第4話
「水洗トイレ。何度もそう繰り返されたと」
漆黒の闇夜、壁にかかったランプから漏れ出る小さな明かり一つを頼りに書き物をしていた皇帝アデルハイトの羽根ペンが止まった。皇帝が不思議そうに尋ねた。
「トイレ?」
「はい。トイレ。それが一番重要だと……」
アデルハイトは訝しんだ。ピレネー共和国の将軍ロベルト・カロン。9年間帝国の攻撃を防ぎきった稀代の名将。実力だけでなく、国に対する忠誠心すら卓越していることで有名な彼が、たかが便器のために移籍をするだと? 時間をかけてゆっくり説得しようとしていた皇帝は、疑問を抱くしかなかった。
「トイレ、トイレか……」
皇帝は腕を組み、静かに目を閉じてしばらく考え込んだ後、尋ねた。
「それ以外に、他の言葉はなかったか?」
「毎月の給料として200ルーデンをくれと言っていました」
200ルーデン。その言葉を聞いたアデルハイトは一瞬驚いたが、すぐに意味深な笑みを浮かべた。
「ロベルトの隠された意図が分かったぞ」
「え? どのような意図でしょうか?」
「帝国で捕らえた共和国の捕虜は何人だ?」
「はい。元々12,130名でしたが、その中で軍人でない者、軍人だが地位の低い者、身代金を支払う家門のない者を全て釈放し、残ったのは2,320名です」
「その捕虜たちの身代金は?」
「家門の格や持つ富によって身代金を設定しましたが、平均して1人当たり20ルーデンほどになります」
これにアデルハイトが意味深な笑みを浮かべた。
「なら、200ルーデンあれば何人を解放できる?」
「10人……」
「そうだ。ロベルト・カロンは受け取った金を借名口座に回し、密かに代理人を通じて捕虜たちを解放するだろう。その次は……解放された捕虜たちで軍の中枢部を組織し、最後まで帝国に抗った名将ロベルト・カロンの名前を売って兵士を集めるだろう」
「何のためにですか?」
「独立……だろうな。帝国に併合された共和国を再び興し、一つの国とするために」
「……」
これにロウェナの顔に凶暴な殺気が広がった。彼女が小さな声で、しかしはっきりと聞こえるように言った。
「ロベルトのような名将が反乱を起こせば、帝国にとって大きな脅威となり得ます。殺しますか?」
これに、むしろアデルハイトはゆっくりと首を横に振った。
「いや、その程度は覚悟していた。ロベルト程の人物を抱え込もうとするなら、その程度の反抗ぐらいは勘案しなければな」
皇帝の言葉に、ロウェナは過去を思い出した。皇帝アデルハイトがまだ小さな勢力しか持たない第三皇女に過ぎなかった頃、ロウェナはアデルハイトの敵だった。それでもアデルハイトは圧倒的な実力と包容力でロウェナの忠誠心を買った。ロベルトも同様に、自分のものにしようという考えだ。だが……。
(陛下、このロウェナ・フォン・シュバルツベルクは己の利益に従って裏切る凡人ですが、ロベルト・カロンは稀代の名将です。彼は簡単には心を許さないでしょう)
ロウェナは心の中でロベルトを警戒する言葉を呟いたが、口には出さなかった。
自分の皇帝は間違っていなかった。いや、間違わない。その大前提が否定されれば、皇帝一人のカリスマで回っていた帝国の歯車が止まってしまう可能性があったからだ。
一方その頃、ロベルト・カロンは。
――ジャーーーーー
何度も意味もなくトイレの水を流しながら、しきりに感嘆の声を漏らしていた。
「うおおおおお! 水クッソ綺麗ええええええ!!!」
誰も知らないだろう。
彼が本心から変節したという事実も、その理由がたかが水洗トイレのためだという事実も。そのような事実を知る者は、ロベルト・カロンただ一人だった。
まだ、今は。
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