光の向こうへ

塚元守

音速の先にある約束

 国立競技場、男子100m決勝――日本選手権。

 

 六万人の観客が息を呑む中、スタート台に立つ二人は、まるで運命に選ばれた剣士のように静かに睨み合っていた。


 レーン4に、間 瞬一はざましゅんいち


 レーン5に、神矢 零かみやれい


 ――二人は宿敵だった。


 中学時代から、0.01秒を削り合う死闘を繰り返してきた。

 

 瞬一は「加速の化身」と呼ばれ、零は「終速の魔王」と畏れられた。


 そして今日、二人は口を揃えて宣言していた。


「限界を超える」


 スターティングブロックに膝をつき、指先を赤いタータンに這わせる。


 セットポジション。

 二人の背中が、静かに上下する。


 ――マーク。


 ――セット。


 そして。


 パァンッ!

 

 銃声。


 実況・田中アナの声が、最初は普通だった。

 

「出ました! 二人とも抜群のスタート! 30m、すでに並んでいる! 40m……おおっと、これは速い!」


 瞬一が横目で零を見ながら、歯を食いしばる。


「相変わらずいいスタートだな、神矢!」


 零がニヤリと笑う。


「まだ序の口だ、間!」


 田中アナが勢いよく立ち上がる。

 

「――50mで秒速9mを超えたか!? 60m……待ってください、スピードメーターが異常値を示しています! 時速40km……50km……70km!?」

 

 観客がざわつく。


 ――カメラ席。


 最前列の特等席に陣取るベテランカメラマン・大和田正温と、隣で震える新人・佐藤友太。

 

「先輩……もうピントが合わない……! あの二人、速すぎて画面から消えちゃいます!」

 

「馬鹿野郎! 目を閉じても撮れ! 俺たちはプロだろが!」

 

「でも……!」

 

「……聞いてみろ佐藤。お前のレンズの向こうに、何十万人の魂が詰まってると思ってる? 俺は三十年、このトラックを撮ってきた。雨のインターハイで転んだ奴、親父が死んだ翌日に走った奴、全部このシャッターに焼き付けてきた。今日のこのレースは……歴史が変わる瞬間だ。見逃したら、俺たちは一生後悔する。手が千切れても、カメラが壊れても、撮り続けろ! これが……これが俺たちの“生き様”だ!!」


 佐藤、涙を浮かべながら連写ボタンを叩く。

 

「……はい!! 先輩!!」


 ――70m地点。


「なかなかやるな、間!」


 零が力強く踏み込むと急加速。

 

「神矢! 音速を超えた……だと? ふざけるな、まだだ!!」


 瞬一も負けじと加速。


 ドンッ!

 

 空気が白く圧縮され、衝撃波が円形に広がる。

 スタンドのガラスがビリビリと割れ始める。


 田中アナの声が上擦る。

 

「――音速です! 時速1235km! 二人はついに音速を超えました! ソニックブームが発生!」

 

 ――その瞬間。


 スタンド最上段の通路を、息を切らして駆け上がる老人がいる。

 

「田所教授! こちらです! 急いで!」


 助手・寺沢に導かれ、74歳の物理学者・田所慶久教授が白髪をなびかせながら席に倒れ込むように座る。

 

「はぁ、はぁ……もう70m地点じゃないか……! 高速バスが事故で……くそっ!」

 

「教授! 見て下さい! あのスピードメーター……!」


 田所、双眼鏡を覗いた瞬間、目を見開く。

 

「……ありえん……マッハ1を超えている……?」


 だが、二人はそこで止まらなかった。


 むしろ、そこが「本当のスタートライン」だった。


 瞬一が歯を食いしばる。


「……まだだ。まだ足りねえ!」


 零も、同じタイミングで踏み込む。


「ここからだ、間!」


 

 その瞬間――


 

 世界が「切り替わった」。


 音が消えた。


 風が止まった。


 観客の歓声が、まるで古いレコードのように低く歪み、遅れて届く。


 二人の足元から、光の粒子が立ち昇る。


 空気が白く輝き始め、視界が歪む。


 まるで水の中を走っているような、でも水ではない何か。


 そして、加速が「別の法則」に乗った。


 

 ――“音速”から、“光速”へ。


 

 たった0.3秒の出来事だった。


 人間の目では「瞬間」にしか見えない。


 だが、その0.3秒で世界は完全に変わった。


 まるで地球の重力が一瞬で数百倍になったかのように、タータンが深く沈み込む。


 質量が増大している。


 でも、同時に「推進力」も異常なまでに増幅されていた。


 想い、執念、約束……それらがエネルギーとなって、増えた質量をさらに加速させる。


 矛盾しているはずの現象が、矛盾しない形で成立している。


 まるで「質量が増えるほど速くなる」という、新たな法則がそこにだけ生まれたかのように。


 田所教授が、震える声で呟く。


「ローレンツ変換が可視化されてる……! 長さ収縮、時間膨張、質量増大……すべてが起きてる! これは……相対論が崩壊する瞬間だ……!」

 

「教授、顔面蒼白ですよ……!」

 

「寺沢君! 私は50年、この理論を信じて生きてきた……なのに目の前で人間がそれを超えようとしてる……! これは……これは美しい……!!」

 

 ――80m。


 ついに空間が「削れ」始めた。
 二人の周囲だけ、景色がねじれ、歪み、光が屈れ曲がる。


 二人の姿がローレンツ収縮で横に伸びて見える。


 空気が真空のように引き込まれ、スタンドの帽子や紙コップが吸い寄せられる。


 田所教授は双眼鏡を握りしめたまま、立ち上がり、さらに声を震わせた。


「……嘘だ……! あれは……あれはもう“走る”という次元じゃない……!」

 

 寺沢が慌てて支える。

 

「教授!? 危ないです!」


 田所は寺沢の手を振り払い、トラックに向かって叫んだ。


「やめろぉおおおおお!! 君たち……それ以上速くなったら、帰ってこられなくなるぞ! 時間も、空間も、身体も……全部、引き裂かれる! 頼むから……止まってくれ……!」


 老物理学者の声は、嗚咽に変わる。

 50年守り続けてきた理論が、目の前で音を立てて崩れていく恐怖。

 

 それ以上に、若者二人が“消えてしまう”かもしれないという、ただの人間としての恐怖。


 涙が頬を伝い、双眼鏡のレンズを曇らせる。


「……頼む……生きて、帰ってきてくれ……! 私の理論なんか、どうでもいい……ただ……ただ、生きててくれ……!」


「教授……!」


 寺沢も、初めて見た教授の姿に言葉を失い、二人してトラックを見つめ、祈るように手を合わせていた。


 その祈りは、届いたのか届かなかったのか。

 

 ――二人は、止まらなかった。


 田中アナは完全に壊れた。

 

「ついに光速です! 時速30万kmに迫っています! 質量無限大! ブラックホール化の危機です! 空間が裂けています! 時空が歪んでいます! 相対性理論が崩壊しています!」


 ――ゴール前15m。

 

 淡い青白い光の膜に包まれ、声が遅れて届く中、二人は走りながら語り始めた。


 瞬一が、歪んだ空間の中で笑いながら口を開いた。


「神矢、お前と初めて会ったのは……中学の地区大会だったな――」


 零が瞬一を横目に、目を細める。


「間……ああ、お前が俺の記録を0.02秒更新して、俺を泣かせた日だ」


 瞬一が続ける。


「その日から、お前は俺を追いかけてきた。俺もお前を追いかけて……ずっと並走してきた」


 零が、少し声を低くして言った。


「高校の全国大会、雨の中の決勝。お前が転びそうになった時、俺は手を差し伸べるか迷ったよ」


 今度は瞬一が苦笑いしながら応じる。


「はは、そんなこともあったな……俺もあの時、お前が風邪で熱出してたのに無理して出てたこと、後で知ったよ」


 零が頷く。


「互いに、相手がいなきゃここまで来られなかった……な?」


 瞬一が静かに、でも力強く答えた。


「そうだな……。だからこそ、今日こそ決着をつけなきゃならねえ」


 そして零が、視線を真っ直ぐ前に固定したまま、静かに、でもはっきりと告げた。

 

「俺には……負けられねえ理由がある」


 視線をスタンドへ。

 マネージャー・美琴が、涙をこらえて立っている。

 

「このレースが終わったら……美琴に告白するって、約束したんだ」


 瞬一も、視線を別の客席へ。

 

「俺にだって……!」

 

 ベンチコートに包まれた小さな妹・綾奈が、必死に手を振っている。

 

「綾奈が明日、心臓の手術なんだ。勝って、笑顔で病室に行きたい……!」


 零が、歪みの中でニヤリと笑う。

 

「ふっ、お互い……絶対に負けられないってわけか」


 その瞬間――


 美琴が、声を振り絞る。

 

「零くんっ!! 頑張って……!!」


 その声が、歪んだ時空を突き抜けて零の耳に届いた瞬間。


 零の心臓が、ドクンと跳ねる。

 

(美琴……)

 

 脳裏に、走馬灯のように記憶が蘇る。


 中学の夏、雨のグラウンドで一人でタイム計測を手伝ってくれたこと。


 高校の冬、風邪で倒れた俺に、こっそり栄養ドリンクを差し入れてくれたこと。


 どんなに遅くまで練習しても、最後まで付き合ってくれて。


 どんなに負けても、怒らずに「次があるよ」って笑ってくれて。

 

(美琴……お前はどんなときも、俺の隣にいてくれた。どんなに速く走っても、お前には追いつけなかった。いや……追いついちゃいけなかったんだ。お前がいるから、俺は走り続けられた――)


 零の頬が熱くなる。

 涙が一筋、頬を伝った。

 光速に近づく速度でも、その涙だけは遅れずに落ちていく。

 

(だから……今度こそ、ちゃんと伝えたい。「好きだ」って――)


 同じ瞬間。

 綾奈が、小さな体で立ち上がり、必死に叫ぶ。

 

「お兄ちゃん……!! 勝って、帰ってきて……!!」


 その声が、瞬一の胸を突き刺す。


(綾奈……!)


 瞬一の視界が、妹の笑顔で埋まる。


 初めて歩けるようになった日、俺の手を握って「走ろう!」って言ったこと。


 入院が決まった日、「お兄ちゃんが一番になったら、私も元気になる」って笑ったこと。


 手術の前夜、ベッドの横で「怖いよ……」って泣いたとき、俺は「絶対勝って、優勝メダル持って帰るから」って約束したこと。

 

(綾奈……お前はどんなときも、俺のヒーローだった。どんなに辛くても、お前の笑顔を思い出すだけで走れた。お前が待ってるから、俺はここまで来られたんだ)


 瞬一の目からも、涙が溢れる。

 でも足は止まらない。


 むしろ、涙と一緒に加速する。

 

(だから……絶対に、約束を守る。お前がまた笑えるように!)


 それを聞いた実況の田中アナも、涙で声を震わせる。

 

「これは……ただのレースじゃない! 二人の“想い”が、光速を超えてぶつかり合っている!!」


 ――ゴール前5m。


 瞬一と零の体が完全に光の膜に包まれる。


 空が裂ける。


 そして。


 瞬一が、ほんの少しだけ前へ。


 光速の壁を、0.000000001%だけ超えた。


 ゴール。


 電光掲示板が狂う。


 9秒93 →  8秒90


 田中アナの絶叫が、遅れて届く。

 

「――光速を超えたああああああ!! 間選手、光速を超えて優勝! タイムは8秒9! 日本記録をおよそ1秒更新! 人類史上初の光速超え陸上競技! アインシュタインが泣いている!」


 瞬一はゴールと同時に質量が戻り、地面にめり込んだまま動けない。

 

 零も、1cm差で倒れ込む。


 スタンドは10秒の静寂。


 そして──爆発的な歓声。


 大和田カメラマンは震える手で最後の1枚を撮り終え、佐藤の肩を抱いて泣いた。


 ――決着の後。


 光の粒子が舞う中、瞬一は、這うようにして零の元へ近づいた。

 質量が戻った体は鉛のように重く、指一本動かすのもやっとだった。

 

 それでも、瞬一は零の肩に手を置き、ゆっくりと差し伸べる。


「……立てよ、神矢」


 零は、顔を上げた。


「間……」

 

 目には涙が溜まっていた。

 悔しさではなく、どこか安堵のような光。


 瞬一は、弱々しく笑う。

 

「お前がいなきゃ、俺はここまで来られなかった。……ありがとな」


 零は、その手を取った。

 二人は、互いの力で立ち上がる。


 “宿敵”が“相棒”に変わった瞬間だった。

 

 肩を組み合い、観客の歓声に包まれながら、ゆっくりと歩き始めた。


「零くん!」


 美琴が駆け寄ってくる。

 零は、彼女の前で立ち止まり、俯いた。


「……ごめん、美琴。俺、負けちまった……。光、超えられなかった……。ずっと、支えてくれてたのに……本当にごめん」


 声が震えている。

 美琴は、首を優しく振った。


「ううん……零くんは、ちゃんと光を超えたよ」


 涙をこらえながら、笑顔で続ける。


「零くんが走ってる姿、ずっと見てた。どんなに速くても、どんなに辛くても、いつも真っ直ぐ前を見てた。今日の零くんは、誰より輝いてた。誰より、綺麗だった。だから……ありがとう。負けたなんて、思ってないよ。零くんは、私のヒーローだよ」


 零の目から、ぽろぽろと涙が零れる。

 美琴は、そっと零の手を取った。


「……零くん、言って――」


 瞬一が、後ろから零の背中を軽く叩く。

 

「言えよ、神矢。……俺が、背中押してやる」


 零は、息を吸い込んだ。

 震える唇を開く。


「……美琴」


 声が、会場に響く。

 

 マイクが拾い、スピーカーが増幅し、六万人の観客が一瞬で静まり返る。


「俺……お前が、好きだ」


 その一言で、会場が割れた。

 

 拍手が、嵐のように降り注ぐ。

 泣き声が、あちこちで響く。

 

 美琴は、顔を真っ赤にしながら、零の胸に飛び込んだ。


「私も……私も、零くんが大好きです!!」


 二人は、互いに抱き合い、泣きながら笑った。

 瞬は、少し離れたところで、静かに微笑んでいた。

 

 綾奈が駆け寄ってきて、瞬一の腰にしがみつく。


「お兄ちゃん……かっこよかったよ……!」


 瞬一は、妹を抱き上げて、優しく頭を撫でた。

 

「よかった……兄ちゃん、約束、守れたな」

 


 ――最上段の席。


 寺沢助手が、まだ呆然とトラックを見つめたまま呟く。

 

「……教授……光速を超えるなんて、人間に可能なことだったんですか?」


 田所教授は、双眼鏡をゆっくり下ろし、深く、深く息を吐いた。

 

「……理論上は“不可能”だ」


 寺沢が顔を上げる。

 田所は、遠くにいる若者たちを見つめながら、静かに続けた。


「だがな……彼らの目は、真っ直ぐだった。迷いも、計算も、打算も、何もなかった。ただ『前に進む』ということだけを信じて走っていた」


 教授は、初めて笑った。

 優しくて、少し泣きそうな笑顔だった。


「物理も科学も、所詮は人間が作ったものだ。人間の想いとか、愛とか、約束とか……そんな『わけのわからないもの』を、私たちはまだ数式にできていないだけだ」


 寺沢が、目を丸くする。

 

「でも……それじゃあ……」

 

「ああ」


 田所は空を見上げた。

 裂けた屋根の向こうに、青い空が広がっている。


「今日、彼らが見せてくれた現象には、ちゃんと説明はつく。ただ……その説明は、我々がまだ知らない方程式で書かれているのだ」


 助手は、ぽろぽろと涙をこぼした。

 

「……教授……」

 

 田所は寺沢の肩を優しく叩き、静かに呟いた。


「寺沢君。理論は、今日死んだ。そして、新たな物理が生まれた。──『想いの物理学』がな」


 瞬一は記者会見で、静かに言った。

 

「次は、光速の壁の向こうへ――」


 今でも国立競技場のトラックには、90mからゴールまで、深さ30cmの「光速の溝」が残っている。

 

 そして、その溝のすぐ横に、小さなプレートが埋められている。


 ――「ここで、愛が光速を超えた」――


 と、刻まれている。

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光の向こうへ 塚元守 @tsuka_mamo3

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