第3話
◆第三章◆ 調停者の図式
三郎は、寺の一室を辞去しようとする十兵衛の背中に、試すような視線を投げて呼び止めた。
「十兵衛。貴様、俺の理を『調和』させると申したな」
十兵衛は足を止め、静かに振り返る。
「はっ。…そのように例え申した」
「ならば見せよ。公方様は、我らを未だ『無秩序な蛮行』を働く田舎大名とその家臣と見做しておる」
十兵衛はコクリと頷く。
「あの御方の心証を覆せ。桶狭間での戦が、京の秩序を乱す毒ではなく、『良薬』であったと、その口で弁じてみせよ」
十兵衛は迷いなく頷く。
その瞳には、すでに公儀を説得する道筋を宿している。
「承知いたしました。公方様が危惧されるのは、『大義なき武威』による秩序の崩壊にござります。
ならば、我らが為すべきは、上総介殿の武が、いかに『既存の秩序を保つための行為』であったかを証明することに他なりませぬ」
三郎は乾いた笑みを浮かべる。
「秩序を保つだと?俺の関心は、この乱世を生き抜く『戦略』のみだ。それをどう『儀礼』というカビ臭い器に収めてみせるか、見物させてもらうぞ」
「御意」
十兵衛は静かに一礼し、寺を後にした。彼の脳裏では、すでに公儀に三郎が『権威』を脅かす存在では無いと言う理を構築すべく知恵を巡らせていた。
場所は移り、かつての絢爛雅やかな装いは今は無く、辛うじて静かに威厳を保つ程度の質素さを残した二条御所。
十兵衛は礼儀正しく廊下の縁に静かに座し、その前方に広がる屋根の無い稽古場を見つめていた。
公方こと足利幕府 第13代征夷大将軍 義輝は、上着を脱ぎ捨て、肌襦袢一枚の姿で立っていた。日光の下、その肩から腕にかけての筋骨は汗で濡れ、鍛錬を欠かさぬ剣豪の肉体を際立たせている。
彼は木刀を手に、臣下を顧みることなく、また都を乱す戦の報による疲労も寸分も見せることなく、武芸の稽古を続けていた。
だが、剣先にはえも言えぬ殺気、怒りとも苛立ちともとれるような鈍い光があった。
その光は、昨年の戦そのものではなく、幕府の『権威』が失墜することへの畏怖を帯びるかのようだった…
「十兵衛。尾張の田舎者は、未だに京の作法を弁えぬと見えるな。武をもって武を制すは、この世の習い、即ち、武家との作法されど、彼の者の刃はそれを超えておる。余が天下の号令によって武威を振るうならまだしも、秩序無く武を振るうておる。その無秩序な武威こそ、この京を乱す毒となる。光秀もそう思うであろう?」
義輝は深い溜息をつく。
「あれだけの軍勢同士をぶつけ合い、守護職にある者を討ち取るとは……。その暴挙が余の治世を乱す毒、三好らと何ら変わらぬではないか」
公方は振る度に土煙りを上げる木刀の握りを強め、更に力強く木刀を振る…
「光秀ならば、彼の者に京での作法を説く役目、果たしてくれると信じておる。」
光秀は、義輝の木刀がゆっくりと振り下ろされるのを待ち、その鋭い風切り音に決して動じることなく光秀は静かに平伏する。
(――ここで『真実』を述べてはならぬ。三河守殿の狙いが『尾張南部の制圧』を足掛かりにした『東海道の実効支配』であったと告げれば、織田家の勝利は単なる『近隣大名間の領土問題』に矮小化される。それでは公方様の心証は変わらぬ。公方様が求めているのは『幕府の権威の安堵』。事実を捻じ曲げても、その物語を編むのだ。しかし、この物語の一片でも綻べは某の首が飛ぶやも知れぬ、が、それでも編まねばならぬ)
光秀は意を決し、ゆっくりと面を上げる。
「恐れながらに申し上げます。上総介殿の桶狭間での戦いは、公方様が危惧される『無秩序な武威を示す行為』ではございませぬ。あれは、『幕府の権威』に対する挑発を未然に防いだ、『権威の代行』すなわち『秩序の保護』にござります」
光秀の静謐な声は、庭に響く木刀の風切り音と対比し、一層鮮明に義輝の耳に届いたのだろう、肩が一瞬ピクリと動いた。
しかし、何事もなかったかの様に素振りを続ける。
そして、十兵衛の論理の一語一語を切り裂かんとするかの如く、鋭く木刀を振るい続けた。
「上総介殿は、その『公儀への挑発』に対し、尾張という防衛の最前線にて応戦、結果として栴岳承芳公の首級を挙げるに至りましたが、それは、公方様に代わって『武家の作法』を、遠く尾張の地で行ったに過ぎませぬ」
光秀が言葉を終えると、義輝は稽古を終える合図のように、木刀を一際大きく振りかぶった後、静かに下ろした。
その瞬間、庭を支配していた風切り音が途絶え、絶対的な静寂が戻る。
公方は柄の先端で木刀を床につけると、近習から手渡された手拭いで額から流れ落ちる汗を豪快に拭った。その顔には、先ほどの苛立ちではなく、長年の難題を解いたかのような、晴れやかな得心の光が宿っていた。
「……尾張の…いや、上総介が、そこまで考えておったというのか?」
「左様、上総介殿は、『言葉』ではなく『理』で考える御仁にございます。それゆえ、急ぎ領内を纏めて上げ、こうして上洛なさられたのでござりましょう」
公方は身体を拭う手を止め十兵衛を見る。
「某めは、その『理』を、公方様が望まれる『義と秩序の言葉』として、調和させることが御公儀に対する奉公かと思うております」
義輝は深く息を吐いた。
十兵衛が提示した論理は、義輝が求める『大義ある武威』を見事なまでに満たしており、一点の綻びも無いものであった。
公方との拝謁を終えた三郎から再び宿舎を訪れるよう報を受けた光秀は、その夜、再び三郎の元を訪れた。
三郎は片膝を立て、以前と同じように膝から腕をダラリと垂らし、手に持つ扇子を左右に揺らしながら応える。
「見事であったぞ、十兵衛」
三郎の瞳は、以前の猛禽のような鋭さは影を潜め『己が戦略』を『都人(みやこびと)が語る物語』として『演出してみせた』ことに、興味を抱く童のようであった。
「…のう十兵衛、貴様は公方様に、真実を語っておらんのだろう?」
信長は、核心を突く。
「三河守は、尾張と三河の国境を固めたかっただけだ。京になど、興味はなかったかもしれん」
十兵衛は静かに平伏したまま、頷いた。
「ははっ。ですが、公方様が望まれるのは、『正確な尾張の情勢』ではございませぬ。公方様は『京の秩序が守られたという結果』を望まれたのでござります」
光秀は軽く息飲み、
「栴岳承芳公を『逆賊』と定めなければ、上総介殿を『秩序の守護者』として位置づけることは叶いませぬ」
三郎は、十兵衛の腹の内をすべて見通した上で、満足げに鼻を鳴らした。
「フン。貴様の真の狙いは、その公方様と俺の『調和』が成功した今、その身の置き所であろう?」
信長は徐ろに立ち上がると、光秀に手を伸ばし、その肩を掴む。その力は荒々しいが、そこには共犯者めいた親密な重さがあった。
「…のう十兵衛。貴様は、将軍家にあっては危険すぎる。俺の『戦略』を最も理解し、そして最も鋭く論破できる知恵を持つ。その才を、古びた都の湿気に晒しておくのは、『理』にあわん」
(……この男の知恵はいずれ京そのものを動かす)
信長は、光秀という知恵者を、自らの「戦略」の内部に組み込むことを決意していた。
「俺が京を掌握する時が来たら、真っ先に貴様を召し抱える。それまでは、その知恵、公儀への語り部として存分に使うがよい」
信長は静かに手を離した。
二人の間には、もはや主従の萌芽というよりは、「腐敗した世界を、二人の知恵と合理によって強引に整える」という、冷酷な約定が芽生えていた。
調停の炎焔(ほむら) トニコ @Tonico
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