第16話

お忍び女神、来店

 深夜二時。

 『Dining Bar AOTA』の営業も、そろそろ終わりの時間を迎えようとしていた。

 騒がしかった貴族令嬢たちも帰り、店内には静寂と、残り香のようなアルコールの匂いだけが漂っている。

「ふぅ……今日も戦場でしたね」

 ルナがテーブルを拭きながら、ぐったりと肩を落とす。

 ニャングルはレジで本日の売上(金貨の山)を数えながら、ニヤニヤが止まらない顔で「疲れも吹き飛ぶ額やでぇ」と呟いている。

 俺は厨房で片付けを始めようとしていた。

 その時。

 カラン……コロン……。

 ドアベルが、控えめに、しかしどこか重々しく鳴った。

「いらっしゃいませ。まだ大丈夫ですよ」

 俺が声をかけると、入り口に一人の女性が立っていた。

 深いフードを目深に被っているが、隠しきれない気品と、それ以上に濃厚な「疲労のオーラ」が漂っている。

 彼女はカウンターの端、龍魔呂の正面にドサリと座り込んだ。

「……やってる?」

「ええ。ラストオーダーになりますが」

「構わないわ。……強いお酒をちょうだい。それと、ボロボロに疲れた心を癒やす、温かくて美味しいもの」

 フードを脱ぐと、月光のような銀髪と、宝石のような紫の瞳が現れた。

 息を呑むほどの美女だ。ルナも美形だが、彼女には生物としての「格」の違いを感じさせるような、圧倒的な存在感がある。

 俺は職業病で、無意識に『解析眼』を発動させてしまった。

 ピピッ。

【個体名:ルチアナ】

【種族:創造神(女神)】

【状態:極度の疲労、空腹、ストレス(業務過多)】

【危険度:世界崩壊レベル】

「ぶっ!?」

 俺はあやうく皿を取り落とすところだった。

 神様!? いや、創造主!?

 なんでそんな世界のトップが、こんな場末のバーに一人で飲みに来てるんだ!?

(お、落ち着け……! 『お忍び』だ。騒いだら消されるかもしれん……!)

 俺は必死にポーカーフェイスを作り、厨房に戻った。

 オーダーは「疲れた心を癒やす、温かくて美味しいもの」。

 相手が神だろうが、客は客だ。料理人のプライドにかけて、満足させて帰さなければならない(さもないと世界がヤバイ)。

「……作るぞ。最高の夜食を」

 俺はネット通販の冷蔵庫を開けた。

 選んだのは、イタリアの家庭の味であり、濃厚なエネルギーの塊。

 【厚切りベーコンのカルボナーラ】

 【特製オニオングラタンスープ】

 まずはスープだ。

 あめ色になるまでじっくり炒めた玉ねぎ(通販のレトルトを使用し時短)をコンソメスープで煮込み、バゲットを乗せ、たっぷりのグリュイエールチーズをかけてオーブンへ。

 その間にパスタを茹でる。

 フライパンで厚切りベーコンをカリカリになるまで炒め、茹で上がったパスタを投入。

 火を止め、生クリームと卵黄、パルメザンチーズを合わせた濃厚ソースを手早く絡める。

 仕上げに、挽きたての黒胡椒をたっぷりと。

 ――厨房から漂う、焦げたチーズとベーコンの香り。

「んんっ……いい匂い……」

 カウンターに突っ伏していたルチアナが、鼻をヒクつかせて顔を上げた。

「お待たせしました」

 俺は湯気の立つ二皿を、彼女の前に置いた。

「『オニオングラタンスープ』と『特製カルボナーラ』です」

「……見たことのない料理ね。でも、魂が求めている気がするわ」

 ルチアナはスプーンを手に取り、まずはスープの上のチーズを掬い上げた。

 とろ~り、と糸を引くチーズ。バゲットがスープを吸ってジュワジュワになっている。

 フーフー、と息を吹きかけ、口へ運ぶ。

「……はふッ、あつッ……んん~っ!!」

 女神の瞳が見開かれた。

「何これ!? 玉ねぎの甘みが凄いわ! それにこのチーズのコク……! 冷え切った体に染み渡るよう……!」

 彼女は夢中でスープを飲み干すと、次はカルボナーラにフォークを突き刺した。

 濃厚な卵黄ソースがパスタに絡みつく。

 ズルッ。モグモグ……。

「んふぅぅぅ……♡」

 ルチアナが、とろけるような顔で頬に手を当てた。

「濃厚……! クリームと卵の優しさの中に、黒胡椒の刺激とベーコンの塩気……! これは罪の味ね……! 天界で食べるネクタル(味のしない完全栄養食)なんかより、ずっと美味しいわ!」

 彼女はフォークを止めることなく、一心不乱に食べ続けた。

 その姿は、世界の管理者としての威厳など微塵もなく、ただの「美味しいものに飢えたお姉さん」だった。

「ふぅ……生き返ったわ」

 完食したルチアナは、満足げに溜息をついた。

 その表情からは、来店時の殺伐とした疲労感が消えている。

「店主さん、いい腕ね。名前は?」

「青田優也です。お口に合って光栄です(女神様)」

「優也ね。覚えておくわ。……さて」

 ルチアナは居住まいを正し、目の前に立つバーテンダー――龍魔呂を見た。

「お腹は満たされたわ。次は『強いお酒』をお願いできるかしら? 最近、部下(天使長)と取引先(魔王)の板挟みで、頭が痛いのよ」

 龍魔呂は、ボリボリと角砂糖を齧りながら、面倒くさそうに彼女を見下ろした。

「……ただの愚痴か。くだらん」

「あら、客の愚痴を聞くのもバーテンダーの仕事でしょ?」

「俺の仕事は『酒を作ること』と『敵を排除すること』だけだ」

 龍魔呂は冷たく言い放つと、ボトルを手に取った。

 選んだのは、カシスのリキュールと、オレンジジュース。

 そして――あの「凶器」のようなシェイカーを構えた。

「……見せてあげるよ、最高のカクテルを」

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