第36話 火魔法と雨の休日
地下六階層での一週間は、まさに激動という言葉が相応しかった。
毎日、午前中からダンジョンに潜り、コボルトの群れを相手に一二万円という安定した稼ぎを叩き出す。泥のように眠り、翌朝にはまた刀を握る。その繰り返しの果てに、スマートフォン内の「数字」はついに目標額である五十万円を軽く突破した。
連日の探索で身体は鉛のように重く、関節の節々が悲鳴を上げている。だが、心は羽が生えたように軽い。
「……よし。今日はオフだ。絶対に一歩も動かないぞ」
自室のベッドに大の字になり、スキルを発動させる。
直接投影された電子のカタログにある、その新項目である『魔導の書:初級』の欄を前に、指を止めて唸った。
「……いざ買うとなると、どの属性にするか迷うな」
カタログに並ぶのは、火、水、風、土の四種類。価格はどれも一律で五十万円。
「風で切り裂くのは冒険者っぽくて格好いいし、土の壁で身を守るのもソロには必要だよな。……いや、水で敵の動きを封じるのもアリか?」
優柔不断に独り言を漏らしていると、枕元で丸まっていた黒い毛玉――ノクスが、バネ仕掛けのように顔を上げた。
『何を迷っておる! 男なら「火」一択だろうが! 敵を骨も残さず焼き尽くす……これぞ魔導の王道、最強の証だわ!』
さらに、クッションの上で優雅に毛繕いをしていたクオンまでが、冷ややかな、しかし熱のこもった瞳で援護射撃をしてくる。
「主、わらわも火を勧めるわ。わらわのデバフで動きを止めた敵を、まとめて火炎で一掃するのは非常に効率が良いもの。……ふふ、わらわの銀毛に火が映えて、きっと美しいわよ?」
大悪魔二匹の熱烈なプレゼン。これほど推されると、他の選択肢が霞んで見えてくる。
「火、か。確かに格好いいよな……。わかった、火にするよ」
『魔導の書:初級(火)』のアイコンを、思い切ってタップした。
その瞬間だった。
室内の空気が震え、目の前の空間に淡い光の粒子が猛烈な勢いで集まり始めた。バチバチと火花のような音を立てて収束した光は、一冊の重厚な本へと姿を変え、手元に現れた。
皮装丁の表紙には、燃え盛る炎の紋章が刻印されている。それになんとなく魔力を流した瞬間、脳内に熱い奔流が流れ込んできた。魔力の練り方、発動の鍵となるイメージ、熱を制御するための術式。
わずか一分足らずで、自分が「火の魔法使い」になったことを確信した。
「すごい……今、指先に力が集まってるのがわかる。よし、試しに一発――」
『バカ者! 部屋で出すな!』
人差し指を突き出した僕の腕に、ノクスが全力で飛びついてきた。
『我の黒炎ならいざ知らず、貴様の未熟な火加減ではこの家が火事になるわ! やるなら外でやってこい!』
叱責され、浮き足立つ心を抑えながらパジャマの上に上着を羽織り、玄関へと飛び出した。
しかし、ドアを開けた瞬間に僕を待っていたのは、無情な水の礫だった。
「……うわ、雨かよ」
空はいつの間にかどんよりとした色に染まり、急速に雨脚を強めている。地面を叩く激しい音に、魔法使いとしてのデビュー戦はあえなく中止となった。がっかりと肩を落とし、湿った空気と共に部屋へと引き返した。
部屋に戻り、ベッドに腰を下ろして溜息をつく。
ノクスが不思議そうに首を傾げながら、僕の元に寄ってきた。
『そう言えば蒼真。最近、あの死神(姉)がこの部屋に来ないな。いつもなら我らをゲームで完膚なきまでに叩きのめし、優越感に浸りに来るのが日課だっただろう?』
「言い方! ……まあ、姉さんなら今、新しいゲームに熱中してるんだよ。没頭すると飯も忘れて部屋から出てこないタイプだから」
『新しいゲームだと?』
ノクスがピクリと耳を動かした。
「MMORPGっていう、オンラインでたくさんの人と繋がって遊ぶ冒険ゲームだよ。気になるなら、優香姉の部屋に行ってみれば?」
提案すると、ノクスは『ふむ、視察に行ってやるとするか』と尻尾を振り、暇を持て余していたクオンも「わらわも付き合うわ」と続いた。
――それから数十分後。
戻ってきた二匹の目は、かつてないほどギラギラと輝いていた。
『蒼真! 我もあの「えむえむおーあーるぴーじー」をやりたい! 大勢の人間と同じ世界を冒険する遊戯だ!』
「わらわもよ。仮想世界での役割分担……わらわの知略を活かすには絶好の舞台だわ。それに、あの死神のパーティに潜り込んで、内側から支配してやるのも一興ね」
どうやら優香姉の部屋で、ネトゲの魔力に当てられてきたらしい。二人には日頃、ダンジョンで多大な貢献をしてもらっているし、たまには贅沢をさせてやってもいいだろう。
「わかったよ。じゃあ二人の分で、ゲーム機を二台追加で買ってきてあげるよ」
そう言うと、ノクスが不満げに鼻を鳴らした。
『フン、何を他人事のように言っておる。当然、蒼真も一緒にやるのだぞ! 我と狐と貴様が新しくキャラを作り、そこに死神を加えた四人でパーティを組んで、仮想世界の頂点に君臨するのだ!』
「え……僕も? まぁ、確かに楽しそうだけど……」
不意打ちの誘いに戸惑いつつも、内心では「こいつら、混ぜてくれるんだな」と少し嬉しくなってしまう。
「……分かったよ。じゃあ、僕の分のソフトも合わせて、三本買ってこよう」
「よし、じゃあ……と言いたいところだけど、外はあの土砂降りだぞ。スキルのカタログには現世のゲーム機なんて載ってないし、明日じゃダメかな?」
渋ると、ノクスはジト目で僕を射抜いた。
『貴様はたった今、自分だけ五十万円もの「書」を買って満足したばかりだろう! 我らにはゲーム機すら惜しむのか!』
「そうよ主。自分だけ魔法を覚えて、わらわたちを雨の中に放置するなんて、ずるいわ……」
二人の波状攻撃に、僕は完敗した。
「……分かったよ。じゃあ準備して。店に行こう」
しかし、二人は一歩も動かなかった。
『我は行かん。雨で毛が濡れるからな。貴様一人で行ってこい』
「わらわも御免だわ。主、早く帰ってきてね」
「……こいつら、マジか」
結局、一人で傘を差し、ずぶ濡れになりながら量販店へ向かった。
店内で震えながら、ゲーム機二台、コントローラー、そして三本のソフトをレジへ運ぶ。
(……高いな。でも、アイツらがあんなにやりたがってたしな)
重たい大荷物をビニール袋で何重にも包んでもらい、再び雨の街へと消えた。
一時間後。ボロ雑巾のようになって帰宅した僕を待っていたのは、暖房の効いた部屋でぬくぬくとくつろぎ、帰るなり「遅いぞ!」と野次を飛ばす二人の姿だった。
『ご苦労。さあ、早く出すのだ』
労いの言葉一つなく、当然のように前足を出してくるノクスに、溜息をつきながら戦利品を渡した。
クオンは「あら、意外と早かったわね」と嬉しそうに箱を開け始め、ノクスは早速キャラクターメイキングの画面に見入っている。
タオルで頭を拭きながら、濡れた服を脱ぎ捨てて、心の中で固く誓った。
(……絶対に、絶対に早く免許を取ろう。そしてあの五〇〇万の車を買ってやる。そうすれば雨の日でも、こいつらに顎で使われてこんな惨めな思いをしなくて済むんだ……!)
決意とは裏腹に、部屋にはMMORPGの雄大なタイトルBGMが賑やかに響き渡り、隣の部屋からは「おー、蒼真達も買ったの?」という姉の歓声が聞こえてきた。
魔法を覚えたというのに、日常は相変わらず二匹と一人に支配されている。
だが、窓の外の雨音を聞きながら、賑やかになった部屋を見渡す。
……まあ、こんな休日も、悪くはないのかもしれない。
リザルト
• スキル: 500,000円(魔導の書:初級・火)
• 現世出費: 120,000円(追加の本体2台・ソフト3本・周辺機器)
• 【異界購買】累計使用額: 1,840,000
• 現在の持ち金: 460,000円
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