クロワッサンと野球拳がしたい

りつりん

クロワッサンと野球拳がしたい

 クロワッサンと野球拳がしたい。

 そう思ったのは今年の春先のことだった。

 そこから初夏にかけて色々考えたけれど、クロワッサンはもしかしたら野球拳がでできないのかもしれない、という結論に達した。

 俺がクロワッサンに対して野球拳をしたいと考えた、いや、感じたのは、クロワッサンも俺と同様にそのような行いをできるからだと脳が認識したせいだと思っている。

 なので、春先から初夏にかけて俺はひたすらにクロワッサンに話しかけた。

 自身の脳の解釈を信じて。

 しかし、それが意味を成さなかったと理解した時には、すでに世界ははるか先へと進んでいた。

 気が付けば、推していたアイドルがMステに初出演を果たしており。

 気が付けば、10年来購読していた雑誌が休刊となっており。

 気が付けば、ストックしていたビールがなくなっていた。

 まるで、俺とクロワッサンだけが取り残されたような感覚に陥ったし、下っ腹は膨らんでいた。

 とりあえず、俺はクロワッサンのことを一旦忘れようと、近所のパン屋に立ち寄った。

 中に入ると、様々なパンの匂いが鼻腔を擽ってくれた。

 少し意地っ張りな固いフランスパンが「ほら、さっさとその軟弱な歯で噛み切りなさいよ」とツンツンしてくれ、純な甘さ際立つアンパンが「ほら、ここ齧ってよ。幸せになろ?」と囁いてくれている。

 そんな多幸感に包まれる中、ふと、とある一角に視線を送る。

 そこには、クロワッサンがあった。

 僕はキュッと唇を嚙みしめる。

 あれほど雄弁に語りかけることのできていたクロワッサンに、今は呼吸すらも向けられない。

 あの時感じた『クロワッサンと野球拳がしたい』という熱い想いは昨日のことのように思い出せる。

 なのに、想いだけが心の中で空回りしているせいで、現実での俺とクロワッサンの間に流れる空気はまるで鋭利な刃物のようにこちらの肌を削いでくる。


 ―――このままじゃいけない


 そう考えた俺は、クロワッサンの意思を汲むことは諦めて、強制的に野球拳を実行することにした。

 彼女に頼み込み、クロワッサンをジャンケンの結果に合わせて剥いてもらうことになった。

 しかし、俺の提案を聞いた彼女は「え? でも、ジャンケンは誰がするの?」と一言。

 盲点だった。

 そうか。

 俺は『野球拳=脱ぐ』というポイントばかりに気を取られていたが、ジャンケン、そして、その勝ち負けという大前提があってこその野球拳。

 彼女にクロワッサンを剥いてもらうことはある種、負けて脱ぐのをためらう人をいたずらに脱がせてしまう友人、という構図で理解できていたのだが、ジャンケンは違う。

 ジャンケンを代理の人にやってもらうなんて、それはもうクロワッサンとの野球拳じゃない。

 俺の絶望を察した彼女はそっとクロワッサンを皿に置き、俺の背中を摩ってくれた。

 俺は情けなさのあまり、泣くしかなかった。

 泣き過ぎたせいか、さすがに寛容な彼女でもちょっと引いていた。

 自分もなんでそんなに泣いたのかはよくわからなかった。

 でも、なんだかんだ泣いたらスッキリしたので、とりあえず彼女にジャンケンとクロワッサン剥きをお願いした。

 難しいことを考えるのはやめよう。

 無理。

 そもそも難しいのかもわかんないことなんか考えても仕方がない。

 人生、ポジティブ、アクティブ。

 とにかく、どんな形でもいいからクロワッサンと野球拳できればいい。

 そう結論に達してから、すぐに近くのパン屋でクロワッサンを買い込んだ。

 意気揚々と。

 それはもう晴れやかな気持ちで。

 踏ん切り着くと気持ちがいいもので、あんなに気になっていたクロワッサンとの空気感も嘘だったかのように何も感じなかった。

 けれど、そこからおかしくなっていった。

 クロワッサンと野球拳をするたびに、クロワッサンの皮を彼女が一枚剥くたびに、何かが心の奥底から舞い上がって来るのだ。

 それが何かは分からない。

 分からないからこそ怖い。

 しかし、俺は止めることができなかった。

 徐々に、脳内に痛みも生じ始めていた。

 なのに、まるで自分がその過去を欲しているかの如く、勝手に手が伸びていく。

 ……過去?

 俺は今、過去と思ったのか?

 瞬間、さらに強烈な痛みが俺を襲う。

「うぐぅ……!」

「ちょっと大丈夫!? 今日はこのくらいにしておく? ていうか、しておこう! なんだか怖いよ……」

 彼女は心配そうに俺の顔を覗き込んでくる。

 彼女の傍のテーブルには、白くなってしまったクロワッサンが丁寧に積み上げられている。

 それを見て、俺はなぜだか無性に悲しくなってしまった。

「ご、ごめん……」

「ううん。気にしないで。ほら、横になって」

 俺は彼女に促されるままにベッドへと横たわる。

 そのまま、痛みから逃れるように目を閉じると、意識は白濁の海へと沈んでいった。



 夢を見た。

 その夢の中で俺は叫んでいた。

 全身が張り裂けそうなほどに強く。

 強く。

 叫んでいた。

『やめろ! やめてくれ! 彼女にだけは手を出さないでくれ! 頼むから彼女だけは……』

 そんな俺の叫びなどお構いなしと言わんばかりに、俺の目の前にいる誰かは俺の大切な人に手を伸ばそうとする。

 やめろ。

 やめてくれ!

 お願いだから……!



 意識が徐々に浅瀬へと打ち上げられていくのがわかる。

 俺は必死に浅瀬でむき出しになっている岩を必死に掴み、現実へと意識を繋ぎ止めていく。

 やっとの思いで意識を覚醒させることのできた俺は、目を擦りながら体を起こした。

 その視界の先には、ベッドの縁に頭を預けて眠る彼女がいた。

 俺のことをずっと心配してくれていたのだろう。

 その手は強く俺の服を掴んでいた。

 視線を動かすと、既に、剥き散らかしたクロワッサンは片付けられており、いつも通りの部屋がそこにはあった。

「ごめん……」

 俺は彼女を起こさないように、そっと頭を撫でた。

 掌に伝わる熱が、俺の心に優しく入り込んでくる。

 大事なのは今だ。

 彼女がいる今が大事だ。

 それはわかっている。

 わかっているのに俺は脳裏にこびりついた過去の叫びに囚われ始めていた。

「俺は一体誰を守ろうとしていたんだ……」

 思い出さなきゃいけない。

 何かを忘れている。

 とても、大切な何かを。

 そこから、俺は痛みを必死に堪えながら、ただひたすらにクロワッサンとの野球拳に没頭した。

 忘れてはいけない何かを思い出すために。

 忘れてしまいそうな何かを必死に手繰り寄せるために。

 俺は、痛みの先へと手を伸ばし続けた。

「ほんとにもう、やめない……?」

「え?」

 もうすでに数十、いや、数百のクロワッサンの皮を剝いてきた彼女は、ノールックでクロワッサンの皮を剝いている。

 しかし、そんな軽快な皮むきとは対照的に、彼女の顔は曇り、その瞳には涙が滲んでいた。

 俺はそんな彼女の涙を視認しながらも、どうしても過去へと向かう衝動を止められないでいた。

「俺に構わず剝いてくれ。ここでやめるわけに……ぐっ!」

 パリパリと剥かれていく皮の下から覗く白い生地。

 それを視界に入れた瞬間、さらに痛みが強くなる。

 これまでにない程、強烈な痛みだ。

「ぐっ!」

「大丈夫!?」

 そんな俺のクロワッサンの皮を剥きつつ、彼女はこちらを心配そうに見て……。

「いない?」

「……」

 そう、先ほどの潤んだ瞳はどこへやら。

 彼女の目には、こちらをまるで観察するように純な黒色が浮かんでいた。

 そして、その下の口角は、これまで見たことがないほど吊り上がっていた。

 それは、俺が今まで見たことのない彼女の顔。

 それは、俺が今まで見るはずのなかった彼女の顔。

 俺は……。

 俺は……。



 再び夢を見た。

 その夢の中で、俺は絶望を抱えながら必死に懇願していた。

『わかった……。なら、この条件ならどうだ? だから、彼女だけは……』

 何かを諦めた俺は、代わりに愛する者を守れる条件を引き出すことに成功した。

 それは俺にとって大きな決断だった。

 しかし、これでいいと思えた。

 だって、俺は彼女を愛しているのだから、と。



「……っ!」

 どれくらい意識を失っていたのだろう。

 俺はまだ少し痛む頭を摩りながら身を起こした。

「やっと目、覚ましたね。一時はどうなるかと思ったよ」

 そんな俺の鼓膜を彼女の声が揺らした。

「……ごめん」

 俺は謝りつつ彼女の方を見た。

「ん?」

 そこには、クロワッサンがいた。

 いや、正確に言うと、クロワッサンにちょっとした手足の生えた生き物がいた。

 けれど、そこから発せられた声は確かに彼女のものだった。

 視覚情報と聴覚情報との差異を処理できない俺の頭上でハテナマークが暴れ踊る。

「クロワッサンと野球拳し過ぎて幻覚見てるのかな?」

「んー、体は切り離せたけど、まだ意識混濁してるっぽいね。いや、残滓があるって感じかな」

 言って、彼女の声を出すクロワッサンは俺の右を指差した。

 視線を向けると、そこにはがいた。

「は? え? ちょ、俺? なんで?」

 目を閉じたままの俺は静かに寝息を立てている。

「戻った記念にハイ一枚」

 こちらの戸惑いを他所に彼女は自身の体程の大きさのスマホを器用に操作し、写真を一枚。

 そして、こちらに画面を見せてきた。

 そこには、横たわる俺とクロワッサンが映っていた。

 手足の生えた、小さなクロワッサンが……。

「……!? そうか……。俺は……」

 点と点が繋がった瞬間、俺の中に記憶が鮮やかに蘇ってきた。

「やっと記憶、取り戻したみたいだね」

 俺は彼女の方を見ながら、戻ってきた二つの記憶・・・・・

 その一つを丁寧になぞっていく。

 そして、その記憶に沿って言葉を発していく。

 慎重に。

 丁寧に。

 間違えないように・・・・・・・・

「……ああ、俺は人間じゃなくて、この星にあるクロワッサンに外見が類似した外星人だったな」

「言い方。まあ、そうだよ。まったく。私たちは人間に寄生して操る立場なのに、君と来たら逆に取り込まれちゃうんだもん。どうしようかと思ったよ。寄生失敗時に使用する分離薬も飲ませたけどなかなか効かないし」

「ごめんごめん。なんか、寄生した奴の抵抗が凄くて、ほぼ同化してたっぽい。……でも、助かったよ」

 俺はクロワッサンな見た目の彼女に感謝を伝える。

「なんとかなってよかった。……でさ、一つ聞いてもいい?」

 クロワッサンな彼女は視線を落とす。

「うん? なに?」

「その、なんでクロワッサンと野球拳がしたいなんて思ったの? もしかしたら、同胞に似たクロワッサンの皮を剥くことで、君とそいつの意識の分離を後押しできるかもって思って付き合ったけどさ。ショック療法的な感じで。でも、正直グロ過ぎたんだけど。私たちに似た食べ物の皮を剥くの」

 彼女は思い出したくもない、と言った感じで体を抱え、震わせる。

「この星の文化として野球拳があるってのは、私の寄生した女の記憶で理解してはいたけどさ」

 言って、彼女はベッドの下を覗き込む。

 そこには、野球拳に付き合ってくれた彼女がいた。

 彼女もまた、静かに寝息を立てている。

「君の趣味、じゃないよね?」

 恐る恐る、彼女は視線をこちらに戻しながら言葉を発する。

「いやいやいやいや! 俺の趣味なわけないじゃん! どんなサイコパスだよ」

「ほんとに?」

「ほんとだって。いやさ、俺が寄生した奴の趣味が、クロワッサンの皮を一枚一枚剥いでいくことだったみたいだんだよ。俺と同化した後も、その欲が凄すぎて表にあふれ出したっぽい……。で、俺は俺で、もちろんそんなことグロいからしたくないわけじゃん? 必死な抵抗の結果として、こいつの記憶の中にあった野球拳になったってわけ。折衷案? って言えばいいのかな。野球拳なら少しでも剥く頻度減らせるって……。まあ、今思い返せば、だけど。正直、同化しすぎてて曖昧な部分は多いんだよね」

「そ、そっか。そうだんたんだ。もー、自分の恋人がサイコパスだったのかもって怖かったよ」

「ほんとにごめんて」

 俺は彼女に平謝りする。

「まったく……。じゃあ、とりあえず帰ろっか。母星に。いろいろと報告しなきゃ」

「ああ、そうだな」

 こうして、俺たちは地球を後にした。

 離れ行く地球。

 俺はその青を見つめた。

「どした? 長く居過ぎて愛着でも湧いた?」

「いやいや、あんなことあって愛着なんて湧くわけないだろ」

「あはは。それもそっか。私ももうこの星はいいや。私たちに似た形状の食べ物あるなんて怖すぎるし。同胞に似た食べ物の皮を剥くのももう無理。もし、報告上げて、それでも侵略したいって上層部言うんなら、担当変えてもらおう?」

「そうしよう」

 俺は彼女と言葉を交わしつつ、遠のいていく故郷・・に少しだけ想いを馳せる。

 うまくいった。

 うまくいったんだ。

 俺は、自身のあまりにも完璧なクロワッサン星人ぶりに感動すら覚えていた。

 自我があいつと完全に交じり合った時はどうなるかと思ったが、うまく切り離せてよかった。

 これで、俺はこの子を手にすることができた。

 俺は、隣に座る彼女に手を伸ばす。

 そっと。

 静かに。

 俺だけの彼女に、手を伸ばした。

 


 俺の暮らす星では、星内の資源が枯渇したことをきっかけに、母星に似た資源を有する他星への侵略が進められてきた。

 既に、侵略済みの星は数十に上る。

 俺は母星において、侵略先を調査する政府の部門で働いていた。

 理由は単純明快。

 違う星に行くことができたからだ。

 俺は、皮を剥ぐのが好きだった。

 一枚一枚。

 話しかけながら、叫び声を聞きながら、剥がしていくのが好きだった。

 けれど、そんな大胆な犯罪を秘密裏にやるなんて無理があった。

 俺の星内では、だ。

 けれど、侵略先に渡航している時は、監視の目が薄くなる。

 そこで俺は事故を装い、何人もの仲間の皮を剥いできた。

 もちろん、事故として処理するために多少、上層部に便宜を図ったりはしたが。

 さて、そんな充実した皮剥ぎライフを送る中、意中の相手・・・・・と一緒に降り立った地球という星。

 驚いたことに、そこでは俺たちと類似する外見をした食べ物ものが売られていた。

 俺はこっそりと一つを盗み、皮を剥いた。

 一発でその感触の虜となった。

 生きた同胞の皮を剥くのも素敵だが、あまり数は稼げない。

 しかし、この星のクロワッサンというものは、いたるところで売られており、好きに剥くことができる。

 剥く感触も、同胞のそれと全く同じ。

 今回は、意中の彼女だけでなく、この星のクロワッサンもしこたま剥いて帰ろう。

 そう思い、早速とある人間への寄生を開始した。

 だが、俺の寄生した奴がどうにも厄介だった。

 寄生が進む中で、奴は俺の記憶を読み、そして俺の目的を知り、必死に抵抗をしてきた。

 奴は、クロワッサン異常愛者だった。

 クロワッサンを愛しすぎていて、クロワッサンになりたい、クロワッサンと恋をしたい、結婚したい、子を成したい、と考えている奴だった。

 全くもって意味がわからなかったが、あまりにも強烈な抵抗に俺も自我を維持するのが困難な状況に陥っていった。

 そして、長期間の攻防のすえ、俺と奴は妥協点を見出すことになる。

 それは、俺が人間となり、奴が俺となることだった。

 そうすることで、互いに故郷を捨てることにはなるが、それでも互いの欲を一定程度満たせるという。

 まあ、正直、このまま互いに消えてしまうよりは、という焦りが妥協の大きな要因ではあったが。

「これはこれでありか。好き放題、地球上のクロワッサンの皮を剥くことができるしな」

 地球に残された俺は、人間の体となってしまった自分を見て思わず苦笑いをする。

 悪くない結果だ。

 俺は、俺の体が去って行った空の青を見つめた。

 


 俺は、手を伸ばしたその先にある、彼女の表面をそっと撫でる。

 パリッとした手ごたえが指先に響く。

「ちょ、何? どした? まだ船内なんだからイチャイチャすんのは帰ってからにしようよ」

 彼女は驚いたようにこちらを見る。

「ああ、ごめんな。なんだか急に愛しくなって。えっと、ハグだけでも駄目かな?」

「ええ、今? うー、まあいいけどさ」

 少しだけ渋りながらも彼女はハグに応じてくれた。

 あまりにもさくりとした抱き心地に、俺は改めてこの命を守りきれたことに安堵する。

 そして、鮮やかに蘇るは数か月前の記憶。

 あれは、春を迎える少し前のことだった。

 俺は地球を侵略しに来た、クロワッサンに似た形状を持つ外星人に寄生されてしまったのだ。

 正直、人生をかけてクロワッサンに恋し、クロワッサンを愛してきた俺からすれば、願ったりかなったりだった。

 愛するものと一つとなりたいという願望を抱え続けてきた俺。

 そんな俺にとって、この帰結はあまりにも正解だった。

 もちろん、クロワッサンを食すことで一定程度の欲は満たされはすれど、それはあくまでも俺の想いだけの一方的なもの。

 俺はずっとクロワッサンに命があってほしかったのだ。

 その命の意思として、俺と一つになることを望んでほしかったのだ。

 そんな俺の願いの先で現れたクロワッサンに似た外星人。

 運命だと思った。 

 運命だと感じた。

 運命だと信じた。

 似て非なるものではあるけれども、それでも、クロワッサンの形状のそれと一つになれることはあまりにも俺の人生にとって僥倖過ぎるイベントとなりえた。

 ああ、俺もクロワッサンになれるんだと自然と涙が零れ落ちた。

 しかし、寄生が進む中、俺は衝撃の事実を知ることになる。

 俺に寄生したクロワッサン星人(仮称)は、同胞殺しの常習犯だったのだ。

 そして、今度のターゲットは一緒に地球に来た可憐なクロワッサン星人な彼女。

 愛するものと一つになりたい、という願望は、愛する者を守りたいという願いと決意へと切り替わる。

 そこから、俺は必死に抵抗を試みた

 あの子を殺そうとするのなら、俺はお前を取り込んで死ぬと。

 もちろん、あいつも必死にこちらを支配しようとしてくる。

 せめぎ合う自我。

 最終的に、俺があいつの体に入りクロワッサン星人として生き、あいつが俺の体に入って人間として生きる、ということで決着した。

 どうやら、あいつとしては地球にあるクロワッサンの皮を剥いても満足できるらしかった。

 無節操かつ粗雑な愛だと思った。

 けれど、落としどころが見つかった時には既に手遅れだった。

 あまりにも長く話し合いを続けたせいか、俺とあいつの意識と自我は完全に同化してしまったのだ。

 けれど、彼女の助けもあって、何とか分離と相成った。

 愛の力、すごい。

 あとは、地球にさえ近づかなければ大丈夫。

 あいつの凶刃がこの子に届くことはない。 

 あいつも人間となった状態では、星に戻ることなんてできないだろう。

 そこまではきっと計算に入れていないはず。

 分離直前に感じたあいつの意識の中には、クロワッサンの皮を剥きたい、というシンプルな欲と未来予想図しかなかった。

 思い返して、改めてホッと胸を撫でおろす。

 好き放題、地球のクロワッサンでも剥いていればいい。

 大きな安堵の中で、俺は愛する人とのこれからを想い、ただひたすらに胸を高鳴らせるのであった。



 パリパリと、近所のパン屋で買い込んだクロワッサンを俺は剥いていく。

 どのクロワッサンも微妙に剝き心地が違い、俺は指先と鼓膜に幸福を感じる。

 たが、その幸福の先に、微かな虚無感も存在していた。

「楽しいが、そのうち飽きるだろうけどな」

 俺は剥き終わったクロワッサンを口に放り込んだ。

 モニュモニュとした触感が口の中に広がっていく。

 何事も味変は必要だ。

 今はクロワッサンを剝くことに満足できていても、きっと生きている同胞を剥くこともまた、そのうち心が欲するだろう。

 あいつは気づいているのかな?

 気づいていないだろうな。

 俺は、あいつと分離する直前のことを思い返す。

 分離が進む中、あいつの意識の中に安堵感が広がっていくのがわかった。

 同化する前は、必死にこっちの記憶や意識を観測していたくせに、分離直前はそれが散漫になっていた。

 なので、俺はあいつとの意識の境目に「クロワッサンを剥ければそれでいい」という単純な考えを張り、その裏であいつの体に俺の一部を残すことに成功した。

 きっと今頃、愛する者を守れたと安堵しているのだろう。

 そんなわけないのに。

 俺はくつくつと笑う。

 この地球のクロワッサン剥きに飽きたら、あっちに仕込んだ俺の自我を芽生えさせよう。

 今度は慎重に、あいつに気づかれないように進めないとな。

 に迎えに来てもらわないといけないし。

 全てを手に入れることのできるあまりにも素敵な未来予想図を前に、俺は時間を忘れてクロワッサンを剥き続けた。

 

 


 

 

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クロワッサンと野球拳がしたい りつりん @shibarakufutsuka

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