檸檬の住処(ありか)
大将
檸檬の住処(ありか)
空を見上げると、分厚い雲が太陽を覆っていた。
曇天。今にも雲が落ちてきそうで、不安すら覚えてしまう。
駅前のベンチに腰を下ろし、僕はポケットの中の檸檬を握りしめた。
冷たく硬く、そしてどこか懐かしい感触。
この果実を持ち歩くようになったのは、ある日ふとしたきっかけからだった。
あれは、三ヶ月前のこと。
仕事で大きなミスをして、上司に怒鳴られた。取引先にも頭を下げ続けた帰り道。
心がすり減って、何もかもが灰色に見えた。
ふらりと入ったスーパーで、果物売り場の一角に山積みになった檸檬が目に入った。
その鮮やかな黄色が、やけに目に刺さった。
気づけば、ひとつ手に取っていた。
買うつもりもなかったのに、レジに並んでいた。
家に帰って、檸檬を半分に切り、紅茶に浮かべてみた。
香りが立ち上り、酸味が鼻をくすぐる。
ひと口飲むと、胸の奥に溜まっていた何かが、すっとほどけていく気がした。
それ以来、僕は毎日檸檬を持ち歩くようになった。
お守りのように。
気持ちが沈んだ時そっと香りを嗅ぐと、少しだけ前を向ける気がした。
今日も、いつものように本屋に寄った。
文芸書コーナーの棚に、檸檬を題材にした古い短編が並んでいる。
高校時代、国語の先生が「この作品は香りで読むんだ!」と熱く語っていたのを思い出す。
「それ、好きなんですか?」
ふいに声をかけられて振り返ると、同い年くらいの女性が立っていた。
黒髪を後ろでまとめ、白いシャツにジーンズ。
どこか懐かしい雰囲気をまとっていた。
「ええ、なんとなく。檸檬が好きで」
「私もです。あの香り、いいですよね。なんかこう……世界がリセットされる感じがして」
彼女はそう言って、微笑んだ。
名前は沙耶。
近くのカフェで働いていて、休憩中に本を探しに来たらしい。
それから、僕たちは時々会うようになった。
丸善で、カフェで、駅前のベンチで。
特に約束をするわけでもなく、偶然のように、でも自然に。
「私ね、誕生日に檸檬を貰った事があるの」
沙耶がぽつりと呟いた。
「え、誰から?」
「高校のときの友達。『お前って檸檬っぽいよな』って言われて。酸っぱくて、明るくて、ちょっと刺さるって」
「それ、褒めてるのかな……?」
「さあ? でも、なんか嬉しかった。それから檸檬を見ると、自分らしくいようって思えるようになったの」
それからしばらくして、沙耶が僕に言った。
「ねえ。今度の私の誕生日、檸檬くれる?」
「え?」
「だってあなたのポケット、いつも檸檬の形してるから。きっと、特別な檸檬を選んでくれる気がするの」
僕は笑って頷いた。
「わかった。じゃあ、最高の檸檬を探しておくよ」
そして今日。
彼女の誕生日。
僕は朝から、いくつかの八百屋を巡って、ようやく見つけた。
小ぶりで形がよく、皮に艶があって、香りが強い。
まるで、彼女の笑顔みたいな檸檬だった。
駅前のベンチで待っていると、沙耶がやってきた。
「お待たせ。……わ、曇ってるね」
「うん。でもほら」
僕はポケットから檸檬を取り出し、彼女に手渡した。
「誕生日おめでとう。これは君のために選んだ檸檬。酸っぱくて、明るくて、ちょっと刺さるやつ」
沙耶は目を丸くして、それからふわりと笑った。
「ありがとう。……すごく嬉しい」
彼女は檸檬を両手で包み、そっと鼻に近づけた。
「うん、いい香り。なんか、今日からまた頑張れそう」
その言葉に、僕の胸の奥も少しだけ温かくなった。
───
あとがき
この物語のテーマは、「再出発」と「自分らしさ」です。
誰かとの出会いやふとした香りが、いつの間にか自分を少しだけ前に進めてくれることがある。
そんな瞬間を、檸檬というモチーフに託して描いてみました。
誕生日という節目に、ささやかな物語を贈ります。
これからの一年が穏やかで、あなたらしい時間に満ちたものになりますように。
檸檬の住処(ありか) 大将 @suruku
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