第3話:File_03 元住人・A子氏の証言「ルールについて」

【まえがき】


2023年5月14日、私が203号室の異様な内部を目撃した直後、依頼人であるS田氏から留守番電話が入っていたことは前回の記録で述べた通りだ。

203号室の床に散乱していた紙片には、『S田 左耳 済』という不可解な記述があった。

その記述が何を意味するのか。S田氏が残したメッセージは、私の最悪の予想を裏付けるものだった。


まず、本章に入る前に、その留守番電話の書き起こしを提示しておく必要がある。

これは、彼が「あちら側」の論理に侵食され始めた、最初の記録かもしれない。


***


【受信音声データ:2023年5月14日 16:32】

発信者:S田氏

受信者:三國(留守番電話)


(再生開始)


「……あ、三國さん。S田です。

今、着信に気づきました。ごめんなさい、ちょっと出るのが怖くて。

あの、報告しておこうと思って。

静かになったんです。すごく。

友達の家にいるんですけど、さっきまで耳鳴りがすごかったのに、急にピタッて止んで。

で、気づいたんです。

左耳が、聞こえないんです。

いや、難聴とかそういう感じじゃないんです。

音は聞こえないんですけど、『そこにある感覚』がないというか。

触ってみたら、耳はあるんです。肉はあるんです。

でも、中身が……空洞みたいにスースーするんです。

これ、持っていかれたんですよね?

『済』になったんですよね?

あはは。まあ、うるさいのが聞こえなくなったから、いいのかな。

次は右目だって言ってましたっけ。

三國さん、気をつけてくださいね。

まだ、保留中みたいですから」


(再生終了)


***


このメッセージを聞いた後、私はS田氏に何度もコールバックしたが、彼は電話に出なかった。

彼が避難しているという友人の連絡先も聞いていなかったことが悔やまれる。

S田氏の現状を確認する術がない今、私ができることは調査を続け、この現象の根本的な原因を突き止めることだけだった。


私は視点を変えることにした。

現在の関係者(管理会社、大家、S田氏)からの情報は出尽くした感がある。

ならば、過去を知る人間に接触するしかない。

管理会社から聞き出した「203号室の入居者は頻繁に入れ替わる」という事実。

そして、S田氏以外の部屋の住人も、短期間で退去している可能性が高い。


私はSNSや地域掲示板、事故物件公示サイトなどを駆使し、「杉並区」「メゾン・クレマチス」「奇妙な音」といったキーワードで検索をかけた。

数時間の作業の末、ある個人のブログにたどり着いた。

2年前の投稿で、すでに更新は止まっているが、そこにはこう書かれていた。


『高円寺のあのアパート、やっぱりおかしい。大家に言われたルールの意味が、今になって分かった気がする』


私はブログの管理者にコンタクトを取り、ライターであることを明かして取材を申し込んだ。

幸運なことに、彼女――ここではA子氏とする――は、現在も都内に住んでおり、「匿名なら」という条件でインタビューに応じてくれた。


***


【取材記録:2023年5月17日】

場所:東京都新宿区 喫茶店「R」

対象者:A子氏(25歳・会社員)

記録者:三國


(以下、録音データの書き起こし)


三國:

本日は急な依頼にもかかわらず、ありがとうございます。

ブログを拝見して連絡させていただきました。

A子さんが「メゾン・クレマチス」にお住まいだったのは、いつ頃ですか?


A子:

2年前です。大学を卒業して、就職したての頃ですね。

お金がなくて、とにかく安いところを探していて。

私は102号室に住んでいました。


三國:

102号室……現在は中年女性が住んでいる部屋ですね。

S田さんに「鏡を隠せ」と忠告した方です。


A子:

ああ、やっぱり今の住人の方も気づいているんですね。

私も、引っ越してすぐに大家さんから言われましたから。


三國:

大家の内海さんですね。

彼女から、具体的にどのようなことを言われたのですか?

ブログには「ルール」と書かれていましたが。


A子:

はい。契約の時には不動産屋からは何も言われなかったんです。

でも、引っ越しの挨拶に行ったら、大家さんに玄関先で引き止められて。

一枚の紙を渡されたんです。

手書きの、コピー用紙の裏みたいな紙でした。

「このアパートで暮らすための約束事」って書いてあって。


三國:

その紙、今もお持ちですか?


A子:

いえ、退去する時に燃やしました。

持っていると、また呼ばれる気がして。

でも、内容は覚えてます。異様すぎて忘れられませんから。


三國:

覚えている範囲で教えていただけますか。


A子:

全部で5つありました。

1つ目は、『夜中の2時から4時の間は、決してインターホンに出ないこと』。

2つ目は、『部屋の中に、203号室の方向に向けて鏡を置かないこと』。

3つ目は、『月に一度、指定された日に塩と酒を玄関に撒くこと』。

4つ目は、『廊下で何かを数える声が聞こえても、絶対に訂正しないこと』。


三國:

……訂正しないこと。


A子:

はい。例えば「ひとつ、ふたつ、よっつ」って聞こえても、「みっつだよ」って思ったり口に出したりしちゃダメだって。

心の中でツッコミを入れるのも危険らしいです。

ただ聞き流せ、と。


三國:

なるほど。そして、5つ目は?


A子:

5つ目が一番意味が分からなかったんです。

『身体の一部に違和感を覚えたら、すぐに報告すること。ただし、病院には行くな』

って。


三國:

……身体の一部。

それは、S田氏の件と符合しますね。

A子さんは、実際に住んでいて何か「現象」に遭遇しましたか?


A子:

最初の半年は、何もありませんでした。

ただ、2階の足音がうるさいな、と思うくらいで。

私の部屋、102号室の真上は202号室ですよね?

当時も学生さんが住んでたんですけど、その隣の203号室から、よく物音がしてたんです。


三國:

203号室。やはりあそこが震源地なんですね。


A子:

はい。当時は誰も住んでいないはずなのに、夜中になると「ゴトゴト」って重いものを動かす音がして。

あと、水が流れる音。

あのアパート、お風呂がないじゃないですか。

203号室にも当然、給排水設備なんて台所とトイレくらいしかないはずなのに、まるで大量の水をバケツで流すような、「ジャバーッ、ジャバーッ」って音が天井から聞こえてくるんです。


三國:

水音、ですか。それは初耳です。

大家さんに相談は?


A子:

しました。

「上の空き部屋から水漏れしそうな音がする」って。

そしたら大家さん、顔色を変えて飛んできて。

私の部屋の天井を棒で突っつきながら、お経みたいなのを唱え始めたんです。

それで、「ああ、今夜は『洗い』の日だから、お前は外に泊まりなさい」って。

ホテル代として1万円渡されました。


三國:

「洗い」の日。

何・を・洗っているんでしょうね。


A子:

……想像したくもありません。

でも、決定的なことが起きたのは、その数ヶ月後です。

私が退去を決めたきっかけになった出来事です。


三國:

何があったんですか?


A子:

ある晩、残業で帰りが遅くなって、深夜2時過ぎに帰宅したんです。

アパートの前の路地に入った時、2階の廊下に人影が見えました。

街灯が薄暗いのでよく見えなかったんですが、白い服を着た人が、203号室の前に立っていたんです。

最初は泥棒かと思ったんですけど、様子がおかしくて。


三國:

どんな様子でしたか?


A子:

壁に向かって、お辞儀をしてるんです。

何度も、何度も。

頭を壁に打ち付けるくらいの勢いで。

「ガツン、ガツン」って音が、外の道路まで聞こえてきました。


怖くてアパートに入りづらくて、電柱の陰から見てたんです。

そしたら、その人がふと動きを止めて、振り返ったんです。

距離があったので顔までははっきり見えませんでしたが、私、見てしまったんです。

その人の顔、のっぺらぼうに見えたんです。

目も鼻も口もなくて、ただ白いつるんとした肌があるだけで。


三國:

顔がなかった、と。


A子:

いえ、逆かもしれません。

顔がないんじゃなくて、顔が「埋まってた」のかも。

白い包帯みたいなもので、ぐるぐる巻きにされてたようにも見えました。

その「何か」が、203号室のドアを、鍵も使わずにスッと開けて中に入っていったんです。


三國:

……鍵を使わずに。

私が確認した時も、鍵は開いていました。


A子:

中に入った瞬間、アパート全体が「ミシッ」って揺れた気がしました。

それと同時に、私のスマホが鳴ったんです。

通知を見たら、知らない番号からのSMSでした。

メッセージの内容は一言だけ。


『見ただろう』


三國:

……。

それで、どうされたんですか?


A子:

悲鳴を上げて、そのまま駅前の交番に駆け込みました。

お巡りさんと一緒にアパートに戻って確認してもらったんですが、203号室は鍵がかかっていて、中には誰もいませんでした。

でも、お巡りさんが「妙だな」って言ったんです。

ドアの前に、泥がついた足跡があったんです。

その足跡、片足だけだったんです。

左足の跡だけが、ペタ、ペタ、ペタって、階段から203号室まで続いていて、そこで消えていました。


三國:

片足だけの足跡。

それは「右足」が欠損している存在、ということでしょうか。


A子:

分かりません。でも、私、それで限界が来て、次の日には引っ越しの手続きをしました。

違約金も払いましたけど、命には代えられないと思って。


三國:

賢明な判断だと思います。

引っ越した後、何か変わったことはありませんでしたか?

体調の変化とか。


A子:

(少し躊躇してから、左手の袖をまくり上げる)

これ、見えますか?


三國:

……これは。

火傷の痕、ですか?


A子:

いえ、アザです。

引っ越した翌日に、左手の小指の付け根にできたんです。

最初は小さかったんですけど、だんだん形が変わってきて。

これ、文字に見えませんか?


三國:

(A子氏の手首にある赤黒いシミを凝視する)

……『済』?

あるいは、『切』でしょうか。

漢字のようにも見えますが、崩れていて判読が難しいですね。


A子:

私には『予』に見えるんです。予約の予。

あのアパートにいた時、私は何かを「予約」されちゃったんじゃないかって。

時々、このアザが熱を持つんです。

特に、雨の日とか、湿気が多い夜に。

まるで、古傷が痛むみたいに。

三國さん、あそこはただの事故物件じゃありません。

もっと古くて、根深い「システム」みたいなものが動いている場所です。

大家さんはそれを知っていて、管理人というよりは、看守か、あるいは巫女みたいに振る舞っている。


三國:

看守、あるいは巫女。

言い得て妙ですね。

彼女は「通り道を塞いでいる」と言っていました。


A子:

通り道……。

そういえば、近所の古本屋のおじいさんが言ってた噂があります。

あのアパートが建つ前、あそこには何があったか。


三國:

何があったんですか?


A子:

『捨て場』だったそうです。

戦後のドサクサとかじゃなくて、もっと昔。

江戸時代とか、そういうレベルの。

身体の一部を欠損した人や、流行り病で亡くなった人を、一時的に安置……というか、放置しておく場所。

ちゃんと埋葬する前に、「穢れ」を抜くために置いておく小屋があった場所だと。


三國:

なるほど。

欠損した部位を補うために、新しい入居者から「徴収」しているのかもしれませんね。

S田氏は耳を、そして次のターゲットは……。


A子:

……三國さん、後ろ。


三國:

え?


A子:

(顔面蒼白になり、私の背後の窓ガラスを指差す)

今、窓の外に、誰かいました。


三國:

(急いで振り返るが、そこには往来を行き交う人々が見えるだけだった)

誰もいませんよ? ここは2階ですし。


A子:

いいえ、いました。

白い包帯を顔に巻いた人が、窓に張り付いて、こっちを見てました。

片目が……右目だけが、包帯の隙間から見えていて。

その目が、三國さんをじっと見てました。


三國:

……私を。


(A子氏はガタガタと震え出し、これ以上の取材は不可能と判断した。私は彼女をタクシーに乗せて帰宅させた)


***


【資料分析:203号室の「役割」に関する仮説】


A子氏の証言、およびS田氏の被害状況から、一つの仮説が導き出される。

「メゾン・クレマチス」203号室は、単なる幽霊屋敷ではない。

そこは、過去の因縁に基づき、人間の身体部位を収集するための「集積所」として機能しているのではないか。


歴史的背景:かつて遺体安置所、あるいは「捨て場」であった土地。そこに漂う「欠損した霊魂」たちが、完全な身体を取り戻そうとしている。


構造的欠陥:203号室は、その霊的な通り道(ポータル)の上に意図的に作られた「蓋」である。大家の内海氏は、その蓋が外れないように監視する役割を担っている。


ルールの意味:


鏡禁止 → 鏡は霊道の入り口となるため、203号室と繋がってしまうのを防ぐため。


塩と酒 → 穢れを清める、あるいは鎮めるための供物。


訂正しないこと → 彼らの「数合わせ」に干渉すると、ターゲットにされるため。


しかし、この仮説には一つだけ矛盾がある。

大家が「蓋」を守る守護者だとするなら、なぜ管理会社を通じて入居者を入れ続けるのか?

A子氏の話では「大家は入れたがらない」とのことだったが、本当に止める気があれば、アパートごと取り壊すなり、203号室をコンクリートで埋めるなりできたはずだ。

それをせず、あえて「部屋」の形を残し、電気を通し(異常な回転をするメーター)、定期的に「洗い」を行っている。


もしかすると、大家の役割は「封印」ではないのかもしれない。

彼女は、あの場所で定期的に生きた人間を住まわせ、少しずつ「パーツ」を提供させることで、あそこにいる「何か」を飼い慣らしているのではないか?

入居者は、家賃を払う客ではなく、生贄(パーツの提供者)として招き入れられているのだとしたら。


そして、S田氏の左耳はすでに「納品」された。

次に指名されているのは、203号室の扉を開け、内部を覗いてしまった私の「右目」。


私は無意識に自分の右目をこすった。

痒みを感じたからだ。

鏡を見ると、右目の白目の部分が、不自然に充血していた。

血管が浮き出ているのではない。

まるで、赤い文字が書かれているかのように、毛細血管が複雑なパターンを描いている。


『保』

『留』


鏡の中の私の目が、そう主張しているように見えた。


時刻は深夜1時。

203号室から「何か」がやってくる時間帯が近づいている。

私は部屋の鏡を全て伏せ、耳栓をして、パソコンに向かい続けた。

だが、耳栓をしていても、頭の中に直接響いてくるような音がする。


『ひとつ……ふたつ……たりない……』


私は、この音を訂正してはいけない。

ただ、記録するだけだ。


(File_03 終了)


【補足:File_03で判明した事実と新たな謎】

・S田氏は左耳の聴覚(または存在感)を喪失した。

・過去の住人A子氏も、「ルール」と怪異を体験していた。

・203号室の正体は、かつての「捨て場」の上に作られた集積所である可能性。

・大家の役割は封印ではなく、「管理・供給」である疑い。

・取材者である私の身体にも、物理的な影響(右目の充血)が出始めている。


次回、File_04にて、アパートの近隣住民への聞き込みを行う。

そこで、アパートの「外側」から見た、さらに恐ろしい光景が明らかになる。

深夜、203号室の窓に出入りする「モノ」の正体とは。

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