夏の窓

ファシャープ

第1話

夏の、盆の14日である。


新幹線の、小窓の外を私は頬杖をつきながら、どこか阿保な顔をしながら眺めていた。


ストロボ効果のせいか、外がチカチカしていた。いや、私の目が疲れているのか。


重くなった瞼を窓から離し、クシャっと髪をかくのだった。


新大阪までは後30分。今日私は、もうおじいちゃんの寿命が長くないからと、はるばる大阪まで来ていたのであった。


やっとの思いでついた、大阪という地に足を下ろした私は、ガラガラとスーツケースを引き、改札を出た。


それにしてもよく晴れている。思わず手で目元を覆った。


灼熱の日光がアスファルトを焦がしていた。

青々とした草木は、揺れながら幾多もの影を作っていた。


こんなにも生き物が輝く季節が他にあるのかと、そういった感じである。

前もっておさえていたタクシーが、私を迎えてくれた。

「涼しい・・・」

フーッと、心からのため息を吐くと、ちょうどタクシーが動くのであった。


ビルやマンションの窓が、きらきらと輝いては、こちらに光を送っていた。まるでランウェイの、カメラのシャッターのような、そこはかとなく感じる、幼少期の郷愁的な輝きと似たようなものを感じる。

鮮烈かつ強烈に覚えたその感覚は、間違いのないものである。



今でも思い出すのだ。遊んで疲れ切った日の午後、枝に手を伸ばして、夕陽に輝く果実がまるで宝石のように、きらきらと光っていたことを。あの、あたたかくて哀しい色をした、まだ冬のツンとした空気の残る、あの季節が。

手で持てるだけの椿を母に渡しては、まだ赤い頬を撫でてもらった。




ふと目を覚ましたときには病院に着いていた。


眠い目を擦りながら、おぼつかない足取りでタクシーを降りた。さっきよりも重く感じるスーツケースを取り出し、運転手に代金を払い足早に向かった。


入り口に着くと、おばあちゃんがこちらにゆっくりと手を振っていた。

空いている右手で振り返した私の手には、なぜか力が入らなかった。


「よお来たなぁ、暑かったやろ」


そう言って抱きしめてくれたおばあちゃんの腕は、とても暖かかった。


待合室は冷房もあってか、いつもより重い雰囲気を醸し出していた。

ぽつぽつと、さぶいぼが全身を包んでいく感覚が、手に取るようにわかる。受付の話し声が際立つほど静かで、あの、奥の青白く光る蛍光灯の先の暗闇から、数多の手が伸びてきそうな、心の奥からくる気持ち悪さと酷似したものがあった。冷房の効いた空間と、隅々まで消毒された匂いは、まるで外の暑さとは対照に、死人のような暗さを演出している。


「ここにおじいちゃんがいるのか・・・」


一抹だった不安が、ミチミチと肉が裂けるような音を立てながら、私の中で広がってゆく。おじいちゃんは本当に大丈夫なんだろうか。


面会までの待ち時間、弟を横目に母さんたちの様子を観察していた。ちょうど親戚のおばちゃんが合流した、という感じで、3人で円を作って話し込んでいた。なかなか白熱しているらしい。病院内であそこだけが光を放っていた。


ただ、母さんの様子を見るに明るくはないらしい。赤くなった目元のおばあちゃん。口元を手で押さえた母さん。さっきから床しか見ていないおばちゃん。


なぜか、私はあのかつてないほどの焦燥感というものを味わったのだ。まるで置いて行かれてしまったかのような、胸の、肋の隙間達を冷たい風がスルスルと突き抜けていくような、そわそわとした、淋しさと、哀しさと、焦りと虚しさを混ぜ込んで、練り合わせたような気持ち悪い感情を受けたのだ。その時の脈打つ心臓の感覚をはっきりと覚えている。


目の奥が痛い。ジンジンとする感覚は、目を閉じようにも消えなかった。



・・・どこからともなく、さらさらと波の音が聴こえる。3時ごろだろうか。冬の太陽に照らされた砂が、きらきらと光っている。その中には水晶やガラスが、一層光を増して光っていた。

誰かが流木に腰をかけている。じっと目を凝らしたが、間違いなくそれは私だった。不思議と私がそこにいることに疑問はなく、どちらかといえばなぜ海岸にいるのかの方が不思議でたまらなかった。

遠い目をしていた。海の先をずっと眺めているような。どこからともなく吹く潮風は、どこか塩っぽく髪をまとめるのだった。



気がつけばおばあちゃんが、私の肩をさすっていた。


「面会の時間やで」


そうは言われても前が見えない。目の先が、海の中から見ている景色のような、上の方にある水面だけがきらきらと輝くのだった。

咄嗟に拭いた私の裾は濡れていた。


「それじゃあ、上に行こうか」


おばあちゃんの声を聞いて、私は頷いた。

コンコン・・・


「失礼します」


看護師に案内された病室は、昼の温かさを包むような、よく西陽の入る部屋だった。


カーテンは閉まっているものの、ヒラヒラと冷房の風になびく裾から漏れる光が、きらきらと輝くのであった。黄土色の空間は、さっきまでの待合室からは想像もつかないくらい暖かさをもっていた。


「おじいちゃん、久しぶり」

「おお、久しぶり。元気してたか?えらい、背が大きくなったなぁ」


少し俯き加減で歩きながら、病床の横の椅子に座る。


「そうだね・・・」


一つ、息を吸い込んでから


「おじいちゃん、調子はどう?苦しくない?」


と聞いた。

おじいちゃんは少し黙ってから


「ちょっと苦しいかな、うん、やっぱ苦しいなぁ」


と答えた。

多分、もうすでに私の呼吸は乱れていた。


「そっか・・・」

「・・・ねえおじいちゃん」

「うん?」

「すごく言いづらいんだけどさ、その・・・」

「・・・・・・・・・」

「もう、長くないんだよね。」

「・・・そやなぁ」


背を丸めたおじいちゃんは、苦しそうに窓を眺めた。一瞬、時の止まったその空間には、点滴の滴る水の音だけが、無常に響き渡るのだった。


「なんかさ、話聞かせてよ」

「話?うーん、そやなぁ」


考え込んだおじいちゃんの横顔はどこか親父に似ていた。


「よっしゃ、お前、来年はもう高校生やろ?せやから俺の高校生の頃の話したるわ」


とても、ワクワクしていた。いつもあまり口数の多くないおじいちゃんの話をこんなに聞いたのは、後にも先にもこれが最後だった。


「・・・あのときはなぁ俺は山岳部やっててん、友達と山登ってたなぁ。楽しかった。」


骨ばった頬を掻いては、ニヤッと笑うのだった。


「高校もまあ、そんなに頭が良くなかったけれども、学年一をとり続けるくらいには努力しとった。うん・・・」


深々と被った医療用帽子が、目元にぽっかりと影を落としていた。


「ほんでそのまま大学も山岳部でいって山登っとったな。あぁそや、ギターもやったなぁ、懐かしい。んでそのとき出会ったんが今のおばあちゃんや。そのあともいろーんなことがあったけども、子供が産まれて、今の、お前の親父やな。」


突き出た喉仏が上下するたびに、おそらく何度もその思い出を思い出しては噛み締めているのだろう。


「子を育てるってのは、もう俺からしたら広い野原で育ててる感覚やった。どうなるかわからんかったけども、あいつは自分でやりたいことして、すごい成長しとったな。あれは成功しとる人間やったと思うわ。」


おじいちゃんの口から出る親父はきっと、いつまでもあの頃の子供のままなのだろう。


「あんなぁ・・・なんでも全力やで。

勉強にしろ遊びにしろなんにしろ全力や。

自分がやりたいって思ったことを全力でやるんや。人生一度きりやからな。」

「・・・まあ、そんなこと言わなくてもお前はわかっとると思うがな。」


そういうと、おじいちゃんはゆっくりと目を細め、また苦しそうに窓を眺めるのだった。さすった背中は別人のように痩せ細り、浮き出た背骨が、私の手を痛々しくなぞった。それは、今こうして話ができているのが不思議なほどだった。


「俺はお前が大好きなんやで。俺らにとっての初孫やったからなぁ。いっちばんよく見とる。長男として弟を見て、しっかりしとうしなぁ。責任感も強くて人一倍頑張ってたろうし、いつもお前は前だけを見とったなぁ。」


ぽつりぽつりと語られたその言葉の一つ一つが、何となく報われたような、今までの人生を真っ直ぐに肯定してくれているような、そんな気がした。他者への賞賛よりも自虐が捗るこの世界で、間違いなく1人の人間を認めてくれたのである。


直後目の奥の痛みが、激しい鈍痛となって現れ出していた。


「それにな俺がお前を好きなところはそこだけじゃないねん。その年相応の発言ができるんや。強がって分からんところを分かるって言わない。

8才なら8才なりの、10才なら10才なりの返答をしてたし、そういう人間らしいところが、俺は好きやで。」


気付けば、大粒の涙がとめどなく溢れていた。

あんなに母親に泣くなと言われた教えを私は、ことごとく破ってしまったのだ。しゃくり立てた悲鳴を押し殺そうとしたが、無駄な抵抗だった。


「ごめんな、おじいちゃん。」


「・・・・・・なに謝ってんねん。」


震えたおじいちゃんの声と、裏返りそうな息遣いが私の心を締め付けた。

ちょうど面会時間の30分を越えようとしていた。時計のカチカチという秒針を刻む音が、湿ったこの部屋に響くのだった。


「あら、おじいちゃん大丈夫?」

「ん、あぁすまん」


おばあちゃんが入ってきた。おじいちゃんとおばあちゃんが話している、そのぼんやりとした光景が、すごく輝いて見えた。


「またね、おじいちゃん。今日はありがとう。かっこいい人生を聞かせてくれてありがとう。最高のおじいちゃんだよ。」


「おう、またな。」


スライド式の扉を閉める、その一瞬だった。微かに聞こえたおじいちゃんの、苦しそうな咳と息を聞いてしまった。突如襲った鼓動で座り込んだ僕は奥歯を噛み締めた。泣くな泣くな泣くな。そう言い聞かせたのに。荒くなる鼻息と嗚咽でうまく息ができなかった。

こんな姿を見られてはいけないと立ち上がり一歩、また一歩と進むたびに大粒の涙がこぼれ落ちるのだった。目を何度も叩いたが、涙は止まらなかった。辛いのは私じゃなくておじいちゃんなのに。大好きなおじいちゃんがいなくなるのはヤダって本当は言いたいのに、それを言ってしまったら・・・。

走り出した私はもう、大声で泣き叫んでいた。


気がつけば、母さんが私を抱きしめていた。サラサラと流れる鼻水が涙と混ざり合い、あの夢のような塩っぱい雰囲気が漂うのだった。


「大丈夫だよ」


母が私の背中をさすってくれるたびに、何かに対して謝り続けた。同時に、何度もおじいちゃんの生を願った。


「ねえ母さん。私は何度も泣いたよ。」


「何度もおじいちゃんが生きることを願ったよ。」


「でもその願いは届かないんだよね?」


母は肯定することも否定することもなく、さっきよりも強く僕を抱きしめるのだった。




「・・・私はぐやじいッ・・・!!」




人は必ず死ぬのだ。頭では理解していても受け入れ難い現実にがっくりと膝を折るのだった。


「・・・・・・そうだね」


母の震えた声と、私のしゃくりあげた悲鳴だけが、病院に響いた。



帰りの新幹線では、何も話せなかった。頬杖をつく私は、あの夏の思い出が夢だとさえ思っている。4ミリほど伸びた無精髭と、寝癖のままの髪は、実年齢よりもうんと老けて見えた。外を眺める新幹線の窓は、行きと同じだった。でも、そこから見える景色はもう、二度と輝くことはないような気がした。

母さんが作るご飯を噛み締めては、涙が出るようになってしまった。何度も頬を伝う涙は、やがて乾燥し、その線だけがはっきりと赤く腫れるのだった。


1週間後、おじいちゃんは亡くなり、葬式に来ていた。亡くなる前日、200人近い人たちが会いに来ていたそうだ。

花束を手向けるときに、顔に触れた。

とても冷たかったが、おじいちゃんがくれた男らしさという遺産はとても温かいものだった。

『誰に対しても優しくありなさい。小さな幸せを喜べる人間になりなさい。常に素直でいる強さを持ちなさい。そして何より、あなたの人生を全力で生きてください。』


「あ・・・あぁ・・・」


親戚や弟たちの嗚咽が聞こえてくる。不思議と親父と私だけは泣いていなかった。

生前の贈り物として、おじいちゃんの指にピックを挟ませてやった。


祭事を終え、親戚たちとの会食を終えた後、私はまた新幹線に乗り込んでいた。もう夏の終わりだというのに、まとわりつく暑さと照りつける陽の光はあの時のままだった。

いつも以上に涼しく感じる日陰や、深い濃紺の夜空は、やはり魅力的な季節であることに変わりないことを教えてくれた。

ふと、前に座っている女性を見る。奇妙にも、女性の半分が儚くも、美しく輝いていた。長いまつ毛に絡む光が、眩く窓の外を向くのであった。ふと懐かしさを覚えた私の目線は、手元を見ていた。最後におばあちゃんからお盆玉を渡されていたのだ。裏面を見ると、おばあちゃんとしか書かれていなかった。いつもはおじいちゃんとおばあちゃんと書かれているのに。

亡くなった人はこの世からいなくなるのだろうか。そう思いながらも、私も窓の外を眺めるのだった。

今でも時々、懐かしさに泣かされそうになる夜がある。芽吹く花に出会いと別れを託して、また日々は巡りだすのだ。

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