第1章 水没

 夏の日。仮架橋中央――。

 

 亮と京子はゆっくりと歩き――ひなたはバイクを押しながら京子に視線を向けていた。

(京子……)

 

 三人が中央へ差しかかったころ、工事の喧騒はすっかり遠ざかっていた。

 川面を渡る風だけが、ひなた達の足元を撫でていく。

 

 すると、亮が静かに口を開く。

「部活辞めるって――ひなたは聞いてたのか?」

 ひなたがゆっくりを指を横に振る。

「わからない……」

 

 そして、ひなたは京子に視線を向ける。

「それでね、京子。話って――」

 ひなたが声をかけた瞬間だった。

「……」

 京子の足が止まり、影を落としたように表情が沈む。

 唇が震え、喉の奥で何かを押し殺すような息がこぼれた。


「京子ちゃん……?」

 亮が眉を寄せる。


 京子の視線は、ひなたを正面から捉えていない。

 焦点の合わない瞳が、どこか遠い場所をさまよっている。


 ひなたがバイクから離れ、京子に一歩近づいた。

「京子、大丈夫?何が――」


 京子の肩がわずかに震えた。

「……騙された……」

「えっ?」


 問い返す間もなかった。


 ――ドンッ。


 京子の両手がひなたの肩を強く突き飛ばしていた。

 ひなたの視界が反転し、夏空と欄干が逆さに回る。


「ひなたっ!」

 亮の叫びが遠くなる。

 重力に引きずられる身体の感覚の中で、ひなたの意識だけが研ぎ澄まされていく。


(飛び込みの――フォーム!)


 水泳部で叩き込まれた習慣が、反射的に身体を動かす。

 足を揃え、腹を締め、腕を前へ流し、体勢を縦へまとめる。


 ――バシャァン!


 鋭い衝撃とともに、ひなたは霧島川へ沈んだ。

(京子――)

 冷たい水が全身を包み、耳鳴りが痺れのように広がる。

 肺が苦しく悲鳴を上げた。


(水面に出ないと!)

 水を蹴り、ひなたは泡の中を抜けて水面へ顔を出した。


「はぁっ……っ!」

 ひなたが大きく息を吸った瞬間、橋の上から怒号が響いた。

「京子ちゃん!待て!」

 亮の声だ。


 見上げると、京子がひなたのバイクに跨っているのが遠くに見えた。

 ひなたの共感力が、京子の表情を鮮明に捉えた。

 その横顔には、恐れも戸惑いも――罪悪感すらない。

 感情の空白――。

(京子……) 

 すると、ひなたは奥歯を噛みしめながらつぶやく。

「しまった!キーをつけっぱなし……」



 一瞬後、キーを回す音がした。


 ――ギュルルルル……


 ――ブロロロロロッ!!


 青い SHINOBI が、京子の細い腕に操られ、弾かれたように走り出す。


「待て!京子ちゃん!」

 亮が手を伸ばすが届かない。

 バイクは橋を駆け抜け、工事車両の間をすり抜け、遠ざかっていった。


 川面のひなたの前には、ただエンジン音だけが残る。

「京子――!」

 彼女の叫びは空へ消えた。


「ひなた!」

 橋の上から亮が身を乗り出す。

「無事か!?京子ちゃんが逃げた!お前のバイクを奪って!」


 ひなたは岸へ向かって泳ぎながら、苦しげに息を吐いた。

「京子……どうして……?」


 その呟きは、波紋とともに霧島川へ溶けていった。

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