第3話 血紅の女王とタコの記憶について 

 カルネラの深紅の触手が部屋全体を血の海のように染め上げていた。


 だが、なぜか俺を触手で直接捕らえようとはしない。


 ぱす絵は俺の背後にぴったりと張りつき、八本の紫の触手を盾のように広げて守ろうとするが、明らかに力の差は歴然だった。


 吸盤同士が空気中でぴちゃぴちゃと音を立て、緊張が伝わってくる。


「姉様……どうして私をこんなに憎むの? 王位継承争いなんて昔から決まってる順番があるのに。なぜ私を殺そうとするの?」 


 ぱす絵の声がわずかに震えていた。ヤンデレっぽい強気はどこへやら、ただの妹の不安がにじみ出ている。 


 カルネラはゆっくりと近づき、深紅の髪を波打たせながら、冷たく美しい笑みを浮かべた。瞳は血の色で、俺を見つめるだけで背筋が凍る。


「順番? そんなもの、ヴァレリアの歴史にあったかしら。可愛い末妹、あなただけが特別なのよ。人間界に自由に行けて、完全に人間の姿になれる……私たち上位の姉妹は、そんな贅沢は許されない。触手が多すぎて、擬態が不完全で人間に近づけない」   


 その言葉の端に憎しみだけでなく、深い羨ましさと諦めが混じっていることに俺は気づいた。


 カルネラの触手の動きは、俺に対しては攻撃的というより防御的だ。俺に一切触れようとしないし、一本一本が縮こまるように内側に巻き、まるで自分を守っているみたいだった。 


 ぱす絵が俺の耳元で小声で囁いた。


「里根くん……姉様、なんかいつもと違う。触手が震えてる……里根くんのタコ知識で何か分からない?」 


 俺はカルネラの様子を観察しながら、ぱす絵に答えた。


「タコの記憶力って、実はめちゃくちゃスゴイんだ。短期記憶も長期記憶も発達してて、ラボの実験じゃ何年も前の餌場を覚えてたり、特定の研究者を認識して反応変えたりする。トラウマになるような強烈な経験は神経系に深く刻まれる。あんた……なんで俺のことを触手で捕まえないんだ? もしかして、人間が恐いのか? 昔、人間界で何かあったんだろ?」 


 カルネラの体がびくりと大きく震えた。深紅の触手が一瞬で部屋中を埋め尽くし、俺とぱす絵を威嚇するように囲む。だが、その動きに乱れがある。吸盤がぴくぴくと不規則に開閉し、まるで痛みを思い出したように。 


「……人間風情が、何を分かったような口を」 


 声は低く、怒りに満ちていた。でも、ぱす絵がさらに食い下がった。


「姉様、里根くんはタコのことなら何でも知ってるの! もし何かあったなら、教えてよ……私、姉様のこと嫌いじゃないよ?」 


 カルネラはしばらく沈黙した後、ゆっくりと触手を収め、壁に背を預けるように体を沈めた。初めて見せる、女帝らしからぬ弱々しい姿。


「……数百年前よ。私はまだ若くて、人間界に憧れて浅瀬まで上がったの。そしたらそこで、よく日に焼けた若い男の漁師に捕まって……私、初めて人間の男を見たもんだから、かっこいいって見とれてたら、その男に一本の触手を鋭い刃で切られたの。私の初恋だったのに! その痛みと恐怖が今でも鮮明に残ってる。あの時の人間の男の顔、匂い、すべてが……だから、人間を溶かして記憶を奪おうとしても、近づけない。擬態が乱れるのよ」 


 ぱす絵が目を丸くして、俺に振り返った。


「里根くん! これってトラウマ? タコにもトラウマってあるの?」


「もちろんあるぞ。タコは学習能力が高いから、悪い経験はしっかり覚える。ストレスで墨を吐きまくったり、隠れる場所を変えたりする。でも、すごい能力もあるんだ。触手の再生力だ。失った触手は数ヶ月で完全に元通りになる。神経も筋肉も、全部新しく再生する。しかも、記憶の一部は触手の神経節に分散してるから、トラウマの記憶を特定の触手に隔離して……自切すれば、克服できるはずだ。現実のタコはストレスで触手を自切する種もいる。自ら切り離して、新しい触手で新しいスタートを切るんだ」 


 ぱす絵が興奮して触手をぴくぴくさせた。


「えー! そんな方法があるの? 姉様、それやってみたら? 里根くんが言うなら、絶対大丈夫だよ!」 


 カルネラの瞳が揺れた。触手がゆっくりと俺に近づき、ヌルリとした吸盤が頬をそっと撫でる。熱い吐息が耳元にかかる。


「そんな方法が……あるの? でも、怖いわ。記憶を失うなんて、自分じゃなくなるみたいで」 


 俺は優しく答えた。


「失うんじゃない。悪い部分だけ選んで捨てるんだ。タコの知能は柔軟で新しい経験で上書きできる。あんたみたいな強い女帝なら、絶対にできる!」 


 ぱす絵が自分の触手を伸ばして、カルネラの一本に優しく絡めた。紫と深紅が混ざり、部屋に穏やかな渦がゆっくりと巻き起こる。


「姉様、一緒にやってみましょう。私も里根くんもそばにいるから。ね、里根くん?」 


 俺は頷いた。


「ああ。再生した触手は以前より環境に適応した形になることもある。新し触手であんたはもっと強くなれるかもしれないぞ」 


 カルネラは長い沈黙の後、深く息を吐いて頷いた。


「……わかったわ」 


 次の瞬間、彼女は自らの触手の一本を根元から力強く引きちぎった。ドプッという重い水音とともに血のような深紅の液体が飛び散り、部屋全体が大きく震えた。切断面から新しい芽のようなものが、すぐにぷくっと膨らみ始める。再生の兆しだ。 


 カルネラの表情が、徐々に変わっていく。痛みと恐怖の影が消え、瞳に明るさが戻る。


「……痛くない。不思議と、怖くない。記憶が……軽くなった。あなたのこともが怖くなくなった」 


 彼女の姿が変化した。深紅の髪が柔らかく輝き、人間に近い優雅なシルエットになる。吸盤もルビーのように完璧に整列し、圧倒的な威圧感が息を呑むような優美さに変わった。 


 ぱす絵が大喜びで俺に抱きついた。


「里根くん、すごいよ! カルネラ姉様を救っちゃった!」 


 カルネラは微笑みながら、静かに宣言した。


「ありがとう……里根。あなたのおかげで、私、初めて自由になった気がする。王位継承争いはもう終わりよ」 


 

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