第2話

◆第二章◆ 公儀の問答


 時計の針を、二十年ほど巻き戻す。

 永禄四年(一五六一)、初夏の京。


 薄曇りの空は、まるで目を伏せた老僧の瞼のように重く、都の大路に溜まった湿り気は、人々の声を吸い込みながら淀んでいた。

鴨川の水面から立ち上る細かな霧は、瓦屋根の端に触れて砕け、古い墨と雨に濡れた木の匂いが、町全体にゆるやかに沈殿していく。


そんな京に、織田上総介信長は極秘裡に上洛していた。

桶狭間で義元の首級を挙げたあの大勝利の、ちょうど一年後である。

だが、その戦は“武家の秩序”から見れば逸脱であり、将軍・足利義輝の目には、京の静寂を乱す雷鳴のように映った。

ゆえに信長は、この湿気を含んだ都へ、自らの“理”を弁じに来たのである。


宿所となった寺の一室。

古びた畳に足を置くたび、イグサの湿り気がじんわりと指の間に染み込む。

軋む床板の音が、部屋の静けさをいっそう際立たせていた。


そこへ、明智十兵衛光秀が姿を見せる。

将軍家の近習として、腐りゆく公儀の息遣いを肌で感じ続けてきた男。

光秀の眼差しには、遠国から来た成り上がり者を値踏みする侮りも、権勢にひれ伏す卑しさもない。

織田信長の否、1人の戦国武将としての“器”を透かして見ようとする、研ぎ澄まされた一条の光だけがあった。


「上総介殿」

その声は、濡れた紙をそっと裂くような、静かで鋭い響きを持っていた。

「公方様は、昨年の桶狭間での一件を危ぶんでおられます。

あれが天運による僥倖か、無秩序な蛮行か。

理なき戦の勝敗は、京の秩序を乱す毒にもなりましょう」


信長は旅装のまま、片膝を立てていた。

作法や格式を拒むその姿は、雨の夜を駆ける野犬のように粗く見えたが、髪の隙間から覗く眼だけは、濡れた黒曜石のように沈み、そして熱かった。


「貴様はどう見る」

短い言葉。しかし、刃のように鋭く、「失望させるなよ」という挑発の温度を孕んでいた。


光秀は息を深く吸い込み、京の湿気を肺の底で濾過するように呼吸を整えた。

そして、一切の迷いなく言った。


「奇跡になど、ございません」


その瞬間、二人の間の空気が震えた。

光秀は語り始める。

まるで、あの日の雨をこの部屋に呼び込むように——。


「今川軍二万五千。

あれは“軍”ではなく、威信を掲げた巨大な儀礼の行列であったと思われます。

重く、長く、鈍く、泥濘に沈む大蛇。

国境の小競り合いを諌める、その重荷を背負った者の、抗いようのない鈍重さ」


光秀の言葉とともに、寺の薄暗い部屋には情景が浮かぶ。

尾張の大地を打ちつける豪雨。

鉄具がびしょ濡れの布をまとい、槍の穂先からしたたり落ちる雨水が、地面に無数の小さな円環を作る。

今川軍の隊列は、まるで雨に打たれる古い祭礼の神輿のように、音もなく沈んでいく。


「対して、上総介殿の軍は違った。

ただの小競り合いではない。その先にある勝利、そのためだけに研がれた刃。

そして……あの日の雨」


光秀の声が少し低くなる。

その声音には、雷雲が溜め込む“予兆”が宿っていた。


「常人ならば天を呪い、足を止めるあの豪雨。

しかし上総介殿だけは、あの音を“足音を消すための音曲”と聴いたはず。

雨が景色を白く塗り潰し、泥が大軍の足を奪い、雷鳴が叫びをかき消し、風が地形の匂いを変える。

あの一刻——

すべてが、貴殿の思考に組み込まれた絵図面…いや算術の解となったはず」


寺の柱を叩く雨音が、確かに聞こえた気がした。

光秀は言い切る。


「桶狭間はただの奇襲にあらず。

あれは“間諜の勝利”にござります」


信長の脳裏に昨年の戦場に流れた残り香が蘇る。


「地形、天候、敵の虚勢、そして今川義元殿の狙いと重荷、すなわち行軍の遅さ、それらを瞬時に読み解かれた」


信長の瞳がギラリと鈍く光る


「雨の中に勝機を見い出してこその結果として…いえ、必然の結末でござりましょうや」


光秀の語り草に若き武将たちの息遣いが聞こえた気がした。


信長は長く息を吐いた。

その吐息は驚嘆であった。

己が“思考”を理解する者に出会ったという驚嘆。


「……ほう」

黒曜石の瞳が、わずかに揺れる。


「世は俺のことを、うつけだの雷神だの運任せの無道者だのと呼ぶ。

だが貴様は、あの泥と雨に“算術”を見たというのか」


光秀は静かに頷いた。


「理なき武は続きませぬ。

再現できぬ勝利は、ただの夢物語にござります」


信長の口角が、ゆっくりと吊り上がる。

挑発を正確に読み、さらに深い層まで見透かされた者が浮かべる——

獲物を見つけた猛禽の笑み。


「ならば十兵衛」

信長は光秀の通称を、わざと親密に呼んだ。

「俺の理は、このカビ臭い京の公儀に馴染むか」


光秀は迷いなく答えた。


「馴染みませぬ」


空気が一瞬凍る。

しかし光秀は続けた。


「しかし、調和を図ることは叶います。

上総介殿の鋭利すぎる理を、世間が飲み込める言葉へ、調和を図る道筋へと整える。

その役目、私ならば叶いましょう」


「ハハッ!俺に貴様を値踏みせよと申すか!」

信長は乾いた声で笑った。

それは、荒野で水脈を見つけた旅人の歓喜に近かった。


信長と光秀の問答は、寺の薄暗い一室で、湿気を吸い込みながら続いていた。


光秀は、信長の口角に浮かんだ獲物を見つけた猛禽のような笑みを理解し、さらに核心へと踏み込む。


「上総介殿の勝利は、誠に凄絶であったと聞き及んでおります」

光秀の声は、再び静けさを取り戻した。


「しかし、京の公儀の耳に入りし報は、常に尾張の戦場より、数層の人と云う膜を隔てて伝わって参ります。噂が一人歩きをすれば、真実など、容易に霧散するもの」

信長は片膝を立てたまま、動かない。


光秀は畳に視線を落とし、言葉を選ぶ。

「今川方の軍勢は二万五千と喧伝されますが、それは織田方が己が偉大さを誇張するために編んだ数でござりましょう」


膝からダラリと垂らした手に持つ扇子が微かに揺れる…

「実際の軍勢は、その半分に満たなかった。と拝察いたします」


「ほぅ…」

信長は息を吸うために声を出した。


「そして、上総介殿の本来の意図も、上洛の阻止などではなく、領内の安全、すなわち今川領との国境線を確定させることにあったはず」

光秀は顔を上げた。


(さも見てきたように抜かしおるわ…)

京の将軍家に仕える者が、尾張の辺境大名の意図を、正確に言い表わしてみせる。

それは、信長にとって最高の共感であり、同時に、自分の理が公儀にも捕捉されていたという予感でもあった。


信長は、黒曜石のような眼差しで、光秀を射抜いた。

その視線は、「貴様はどこまで見抜いている」と問う。

光秀は、その挑発を甘受し、静かに頷いた。


「そもそも、将軍家への拝謁は、想定外ではござりませぬか?国境線を定めるための武威が、図らずも義元公の首級を挙げるという予想外の『結果』を導いた。と推察致します」


信長の眉がピクリと動く。

「ゆえに、こ度の上洛は、避けられぬ儀礼、手続きにござります。

公儀の秩序を乱した咎を回避するため、やむを得ず参上された。そうでござりましょうや?」


信長の膝が、僅かに内側に揺らぐ。

光秀は、「桶狭間の大勝利は、国境線確定という『辺境の理』に基づいた、偶発的な戦の結果」であると定義したのだ。


京が危惧した、華々しい「勝利」ではなく、「結果」が生んだ「儀礼」であると。

信長の口から、乾いた笑いが再び漏れる。


「…フッ 十兵衛。貴様、愉快な男よ」

その声には、称賛と同時に、己が腹の底を見透かされた不気味さが混じっていた。


「京の者は、功績を『物語』で測る。だが貴様は、その物語の裏にある『儀礼』と『辺境の現実』を測ろうとする」


光秀は静かに首を振った。

「私はただ、上総介殿の『理』を、京の秩序という水面に正しく反映させたいだけ。

尾張の辺境で成立した『力と合理の図式』を、この国に住まう民草の理と『調和』させる。

それこそが、この腐りゆく都を救う、唯一の道筋だと確信いたしました」


光秀は、信長という劇薬が、都の腐敗を断ち切る「止むを得ない外科手術」であると見定めた。

そして、その手術を成功させるために、自分自身がメスを握る決意をした。

二人の間には、もはや身分や慣習の隔たりはない。

あるのは、「腐った世界を、二人の知恵と合理によって強引に整える」という、冷酷な共犯関係にも近い輪郭であった。

光秀の眼差しに、静かな使命感が宿る。


だが、信長の視線は、光秀の献身を受け止めながらも、どこか遠い未来を見据えていた。


「さて。貴様の言う調和が、どこまで世間に通用するか。見せてもらおう、十兵衛」

信長は、片膝を立てた姿勢から、重い体をゆっくりと持ち上げた。

(此奴、何処まで見えておる…?このまま将軍家にあっては危険やも知れぬな…)


その全身から発せられる野性的な熱気が、京の湿気と冷たい畳の間に、異質な対流を生み出していた…

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