だ。


Bはそこでふと足を止め、武道館の外壁をそっと手で撫でながら、静かに言う。

B「その意味では山田守って、日本的な無意識にアクセスしていた建築家だったのよ。

それゆえに、彼はモダニズムの系譜にはならなかった。

けれど、私たちはその無意識の象徴性の中で、いまだに儀式を続けている。

──それが、ライブというかたちの現代の祭祀なのかもしれないわ」

そして先ほどのアンサーをすると、まあ身もふたもない話に落ち着いてしまうが、結局西洋の持ち込みから始まっている。という意味では前川國男からしてそうなの。実際、前川國男や岸田日出刀の活動は、ル・コルビュジエや西洋の建築理論に強く影響を受けたもの。

それすなわち純粋な「日本独自のモダニズム」ではなく、「西洋」の感性に「日本美」を付け足したという側面が強いという論も成り立つ。

磯崎氏のあの本が言いたいのは本質的には「外部の評価を内面化した日本像」について。

まぁ、議論しても仕方ないところに落ち着いていたので、一旦離れて、再度丹下以後の想像力にもどりましょう。

A「つまりは、黒川紀章だね」

B「わかってきたじゃない」

A「きまりだね。じゃあ、カプセルタワービルに行こう」


─間話雑談─

中銀カプセルタワービルに向かう途中のこと出来事である。

Bはふいに顔をしかめて、都庁の壁面を指差した。

「あれ、DXって書いてあるじゃない?

ほんとセンスないわよね。こっちはDigital Transformationじゃなくて、DX=ディーテン

──Diggy-MO'のベストアルバムにしか見えないのに。」

大体、DXって、発音の段階で既に時代錯誤なのよ。ディーのあとにエックスって、語としてももう死語寸前。ドラクエと同じよ。ナンバリングが増えすぎると、どっちが前なのかも

わからなくなる。そう言いながら、彼女はイヤホンをくるくると指で巻きはじめた。

ちなみにゼンハイザーのIE 200。


聴いていたのはcapsuleの『FLASH BACK』より「FLASH BACK」

こういうところ、細かい。これは『LAIR GAME』の種明かしに流れるBGM。

しかし、ドラマ版のサントラには収録されない。

しかし、強烈なキメの一曲だ。遠からずこの会話も似たようなものだ。Bはいつも台詞に裏の裏を二乗くらいのテンポで決めてくる。それを明かす時のBGM『LAIR GAME』というのはなんとも粋である。中田ヤスタカ、MASSIVEで二〇一〇年代を席巻したミュージシャン。

その発芽として二〇〇〇年代のドラマであるこの作品の劇伴は欠かせない。


今、お薦めするなら『WAVE RUNNER』-「Another World」かな。


「ていうか、そもそも造語で人を操ろうとする感覚が、もう古いのよ。『変革』『未来』なんて言っているけど、そんなのは昔から「未来」と繰り返されてきたじゃない。昔の時代に生きた方々は、未来には「宇宙旅行」といった想像力をもって、マービン・ミンスキー、セーガンと色々と期待に夢想を思い、そして想いを描いていた。しかし実際にはそうはならかった。それと同じで、結局デジタル化したものを扱いきれないまま、途中で諦めるパターンしか見えない。自販機ひとつ新札に対応できてないのに、DXとか言って笑っちゃうわ。」

【中銀カプセルタワービル】

A「不思議なぁ。タイポグラフィを意識したかのような建築だね。スイススタイルっぽい」

B「Aってさ、たまに鋭いを通り越して、謎になるよね。

─まぁでも主張は理解できる。要するに尾石達也っぽいってことでしょ?」

A「そう。ほらあの人『まりあ†ほりっく』のオープニングでおもいっきりアクションペインティングとランドアートの美意識で演出をしていた。ポロックからスミッソンといった体系を

アニメ映像で展開する人なんてあの人くらいしかいない。そして主題に戻すと──『魔法先生ネギま! 〜白き翼 ALA ALBA〜』のオープニングは、バウハウスとスイススタイルの融合だ。つまり、シャフトっぽさを確立した片腕・尾石達也が、そうしたイズムを明確にもっていた。そのうえで考えれば、シャフト映像における美意識に、黒川紀章的想像力が逆反射的に照射されていても、おかしくはないと思うんだ。」

「いつの時代の話をしているのやら、まぁ、事実はそうなんだけれども、いや古すぎる。

 ちゃんとカプセルタワービルを論じなさいよね。

……でもね、黒川紀章のメタボリズム、私、ちょっと好きなの。

ううん、正確に言えば――あの、カプセルタワービルの構成、かな。

ほら、一個一個がちゃんと独立してて、それでいて、全部が繋がってる感じ。

機械みたいに見えるのに、なんだか呼吸してるみたいっていうか……

……うまく言えないけど、そういうの、いいなって、思っちゃうのだよね。」

A「尾石達也の話で古いって言っておきながら、自分は大沼心の『ef - a tale of memories.』みたいなセリフで浸るの、おもろいな。ずるすぎ。結局、同じ穴の狢だ」

B「じゃあ吉澤翠や大谷肇を軸に語った方が良かった?

それとも一周回って新房昭之を『メタルファイター♥MIKU』『The Soul Taker〜魂狩〜』

ova『新 破裏拳ポリマー』『コゼットの肖像』で語った方が良かったかしら?それとも絵コンテ川畑ライン?あるいは大石美絵のほうがよかった?或いはパストラル共作時代?

ちなみにさっきあげた作品には、梅津泰臣や本田雄といった名前も普通に関わっている。

極めつけは『The Soul Taker』の第八話「地獄の仮面篇」電車回よ。あれ、演出は外崎春雄─ええ、あの外崎春雄。なんでそこで?って、正直わたしも最初は二度見したわ」

A「……ほんと抜け目ないな。いや、わかるけど。……とりあえず中に入ろう」

B「そうね。お互い、枝葉が伸びすぎたわ。でもまあ──黒川紀章を軸に語り合う前哨戦としては、まずまずじゃないかしら」

そう言いながら入り口へと向かうBであった。

アニメにも強いのはシンプルに意外だ。


A「中……狭いけど、なんだろ、落ち着く……」

B「感覚遮断される感じ、よね。外界と断絶して、ここだけ時間が止まっている。

……好きだな、こういうの」

A「ひとつの細胞に、ひとつの宇宙があるみたい」

B「そう、カプセル=個、だけど集合体=都市。黒川の思想は、身体ではなく都市のアナロギアよ」

A「……更新されなかった、ね」

B「うん。きっと私たちは、取り替えられる未来を待っていた。

でも、それって本当に希望だったのかしら

A「……でも、それでもここに惹かれるのは、なぜなんだろう」B「未来のはずだったものが、過去になってしまった空間。そのズレが、今の私たちの生きている都市の姿そのものなのかもしれない」A「でもここも、来年には解体する。」「ええ。しかし解体という言葉すら、どこか似合わない気がする。……壊すというより、取り除かれる感じ。都市の中で、静かにフェードアウトする細胞」「まるで、都市の身体から摘出される異物みたいに?」

B「うん。本当は、都市の未来を象徴していたはずなのに……いつの間にか、都市のノイズになっていた」A「誰も取り替えなかったんだよね。誰も、更新する未来を担わなかった」

B「それが、思想が制度に負けた瞬間だったのかも。黒川の理想では、建築は交換可能であることで永続するはずだった。でも都市の論理は、更新よりも取り壊しを選んだ」

A「じゃあ自分たちが住まうって感覚って……もう少し、違うものに変わっていくべきだったのかな?」

B「交換可能な個室と誰にも侵されない私室は、似ているようで決定的に違う。

ここは、都市にとっての細胞であるはずだった。でも、私たちには、ただの繭だったのかもしれない」

A「繭って、脱皮の前段階だよね。本当はここから、羽化する未来があったのかもしれない」

B「でも、誰も繭のまま放置された──そうしてこの塔は死にゆく未来の象徴になったのよ。

いずれにしても死にゆく者への祈り、そういうふうに我々はありたいわね。」


A「──でも、こうして語り合っている今だけは、ここが生きているように思える。」

B「そうね。語ることが、せめてもの更新だとすれば」


それ以上の言葉はなかった。

しかし次に行くべき場所はお互い、阿吽の呼吸で同時にこう言い張った。

AB「次は、国立新美術館へ行こう」


【国立新美術館】

──着いた。

ガラスのファサードが、都市に呼吸しているようだった。

幾重にも折れ曲がる波のような曲線。

だがその奥は、ほとんど、空白だった。

Bの「都市」プレイリストは「沸騰都市」より「TOKYO」が流れている。


A「……大きいけど、中身がないように見えるのは、なぜだろう?」

B「常設展がないからよ。ここは、コンテンツじゃなくて、器の方が主体なの」

A「建築が展示物みたいなもの?」

B「そう。都市における空虚の象徴。何を入れてもいいけれど、何も残らない。

……ここにいると、制度の正体が透けて見える気がする。物はいいよう、ハサミは使いよう。常に立ち止まらず、新しいチャレンジを果敢に繰り広げるという解釈のほうが

実際には有名だわ」

A「さっきのカプセルは、更新されなかった未来。でもここは更新だけを求められた現在。」

B「更新されるたびに、意味がゼロに戻される。だからこの美術館には、物語が蓄積しない。

身体がない。魂もない。

だけど、それが今の都市にとって理想的な建築なのかもしれない」

A「それって、怖くない?」

B「ええ。でも、だからこそ来たのよ。

この空っぽな場所でしか、語れないことがある気がしたから」

A「空っぽ。そう考えれば、対比として美しいのは国立西洋美術館かもね。ル・コルビュジエ。

 ロダン作品もあれば、常設もある。一方で、こちらはというと」

B「そこね、新しいチャレンジでサイクルを回すっていうのは逆に言えば固定的なものがない。

 常に流動していくその様はまさしく、東京都。という巨大都市なのでしょうけれどね。」

A「でも……だからこそ、印象に残らないのかもしれない。

一度ここに何が展示されていたか、思い出せる?」

B「正直、記憶は曖昧ね。建物の形ははっきり覚えているけど。

それってたぶん、身体じゃなくて器だった証拠」

A「国立西洋美術館は骨格がある。時代の重さがある。でもここは、言ってみれば、皮膚と粘膜だけでできた巨大な展示可能体だ」

B「そう、自己同一性がない。だからこそ、都市と呼ぶにふさわしい。

記号と機能だけで構成された空間──まさに、メディアとしての建築」

A「逆に言えば、都市において私たち自身もまた、そういう記号に近づいているのかも。」

B「主体の空洞化。語るべき物語がなく、あるのはただ、展示される表象のサイクル。

そう考えると、都市って、更新されることに中毒しているのかもしれないわね」


するとAはふと思い当たる節をみつけてこういった。


A「そういえば、Bってさっきバイオメガ読んでいたよね。建築と漫画をかけるなら、弐瓶勉の援用ってどうかな?」

B「ああ、弐瓶勉──彼の描く都市は、空間が意志を持っている。そこに生きる人間が、空間に順応していくような……むしろ、建築に取り込まれていく感覚」

A「それってまさに、黒川紀章の都市を構造体として捉える発想と近いかもね。違うのは、黒川が希望として語ったものが、弐瓶ではほとんど終末論になるってところかな。まぁこれはベンフォードの『夜の大海の中で』がベースとなっていたりすることが大きかったりするし、彼の作画は基本的にエンキ・ビラルなのよね。あとはベクシンスキーにギーガーを足して、持ち前の建築知識を活かして、いわゆるMegalomaniaを描いている。その意味では、彼の描く都市は未来の建築というより、建築された未来。」

B「そう。都市が生きているって感覚。だけど弐瓶の描く建築って、生命と同時に、死と不可逆性も含まれている。

──そこに更新はない。堆積と漂流だけ」

A「まるで、失敗したメタボリズム建築の後日譚みたい」

B「……それ、ちょっと残酷だけど、的を射ているわね。ちなみにマイベストは『アバラ』」

  さて、次にいきましょう。といっても、回るルートは私の中で決まっているので大人しく着いてきてもらうわ。」「もちろん。どこにだっていくよ。で、次はどの文脈で?」

B「軽井沢聖パウロカトリック教会、知っている? アントニン・レーモンドの設計よ」

A「ああ、あそこか。名前の通り、確かに空間そのものが祈りみたいだ」

B「そう。展示のためじゃなくて、内省のための空間。建築が精神性を帯びた瞬間って感じがしたのよ」

A「都市の中で、あんなに沈黙が聞こえる空間があるって、不思議だよね」

B「だからこれからいくのよ。スイススタイルやメタボリズムで語った構造としての建築とは、まるで逆の場所。だけど、だからこそ、次に行くべき場所なのよ」

A「時代系譜としては根本から丹下とは別だね。ついに登場。フランク・ロイド・ライト。その弟子がレーモンドという形か。なんとなくこの次の建築場所もみえてきた気がするよ。」

Bは嬉しそうに笑いながらこういった。

B「当然、そのくらいの見識がなければ、私はあなたを選ばない。」


謙遜でもなければお世辞でもない反応。そんな気がして嬉しかった。

そしてBのプレイリストは川井憲次から一転、Daniel Blumbergへ変わっていた。

間話音楽「Overture (Ship)」


もちろん『The Brutalist』のサントラであることは、いうまでもない。


【軽井沢聖パウロカトリック教会】

A「ああ、やっぱり、空気が違うね。さっきまでの喧騒が嘘みたいだ。県レベルで違うけど」

B「アントニン・レーモンドは、ライトの帝国ホテルプロジェクトに参加するために来日。

有機的建築思想に大きな影響を受けつつも、レーモンドは日本の風土・素材・職人技術に目を向け、独自の道を歩むようになるの。木材や土、石など、日本の伝統的素材を積極活用でしょ。あとは、小さくて機能的。この教会もそうね。つまりミニマル化と機能性を帯びている。」

A「ヴェーベルンほど極端でもなく、ライヒほどの前衛でもない、つまりニューエイジとしてのジョージ・ウィンストンってあたりか。」

B「うーん、ごめんなさい。やはり私は音楽には疎いのでその例えはわからないわ。」

A「ま、極端じゃないってことよ。バランスが取れているってことさ。」

B「わかったわ。では話を続けるけれど、そんなレーモンドが手がけた作品の代表的な建築の最たる作品が、東京女子大学礼拝堂ね。日本で最初のレーモンド設計の本格的教会建築。

素朴で木造的、そして極限まで簡素化されたプロテスタント教会。そして今、私たちがいる場

軽井沢聖パウロカトリック教会ね。見ればわかるように、カトリックでありながら、和洋折衷の簡素な構成。で、縦長の尖塔・ローカルな素材・自然との調和が、非ヨーロッパ的キリスト教空間の理想形というべき建築なのよね。その意味ではレーモンドの教会建築は、西洋近代建築を日本に定着させるための実験場であったとも言えるわね。案外、こういった場だからこそ、

「翻訳されたモダニズム」というものが違和なく観ることができるというべきかしら。

文化の最前線であるがゆえの特異性があると思う。」

A「そして、レーモンド事務所からは吉村順三、前川國男、坂倉準三が輩出された」

B「本当、前川國男ってどこにもでいる感じするわよね。この中で純正でレーモンドの意思を継いだというのは吉村順三だと思うわ。吉村順三は、軽井沢の美学を受け継ぎ、レーモンドの木造教会の感覚を日本住宅に展開したのよ。そしてさっきの三人が共同で作ったのが、六本木国際文化会館だったりする。

吉村作品としては愛知県立芸術大学、八ヶ岳高原音楽堂あたりが有名ね。弟子筋には奥村昭雄とか、中村好文がいたりする。」

A「吉村順三って、静けさを建てた建築家って形容されることもあるよね。

たしかに彼の建物には、空気の音がちゃんと聞こえる感じがする。

A「八ヶ岳高原音楽堂なんて、まるで聴くための楽器そのものだと思う。

建築が音楽のための器にまで昇華されるって、やっぱりちょっと特別だ。

そしてあの感覚、言い方悪いかもしれないけどちょっとミステリっぽい。」

B「あれ、来訪したことあるの?」

A「うん、ちょっとコンサート系でね。数回」

B「これだから音楽できる奴って腹立つのよね笑、恩恵が大きすぎるっての。」

A「それはそうと、レーモンド建築から、吉村に至るまでの共通性ってなんなんだろう」

B「それは多分、吉村の「軽井沢の山荘」を見ればわかると思う。さっきも言ったけどあの精神を、住宅空間に応用したというのが顕著に表れているわ。レーモンドのプリンシプルを住宅空間に転用した傑作とでも形容するべきかしら。両者とも空間を重視するタイプだと思う。

レーモンドは木材の即興的構法と現場との対話。風土と素材の相性を重点的とでも形容すべきかしら。他方、吉村は無垢材・左官・障子・石などの人が触れる素材を徹底的に吟味している。

両者にとって、素材は「設計図に従うもの」ではなく、空間そのものを構成する対話的要素。その意味では、あくまでも比喩であることを前提としてだけど、印象派の感性に近いかも。

印象派のように、即興的な光と触覚の交差点に成立する感性に近いかも?いや、緊張感でいえば「分離派」以後のハンマースホイかな、「誰もいない」っていうあの感じ。あれ伝ってる笑?」

A「構造的分節で語るの、本当巧いな。語る空間が印象派であり語らぬ空間で、ハンマースホイ

なかなか出ない。余白建築という意味では十分含意は伝わってるよ。そしてそろそろ次に行く頃合いだと思うけど、予想していい?ライトの遺伝子を日本に翻訳したのがレーモンドで、

その形式の骨格を忘れずに持ち帰ったのが遠藤新。ずばりここでしょ。先に吉村をあげたのは、

吉村が暮らしに昇華したのに対して、遠藤新は美を空間に封印した。だから両者とも翻訳者

ライトの巧妙なる仕掛けってことなんじゃない?。だから次は新藤建築。どうかな?」

B「百点よ。」

「ロイドって自由の象徴なのよ。プレーリースタイルは水平に空間を切り拓いた。

でもその思想を日本で住宅に落とし込んだのがレーモンド、そして新藤新だったの。」

【自由学園明日館 講堂 入り口手前】

B「入るまでが堅苦しくない?相当歩いたわよ。」

A「同感、池袋からちょい外れてるとはいえ、かなり迷ったな。これ都心慣れどうこう以前に単純に立地がわかりにくいんだと思う。本当東京って感じ。

まぁ静かだからそんな気持ちもひとしおかな。」

B「いや、単純に私たち二人とも方向音痴なだけ。この時代に道に迷うってのは相当だよ。」

A「さ、入ろうか。」

B「誤魔化して逃げるのはやめて、素直に「方向音痴です」と認めればいいのに。全く笑。」


自由学園明日館は、フランク・ロイド・ライトの設計による、東京都豊島区に現存する学びの建築である。しかし、この空間が今なお訪れる者の心を静め、深い集中と呼吸を誘うのは、単なる校舎やホールの類ではないことを意味している。この建築は、教会ではない。

しかし「祈る」ことに限りなく近い精神的集中を空間に宿している。

明日館における最も顕著な特徴は、ライトの「プレーリースタイル(草原様式)」の見事な翻訳である。軒を低く抑え、屋根が水平に伸びることで、建築は周囲の街並みに「包摂される」。


この包み込む構造こそ、教育とは他者を受け容れる行為であるという思想の空間化である。導入部の軒下、石と木材が混在するアプローチ、ゆるやかな床の高低差──すべてが「内」と「外」の明確な断絶を回避し、連続性と開かれた秩序を保っている。

内部に入ると、視線は自然と天井へ導かれる。複雑に折れ上がる天井は、平面上では幾何学的だが、実際には柔らかな陰影と音響を形成している。梁は太く、しかし押し付けがましくない。照明は梁と一体化し、素材としての木を強調する一方で、空間全体に「光の礼拝堂」とも言うべき神聖さを与えている。壁面の連続窓には、日本建築における明かり取りと「間」の思想が読み取れる。ステンドグラスの代わりに、明るく均質な自然光が差し込み、学ぶことそのものが、祈ることに近づいていくような感覚が呼び起こされる。

明日館は「教育」を超えて、「空間」そのものによって理念を語る。そこには、ライトの建築思想と日本的な感性、精神と素材の連関的建築思考が見事に体現されている。

そして、この建築は「ライト=基本構想」「遠藤=実務設計」という二人体制だ。


B「ということを踏まえると、やっぱり講堂の空間的特異性は日本的だ。他のライト建築よりも空間スケール感が小さく、重心が低い。

天井の装飾梁、照明の配置、日本的な木と石のバランス。これはライトというより、

むしろ遠藤新の職人感覚と実務力が色濃く出ている気がするよ。」

A「独り言ながすぎないか?」

B「括弧書きにしては中々堅苦しいじゃない。作者に言いなさい。」

A「ライト、遠藤の共作でありながらも、まぁ多分、日本建築っていう意味も踏まえるとやっぱり遠藤の仕事としての領分が大きかったんじゃないかな。ま、大元のライトとその美学を受け継いだ遠藤、二人が「関わった」というのは大事よね。ほら、対外的に共作ってのはうまく行くことの方が少ない。それは制度的な面もそうだけど、個性のぶつかり合いがあるから。

有名ミュージシャン同士の合作が「良いけど、突き抜け力が足りない」現象はまさにそれ。

一人で作らせるからいいのである。まぁ建築にこれがどこまで作用するかはわからないけど、ライト建築ですと言われても、遠藤建築と言われても納得できる。こういうのってあんまり例としてないんじゃないかな。ほら、ライトの建築ってさアメリカではそれこそ多いけどそれ以外じゃほぼ現存していないんだよね。この前、講演を聞きに行ったことあるけど、その時にもやっぱり大半はアメリカ設計で、確か五三〇造って、現存が四三〇だったかな?それでいて、米国外にあるロイド建築は1.9パーセント(一〇件)で、これも現存は1.2パーセント(五件)。

つまり一〇件作られた内、八件が日本、現存数でいっても五件中四件が日本なんだ。

B「よく記憶しているわね。」

A「そう、あの時メモとったんだけどそれアンケート用紙の上からだったんだよね。

回収しますって言われて咄嗟にスマホで写真撮ったデータを別途メモでまとめていたのを今、建築を見て思い出した。」

B「せっかくなので、ライト─遠藤というラインについてその講演内容についてお聞かせ願えないかしら。私のはあくまでも推測と結果論からの逆算にしかすぎない。一般兵卒よりも識者のコメントの方が信ぴょう性あることでしょう。」

A「了解。たしかライトが来日にしたのは一九〇五年、当時は船で片道一ヶ月の世界。そうだなここで確か強調されていたのは「小田原ホテル」(一九一七年)のことかな。そして林愛作、この人は繋ぎ役で、帝国ホテルを建設の際にライトに白羽を建てた人ね。あとは、、、そう。まさにここの自由学園はなんと着工が経ったの二ヶ月。ライト自身が教育に熱心というのも関連しているね。あ、枝葉だけど、ここでいう教育と建築思想には直系でいえばバウハウス。

もっと言えば混色独楽だね。ネフ社の高い玩具の思想概念の元ネタ。そういったものを建築に根ざしたんじゃないかな。それはそれとしてメモの話にもどるけど、山邑邸は四回脚ではなく、奥行きで見せることを意識していおり、中央を軸を崩している。これは日本建築の様式美に

通底すると。逆にこれがシンメトリー重視に回ると中国建築。そして、次は角度の話。これは面白い。三十度の角度はウィリッツ邸、ジョンソン邸、ロビー邸。六十度はないって書いてる。

多発するという意味でウォルター邸って書いてる。まぁここら辺は雑多だね。でも、今から振り返る分には幻の「小田原ホテル」と海外に建てられたライト建築がほぼ日本にある。

この事実だけでも十分なんじゃないかな?」

B「恐ろしいまでの整理力ね。普通トークなんて話の形式上左右するからそこまで時系列的に整理するのは恐ろしいほど構築力があるということだわ。なんだか隠れ能力を発見した気分。

そして枝葉が多いとは言え、ライトの教育系統と、バウハウスをつなげるのは一個人の意見とはいえ、秀逸だわ。訳するとこれは、ルートヴィヒ・ヒルシュフェルト・マックのことでしょ?」

A「マジか笑。さすがだ」

B「それにしても、日本建築と中国建築についての記載内容には興味があるわね。今度調べよ。

あと幻の「小田原ホテル」も気になる。やはり世界は広い。知らないことしかない。」

A「そろそろ回り切ったんじゃないか。歩きながらライト建築の歴史って味気ないわな。地味。」

B「いや建築を語るという意味では、生産性のない日常話よりもこっちの方が重要だわ笑」

A「そりゃどうも。いやしかし、一年ちょっと前に行ったイベントメモの写真がこうも役にたつとはね。」

B「人は、目的があるから訪れる。そしてだからこそそこでのイベントというのは身体に滲むものなのよ。景色、風景、知識、そして文章全てがどこかに、それこそ自覚できずも頭という本には無意識刻まれているものなのよ。」

A「さりげなく岸辺露伴ネタを披露するなっと言いたいが、これも文脈なんだよなぁ。

ドラマ版『岸辺露伴』は動かないの露伴邸のモデルは「葉山邸」そして建築は遠藤新。

B「私一回いってみたいのよね。あそこ一泊三十万でしょ。なんとか資金繰りすれば無理ではないから考え見るわ。」

A「まじで財力どうなってんだよ」

B「禁則事項です。」

A「本当に古い!!、何年前の小説ネタ引用してんだよ。もう死語だよ」

B「申し訳ない。では、次、最大の目的地へ向かいましょうか、あの場所へ」

【霞が関ビル群───都市計画案東京計画1960の亡霊)】

 ここに来れば思い出せる。霞が関にならなかった東京計画1960。

丹下一派が宣伝した東京計画、ビルは立ったけど周辺におけるメガストラクチャーまでには、制度的にいけなかった。できたこのビルはその象徴。

だからこそ、あの時の精神だけがあの時の一九六〇年。

音楽のプレイリスト「都市」を回す。

流れてきたのは「沸騰都市BGM4」やはりこういう都市論空間には川井憲次が最適。


B「1960年に見えた未来は、結局そのまま、記憶だけが残った。霞が関ビルは、あのときに

語られた都市という夢の亡霊だ。ビルは建った、でも都市は建たなかった。

まさに「こなかった未来」だわ。海洋堂に企画提案しようかしら?


誰にも届かなかったこの都市の夢を、私はひとりで記録する

 そう言い残し、ノートを広げ書き込みを始めた。


【新国立競技場 通称 ザハ・スタジアム】

所在地:東京都渋谷区千駄ヶ谷1-13-1

通称:「ザハ・スタ」「千駄ヶ谷の龍」「記憶の殻」

構造形式:積層格子リブ構造×カーボン流体膜

収容人数:82,194人

主用途:国際大会/都市儀式/空間観測/他、用途未定エリアあり

施工:21社共同体「Zaha Redeemed Consortium」


今日のメイン、一大スポット。あのザハが手がけた。新国立競技場。

これがもし別の案が通っていたら──瓦と木材、地元の杉で包んだ日本的調和とか言って、

スケールの小さな郷土建築に縮こまっていたのよ。

けどさ、世界の顔に必要なのって、地方色じゃなくて国際性なのよ。

私は、思いっきり言い切るわ──


「やっぱ世界の祭典会場の顔は、地域性ではなくnation、国際よね!!」


ここは──圧倒的「ハディド建築」

歴史的にもそういう例はある。ガウディのサグラダ・ファミリアでしょ、それからあとは、

レンゾ・ピアノのポンピドゥーセンター、そしてコルビュジエのロンシャンの礼拝堂。

建築的個性が強烈な作品ほど、設計者の名前が通称になるのは、文化的慣例が証明しているわ。きっとこれからも「流体空間といい、ねじれ屋根と集客動線など、私たちのような観光見学・ワークショップ・国際シンポジウムの舞台としても活用可能だわ。観光資源の塊になる。

それがすごく嬉しい。もし、私が建築の道を歩んでいたら、あの大学の絶対一〇四期生として「行きたい場所ランキング」入りしていた。し、絶対ザハには系統していたわ。今でもこんな

に興奮しているんだもの。」

A「そもそも、外殻の格子構造や、曲面の流体感が異常に写真映えする。つまり、単純に人目につくよな。この輝きはね、間違いなく映画・CM・PV撮影地として利用価値大だし。

当然マルチ体験型施設化だから、いろいろな商業スペースがあるし。本当、世界の祭典のイベントにふさわしい建築家の創造が現実になることで、これから色々と未来があるね。」


「いや〜〜本当によかったわよ、あの案が通って。あの流線型、あの過剰さ。あれこそ国際で、顔だったじゃない?やっぱり世界の祭典って、郷土じゃなくてナショナル、もっと言えば

グローバルフェイスが必要なのよ。地域性で勝てると思った? 甘い、甘い! 

土壁と杉材じゃなくて、パラメトリックな鉄の曲線で押すべきなの。安藤忠雄の風景性、

隈研吾の素材主義、一様にすばらしい。だがそれ全ては個人の内省としての建築だと思うの。

 でもザハは違う。なによりも、記憶を先取りする装置として建築を建てた。

 それが国際性よ。国家の顔になる建築って、鏡じゃなくて、言語なの。

RCじゃなくてS!

よかった、よかった。あの五輪で世界と戦える構造体をちゃんと立てられて──ホント、正史が勝ったって感じ。違った世界線だったら、隈っぽい瓦屋根の木材スタジアムが建っていたわ

危なかった〜私、今日『高い城の男』読んでいたから余計にディック的に幻影だったアナザーな世界が浮かぶの。そして失って初めて気づくのでしょう。「どうしてこうなった」と。

失われて、損なわれたものが分かった途端言うに決まっている。「話が違う」と。

そしてどこかの誰かが光瀬龍の著作名を引用して『喪われた都市の記録』なんて本が出版。

なんていう未来まであったわけよ。

「B的にはどうよ、これ」改めて、スタジアムの大きさを俯瞰して問うてみる。すると

「井の頭公園を、高さ40mのドームで潰した感じかしらね。一周歩いたら、目が回るぐらいの

情報量。──笑えるでしょ?でも、それが流線型の空間暴力ってやつよ。」



笑いを堪えきれないB。悪意はないのはわかるが、地域性というのも実際は重要。それは伊福部昭も「真に国際性たり得たければ、ローカルであれ」を自身で体現した彼が言っている。まぁこの場合音楽ではなく「建築」だから、Bの反応が正しいのだろう。

「まぁ1番の理由はともかくとして、私、単純に、デコンストラクティヴィズムって好きなの。

機能・秩序・理性というモダニズムを、非機能・混乱・感性で徹底的に解体したんだもの。

まさに建築で意味を破壊する試み。痺れる。」

A「意味を破壊って……それ、建物として成立するの?」

B「だから面白いのよ。

ザハ・ハディド、ピーター・アイゼンマン、そして──レム・コールハース。彼らの建築は、

立体のくせに読むのよ。構造じゃなく、文体としてね。」

A「Bの話って時々、建築と詩の境界がなくなるよな。」B「うれしいこと言うじゃない。

構造は読むもの。詩は組むもの。建築だって演算されていいの。

コールハースの『Delirious New York』──読んだことある?

あれ、都市論なのにマジで読後、詩なのよ。

エンパイアステートビルを、無意識が産んだ神話的構造って断じたとき、私、ああ、デコンは思想じゃなく「詩的暴力」なんだって思った。昔の初期作、というか実際には竣工はされなかったけど、コンペで一番を取ったことがあるの。それが『ザ・ピーク』。


そしてなんと、これがびっくり。審査員長は建築家の磯崎新。最初にザハ・ハディドという存在を認めた、いや受け入れたというよりも日本建築をローカルからグローバルへという

「空間を記号と欲望の表象とする系譜」が、ついに日本の国家事業レベルにまで昇華された、たった一度の可能性、いやたった一つの冴えた方法というべきなのかしら。この場合。つまり『ザ・ピーク』は建たなかった。でも、時代を経て国際イベントの「競技場」という時代に名を残す。そんな境地に立ったザハ・ハディドがようやく磯崎に恩を返したと形容できるわ。


立地にしても、千駄ヶ谷駅直結のペデストリアンデッキ、地下モール経由で青山霊園と連絡が可能だし、JSCと文化庁共同管理で、夜間演出は東京都が認可制で貸出というのもあるわ。

さっき映画といった全体を魅せる資源として挙げていたけれども、それこそライブの会場にも最適。実際にほら、登ってみると不思議な音がするでしょ。これは通称、ウロボロス階段と

呼ばれる螺旋運動による反響によるものだと思うのだけれど、音が二度反響する。」

「確かに。」

Aは何歩かあるいてそれを体感する。

A「自分がみた情報だと、「快晴の日、屋根部分が一瞬消える」という現象が報告されている。通称、「透明瞬」らしい。」


「ああ、それね。つまり光の屈折率に応じて「人によって見える形が異なるということらしいわね。でもそういった異化作用好き。大好き。それを可能にしているのがスタジアム外殻─抜け目がない完璧な場所だわ。」

地上5F カフェ/展望室

地上4F 観客席(上層)

スカイデッキ(展望用)

地上3F VIP席、関係者ルーム

地上2F 観客席・商業テナント

地上1F 入場ゲート・商業施設

地下1F 通路・搬入口

地下2F 駐車場・機械室

少し歩いた先に、随分ざっくり表記の階層マップの張り出しがあった。













階層マップを見ながら小声でつぶき始める。

「明記上、わかりやすいように階層名でかいているけれど、実際にはここ、明確に何階建てって言えないのよ。だってこの建物、上下じゃなくてねじれで出来ているでしょ?

 地上5層+地下2層?──それは機能上の分け方。実際には、流線で動線が繋がっていて、

 たとえばVIP席から3F回廊を通れば、カフェデッキまでスロープで直行できるし、

 地下搬入口は2Fコンコースの裏動線とシームレス。まるで建築が呼吸しているような感じ。」

「つまり「5階建て」ではなく「7つの流体レイヤーを持つ建築」と捉える方のが正確だね。」



「冴えているじゃない。まさにそうで、空港に代表されるスロープ式動線、並行的・傾斜的な接続こそがザハ案の肝。そうだ私、この一階の売店で買いたいものがあるの。一緒に来なよ」と手招きをする。


「いいけど、何買うの?」と聞くと、Bは笑いながらメモ帳を提示した。



[欲しいものリスト ザハスタ購買]

・《Zaha Stadium: 図説資料集》――記憶構造としての都市、その中枢建築のすべて」

・《シェル断面ピンズセット》

・《磯崎新×ザハ対話抜粋CD「空間は記憶を呼び出す」》

《ザハ・スタジアム プレート皿》等・・・


「面白そうだ、行こうB、自分は、これ《ザハ・スタイロ》──流線構造シャープペンと、

あとこれ、定規としてはどうかと思うけど、《ザハ・スケール定規》──非直線定規セット」

 あと、これザハ建築フォント定規──構造タイポグラフィ用、ってこれ0とOが既に

サンプル時点でわからん。 見分けがつかないけどそこがいい。こういうのは記念だよね。」


「楽しんでもらえて結構だわ。早く購入し、「龍の背」にある喫茶店Café Paramètreに入って休憩でもしましょう。あそこは幾何曲線で構成される店内構造をもつ喫茶空間だわ」

 ランプは席の曲線角度に応じて色温度・光の強さが変化する曲率センサー連動型だし、

 スピーカーは構造のリブ部分に埋込式。そしてなんと会計は天井から下がる円形ホロ端末。

  なによりも座りたい場所の大人気席「Z-Sink」ここは、曲面鏡面素材で構成されており、

 天井のカーボン膜から一点集光。まさに《Bauhaus》ならぬ《Decohaus》。ここにしたい。


「正直、徒歩と喋りすぎて疲れたわ。でもその前に、─────」

と言い出すと、大きなカメラを二台取り出した。


そう、ここは、この建築は「未来の記憶を持つ都市構造」

【帰り道】時刻0:32

「今日は本当にありがとう。色々回れて楽しかった。」

「じゃあ今度、私の家で」

「え、いいのそんな急に。自分なんかが伺っても。」

「大丈夫。今日はある種その試験でもあったの。これで凡百の反応しかなかった場合は普通に縁切りまで想定していたの。でもそうじゃなかった。ちゃんと、私を対話で楽しませてくれた。

会話として一方通行にはならなかったし、むしろ共鳴していたわ。極め付けは国立新美術館ね。

同時に言い出すなんて初めてじゃない?あの瞬間、これ、思想の同期化=相互理解の萌芽として受け取ったわ。本当すごい。同じ黒川紀章とはいえね。あの一瞬だけは変え難い一瞬だった。

ちょっとだけだけね。でもその一瞬が一番の収穫かも」

そういいながらBとハイタッチを高らかに決めた。

Music By.スリーズブーケ.『Reflection in the mirror (104期NEW Ver.)』

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