第4話:File_04 近隣住民・K氏の証言「深夜の訪問者」
【まえがき】
右目の違和感は、もはや無視できないレベルに達していた。
鏡を見ると、白目の充血はさらに広がり、血管の赤黒い線が眼球の中心に向かって侵食を始めているように見える。
眼科に行こうかとも考えたが、A子氏の言葉――「病院には行くな」という警告が頭をよぎり、足がすくんだ。
それに、この症状が医学的な疾患ではないことを、私自身が一番よく理解していた。
右目を閉じると暗闇が広がるはずなのに、瞼の裏に白い残像が焼き付いて消えないのだ。
それは、あの203号室の床に散乱していた、無数の白い紙片のようにも見えた。
依頼人であるS田氏とは、依然として連絡がつかない。
彼の「左耳」がどうなったのか、そして彼自身が今どこにいるのか。
不安は募るばかりだが、立ち止まっている時間はない。
203号室が「身体部位の集積所」であるならば、そこには運び込むためのルートが存在するはずだ。
内部(廊下側)からの侵入が困難であるならば、外部(窓側)からのルートが疑われる。
私は、アパート「メゾン・クレマチス」の裏手に位置する民家に目を付けた。
203号室の窓は、裏の住宅街に面している。
もし、窓から何者かが出入りしているのであれば、裏の家の住人が目撃している可能性がある。
私は、アパートの真裏に建つ古い一軒家の住人、K氏(70代・男性)への接触を試みた。
彼は定年退職後、自宅の庭で家庭菜園を営んでおり、日中から夜間にかけて自宅にいることが多いという。
当初、取材は難航するかと思われたが、私が「アパートの騒音問題について調べている」と告げると、彼は重い口を開いてくれた。
***
【取材記録:2023年5月20日】
場所:東京都杉並区 K氏宅の庭先
対象者:K氏(72歳・無職)
記録者:三國
(以下、録音データの書き起こし)
三國:
お庭の手入れ中にお邪魔してすみません。
立派な茄子ですね。
K氏:
ああ。今年は日照りがいいからな。
……で、あんた、あのアパートのことを聞きに来たんだって?
三國:
はい。「メゾン・クレマチス」についてです。
特に、裏手に面している2階の部屋……203号室周辺で、変わったことはないかと思いまして。
夜中に大きな物音がするとか、不審な人物を見かけたとか。
K氏:
(剪定ばさみを置いて、手をタオルで拭いながら)
音なら、しょっちゅうだよ。
今の若いのは夜行性なのか知らんが、夜中の2時、3時になってもガタガタと騒がしい。
だがな、あんたが聞きたいのは、そういう「普通の騒音」じゃないんだろう?
三國:
……お察しの通りです。
実は、あのアパートの住人が奇妙な体験をして失踪しまして。
私はその行方を探っているライターです。
K氏:
失踪、か。
まあ、そうだろうな。あそこに入った奴は、みんな最後はどこかへ消えちまう。
引っ越していく後ろ姿を見たことがないんだ。いつの間にかいなくなってる。
三國:
Kさんは、この家に長くお住まいなんですか?
K氏:
生まれた時からだよ。もう70年になる。
あのアパートが建つ前、あそこが何だったか知ってるか?
三國:
以前取材した方からは、「捨て場」だったという噂を聞きました。
K氏:
「捨て場」か。まあ、当たらずとも遠からずだな。
あそこには昔、小さな社(やしろ)と、溜池があったんだ。
ただの池じゃない。防火用水として使われてたんだが、水が淀んでてな。
近所の連中は「くぐり池」って呼んでた。
病気になった家畜や、流行り病で死んだ身寄りのない人間の着物なんかを、その池に沈める風習があったんだよ。
昭和の高度経済成長期に埋め立てられて、あのアパートが建った。
工事の時も、作業員が大怪我したりして大変だったそうだがね。
三國:
やはり、土地自体に因縁があるんですね。
では、現在のアパートについて伺います。
Kさんの家から、203号室の窓はよく見えますよね?
K氏:
ああ、丸見えだ。
俺の寝室が2階にあるんだが、ちょうどあそこの窓と同じ高さでな。
直線距離で5メートルも離れてない。
だから、見たくなくても見えちまうんだよ。
三國:
何が、見えるんですか?
K氏:
「訪問者」だよ。
三國:
訪問者?
K氏:
月に何度か、決まって雨の降る夜だ。
湿気が多くて、月が出ていない暗い晩に、そいつはやってくる。
最初は猫かと思ったんだ。
アパートの外壁にある雨樋(あまどい)を、スルスルと登っていく黒い影が見えたからな。
でも、猫にしてはデカすぎる。
人間くらいの大きさがあるんだ。
三國:
人間が、雨樋を登っているんですか?
泥棒でしょうか。
K氏:
俺も最初はそう思って、警察に通報しようとした。
でも、動きがおかしいんだ。
人間なら、手足を使って登るだろう?
そいつはな、なんていうか……張り付いてるんだよ。
腹ばいになって、壁にピタリと密着して、尺取り虫みたいにウネウネと這い上がっていく。
手足の関節が、ありえない方向に曲がってるのが分かる。
三國:
……それは、異様な光景ですね。
その影は、どこへ向かうんですか?
K氏:
決まってる。203号室だ。
あそこの雨戸、いつも閉まってるだろう?
でもな、そいつが来ると、雨戸がひとりでに「スッ」と開くんだ。
まるで自動ドアみたいにな。
そいつは、音もなく開いた隙間から、部屋の中へ入っていく。
三國:
中に入って、何をしているんでしょうか。
K氏:
さあな。中は見えん。
ただ、そいつが入ってから1時間くらいすると、また出てくるんだ。
入る時は手ぶらなんだが、出てくる時は、必ず「何か」を持ってる。
三國:
何か、とは?
K氏:
袋だよ。
麻袋みたいな、茶色いズタ袋を背負ってる。
その袋がな、時々動くんだ。
中に入ってるものが、暴れてるみたいにな。
大きさからして、人間まるごとは入らん。
精々、スイカ一玉か、あるいは……猫一匹くらいの大きさだ。
三國:
(背筋が凍る思いがした。S田氏の左耳、そしてA子氏が見たという片足だけの足跡。袋の中身は、収集された「パーツ」なのだろうか)
その「訪問者」の姿、もう少し詳しく描写できますか?
顔とか、服装とか。
K氏:
服装なんて上等なもんじゃない。
泥だらけの、ボロボロの布を巻き付けてるだけだ。
顔は……見ないほうがいい。
俺も一度だけ、双眼鏡で覗いちまったことがあるんだが、後悔したよ。
三國:
どんな顔でしたか?
K氏:
……顔じゃなかった。
あれは、「寄せ集め」だ。
目、鼻、口。それぞれのパーツの大きさがバラバラなんだ。
大人の目と、子供の口と、老人の鼻が、無理やり一つの顔面にくっつけられてる。
福笑いみたいにな。
しかも、それが動くんだ。
目がギョロギョロと勝手に動いて、口がパクパクと開閉して。
あれはこの世のものじゃない。
あるいは、かつてこの土地に捨てられた無念たちが凝縮して、一つの形を成した「怪物」なのかもしれん。
三國:
……。
最近、その訪問者を見かけましたか?
K氏:
ああ、見たよ。
一週間くらい前かな。ちょうど、あのアパートの2階にパトカーが来た騒ぎがあった日だ。
三國:
(S田氏が警察を呼んだ日のことだろうか、いや、A子氏の時の話か? いや、時系列からすると、S田氏が部屋を飛び出した日と一致する)
その時、訪問者は何をしていましたか?
K氏:
いつもより大きな袋を持ってたな。
それに、出てくる時に、ひどく嬉しそうだった。
口――顔についてるいくつかの口のうちの一つが、ニタニタと笑ってたんだ。
そして、壁を降りる時に、俺の家のほうをチラッと見た。
俺は慌ててカーテンを閉めたが、目が合ったかもしれん。
それ以来、俺も体調が悪いんだ。
ほら、ここを見てくれ。
(K氏は自分の首元を指差した。襟をめくると、喉仏のあたりに、赤紫色のあざのようなものが見える)
三國:
これは……手形ですか?
K氏:
小さい子供の手形に見えるだろう?
毎晩、寝てる間に少しずつ締め付けられてる気がするんだ。
昨日は息苦しくて目が覚めた。
三國さん、あんたも深入りしないほうがいい。
あいつらは、見ている人間に気づく。
「観察者」もまた、「参加者」としてカウントされるんだよ。
三國:
……肝に銘じます。
Kさん、一つお願いがあります。
もし可能であれば、今夜、Kさんのお宅の2階から、203号室を監視させてもらえませんか?
今日は雨の予報が出ています。条件が揃うかもしれません。
K氏:
……あんた、死にたいのか?
三國:
真実を知りたいんです。
それに、私自身、すでに「参加者」にされてしまっているようなので。
(私は充血した右目を見せた)
K氏:
(私の目を見て、息を呑む)
……なるほどな。もうマーキングされてるってわけか。
いいだろう。どうせ俺も、そろそろお迎えが近い気がしてたところだ。
付き合ってやるよ。ただ、何があっても窓は開けるなよ。
ガラス一枚隔てていれば、あっちの世界には引きずり込まれん……はずだ。
***
【現地調査記録:2023年5月20日 深夜】
場所:K氏宅 2階寝室
時刻:23:45 〜
K氏の厚意により、私は彼の家の2階、アパートに面した部屋に待機させてもらうことになった。
部屋の電気を消し、カーテンの隙間から、雨に煙る「メゾン・クレマチス」を監視する。
外は予報通りの冷たい雨が降っており、視界は悪い。
雨音が周囲の雑音を消し去り、世界が孤立したような錯覚に陥る。
アパートの裏手は真っ暗だ。
203号室の雨戸は固く閉ざされている。
時折、風が吹いて木々が揺れる影が、生き物のように動く。
K氏は隣の椅子に座り、お茶をすすりながら沈黙を守っている。
彼の手元には、数珠が握られていた。
日付が変わって、午前1時30分。
変化は唐突に訪れた。
「……来たぞ」
K氏が短く呟いた。
私はカメラのファインダーを覗き込んだ。
高感度モードにした液晶画面の中に、アパートの外壁が映し出される。
最初は何も見えなかった。
だが、目を凝らすと、地面近くの闇が、もっと濃い闇となって分離したのが分かった。
黒い塊だ。
K氏の言う通り、人間大の大きさがある。
それが、垂直な壁に吸い付くようにして、ゆっくりと這い上がり始めた。
「ズズッ……ズズッ……」
雨音に混じって、濡れた布を引きずるような音が微かに聞こえる。
それは、重力という概念を無視した動きだった。
四肢を使っているようだが、関節の動きがぎこちなく、まるで操り人形が糸で吊り上げられているようだ。
カメラのズームレンズを最大にする。
心臓の鼓動が早くなる。手が震えて、映像がブレる。
その「訪問者」は、203号室の窓の下まで到達すると、ピタリと動きを止めた。
そして、頭部と思われる部分を、窓のほうへ向けた。
その頭部は、K氏の描写以上に異様だった。
包帯のような白い布が乱雑に巻かれているが、その隙間から、濡れた肉のようなものが露出している。
そして、そこには確かに「目」があった。
一つではない。三つ、あるいは四つの目が、不規則に配置されている。
次の瞬間。
閉ざされていたはずの雨戸が、音もなく横にスライドした。
内側から誰かが開けたのか、それとも外からの力で開いたのかは分からない。
障子も開き、暗闇の開口部が姿を現した。
訪問者は、ぬるりとその中へ滑り込んでいった。
まるで、蛇が穴に帰るように。
「入ったな」
K氏が震える声で言った。
「これからが本番だ。中で『選別』が行われる」
選別。
運び込んだパーツを分類しているのか、それとも新たなパーツを注文しているのか。
私はカメラを回し続けた。
時間は永遠のように長く感じられた。
30分ほど経った頃だろうか。
203号室の中から、微かな光が漏れ出した。
電灯の光ではない。もっと青白く、頼りない光だ。人魂のような燐光。
その光の中で、影が動いているのが見えた。
二つの影がある。
一つは、先ほどの訪問者。
もう一つは……人の形をしているが、小さい。
子供か、あるいは小柄な女性か。
もしかすると、大家の内海氏だろうか?
二つの影は、何かを受け渡ししているように見えた。
訪問者が差し出した袋を、小さい影が受け取る。
そして、小さい影は別の何か――棒状のものを、訪問者に手渡した。
「取引だ」
K氏が呟く。「あいつらは、こうして足りない部分を交換し合ってるんだ」
取引が終わると、訪問者は再び窓枠に手を掛けた。
帰るのだ。
今度は、背中に新しい袋を背負っている。
入る時よりも、袋が大きく膨らんでいるように見えた。
訪問者が外壁にへばりつき、降りようとしたその時。
私の右目に、激痛が走った。
「ぐっ……!」
思わず声を漏らし、右目を手で押さえる。
焼けるようだ。眼球の裏側から、何かが突き刺さってくるような痛み。
「おい、大丈夫か!」
K氏が私の肩を掴む。
その声に反応したのか、それとも私の痛みが「信号」となったのか。
壁を降りかけていた訪問者が、ピタリと止まった。
そして、ゆっくりと首を回し始めた。
180度。ありえない角度まで首が回転し、その顔面が、真っ直ぐにこちらを向いた。
カメラ越しに、目が合った。
不規則に配置された複数の目のうち、中心にある最も大きな目が、カッと見開かれた。
その目は、充血していた。
私の右目と、同じように。
『み つ け た』
声が聞こえたわけではない。
脳内に、文字情報として直接叩き込まれたような感覚だった。
訪問者が、壁を蹴った。
降りるのではない。
こちらへ。
この家へ向かって、飛んだのだ。
「伏せろ!!」
K氏が叫び、私を床に突き飛ばした。
「ドンッ!!」
という激しい衝撃音がして、窓ガラスがビリビリと振動した。
何かが、窓の外に張り付いたのだ。
「開けるなよ! 絶対に見るな!」
K氏は数珠を握りしめ、必死にお経を唱え始めた。
窓の外から、ガラスを爪で引っかくような音が響く。
『キギギギギ、キギギギギ……』
そして、濡れた掌でガラスを叩く音。
『ペタ、ペタ、ペタ……』
「あけて。あけて。あけて」
今度ははっきりと声が聞こえた。
男女の声が重なったような、不協和音の声。
「私の目。返して。右目。そこにあるんでしょう?」
私は恐怖で動けなかった。
右目の痛みは最高潮に達し、視界が赤く染まっている。
涙が止まらない。いや、これは涙ではない。
目尻から、血が流れているのが分かった。
窓ガラスの向こうに、あの顔が張り付いているのが分かる。
カーテン越しに、黒いシルエットが蠢いている。
ガラスが、ミシミシと悲鳴を上げている。割れるのは時間の問題だ。
その時だった。
遠くから、サイレンの音が聞こえてきた。
パトカーか、救急車か。
その音が近づくにつれて、窓の外の気配が、ふっと緩んだ。
「……ちっ」
舌打ちのような音が聞こえ、窓から重みが消えた。
ドサリ、と地面に着地する音。
そして、ズルズルと何かを引きずりながら、遠ざかっていく気配。
私たちは、しばらく床に伏せたまま動けなかった。
サイレンの音は通り過ぎていったが、あの訪問者が戻ってくる気配はなかった。
***
【事後報告】
翌朝、K氏の家の窓ガラスを確認すると、外側にびっしりと手形がついていた。
泥と、何かの粘液が混ざったような、生臭い手形だ。
そして、窓の下の地面に、古びた木片が落ちていた。
それは、長さ15センチほどの木の札で、泥にまみれていたが、墨で書かれた文字が辛うじて読めた。
『受領証: 右眼球(予約)』
『納品者: 三國』
私は震える手でそれを拾い上げた。
これは、昨夜の訪問者が落としていったものではない。
訪問者が持っていたのは「受領証」だ。
つまり、私の右目は、すでに「納品済み」として処理されているということか?
それとも、これから徴収に来るという意思表示なのか?
K氏は、青ざめた顔で私に言った。
「三國さん、あんたはもう、こっち側の人間じゃないかもしれん。
昨日の夜、あんたの右目がどうなってたか、自分で見たか?」
「いえ……」
「光ってたんだよ。あの訪問者の目と同じように、ぼんやりと赤く。
あんた自身が、あいつらを呼び寄せるビーコンになっちまってるんだ」
私は自宅に戻り、恐る恐る鏡を見た。
右目の充血は引いていた。
だが、瞳孔の奥に、小さな文字のようなものが浮かんでいるのが見えた。
虫が這っているようにも見えるその影は、瞬きをしても消えない。
そして、私のスマホに、一件のメールが届いていた。
差出人は不明。
件名はなく、本文にはURLが一つだけ貼られていた。
リンク先を開くと、それは音声ファイルだった。
再生ボタンを押す。
ノイズ交じりの音の中に、懐かしい、しかし変わり果てた声が聞こえた。
『……三國さん、聞こえますか?
僕です、S田です。
助けてください。
ここ、暗いんです。
狭いんです。
壁の中に、埋まってるんです。
僕の左耳が、壁と一体化して、みんなの声を拾い続けてるんです。
三國さんの右目も、もうすぐここに来るって、みんなが言ってます。
早く……早く逃げて……』
(音声はそこで途切れ、激しいノイズに変わった)
S田氏は生きている。
しかし、「壁の中に埋まっている」とはどういうことか?
彼はどこにいるのか?
アパートの203号室か? それとも、別の場所か?
事態は「観察」のフェーズを終えた。
これより先は、「奪還」あるいは「生存」のための戦いとなる。
私は、S田氏を救い出し、自らの右目を守るために、再びあのアパートへ乗り込む決意を固めた。
だがその前に、確認しなければならないことがある。
S田氏のメッセージにあった「壁の中」という言葉。
これが物理的な壁を指すのか、それとも比喩なのか。
それを解明する鍵は、この土地の歴史に詳しい専門家にあるかもしれない。
(File_04 終了)
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