第7話 死神と競争する、役立たずの考古学者(後編)




 霧に侵入した瞬間、世界が変質した。



 耳元で荒れ狂っていた風音、爆発音、足音が、見えないナイフで断ち切られたかのように消失する。



 代わりに訪れたのは、鼓膜を圧迫するような死の静寂だった。



 空気は糊のように粘つき、図書館の地下室でカビた古書を嗅いだ時のような、陳腐で埃っぽい臭いが充満している。



 気温が急落した。



 全身の汗が一瞬で氷の粒となり、裸で冷凍庫に放り込まれたような錯覚に陥る。



「……止まって……」



 女の囁きに従い、急ブレーキをかける。湿った苔に足を取られ、無様に滑走して止まる。



「どうした? 追いつかれたか?」



 恐る恐る振り返る。



 いない。あの三体の死神デスは、霧の中に踏み込んでこない。



 奴らは霧の境界線で停止していた。



 幾重にも重なる濃霧の向こうに、巨大な黒いシルエットが三つ、揺らめいて見える。



 頭部の白光が霧の外側で焦燥したように左右へ振られている。標的を見失った探照灯サーチライトのように。



 奴らは躊躇している。いや、畏怖しているのだ。



 翰文ハンウェンは白霜に覆われた枯れ木に背中を預け、破裂しそうな肺で酸素を貪った。



「ハァ……ハァ……どうやら……奴らは寒がりらしいな」



 恐怖を紛らわせるために軽口を叩くが、誰も笑わない。



 崩れ落ちそうな体を支えようと、右手で無造作に横の木を掴んだ。



 指先が霜の降りた樹皮に触れた瞬間。



 木の粗雑な感触はない。代わりに、ヌルリとした、冷たく微かに脈動する吐き気を催す感触テクスチャが伝わってきた――



 頭蓋が割れるような激痛と、耳鳴りが襲来する。



 今回は過去のフラッシュバックとは比較にならない。電動ドリルをこめかみに直接ねじ込まれたような暴力的な痛みだ。



 脳裏に浮かぶ映像は断片ではない。決壊したダムの水のように、強制的に意識へ奔流する。



 ――これは木ではない。



 ――無数の白いローブを纏った人間が跪いている。皮膚は干からび、眼窩は落ち窪んでいる。



 ――彼らは祈っている。



『視るな……聴くな……呼吸するな……』



 黒い巨塔ブラック・スパイアが、天罰のごとく蒼穹から墜落し、大地を貫き、世界に風穴を開けた。



 すべての音が吸い込まれていく。



 最後に残ったのは、この霧だけ。



 霧に踏み込んだ瞬間、翰文ハンウェンは鼓膜を焼けた針で刺されたような鋭痛を感じた。



 耳鳴りがする。だがそれは音波ではない。周波数だ。嘔吐中枢を刺激するほど古臭い周波数。



 口の中の血の味が変質した。乾燥した古い埃の味――数千年間封印されていた墓室を、鼻先で開封されたような味だ。



 脳内の「寄生虫パラサイト」が絶叫している。警告というよりは、精神的な凌遅刑りょうちけいに近い。



 そいつは強引に、ノイズ混じりの混乱した思考を翰文ハンウェンにねじ込んだ。



『ここの規則(ルール)は「死んで」いる』



『現代の律法は、この霧を照らせない』



『見える……無数の手が空へ伸びている……彼らは神を引きずり下ろそうとして、自らこの霧の灰になったのだ』



「ぐぅッ! 痛ってぇ……」



 頭を抱え、苦悶の声を漏らす。



 鼻血が滴り落ち、霜の降りた地面に毒々しい紅い花を咲かせた。



 情報量が多すぎる。脳漿が沸騰しそうだ。



 ここは廃棄された場所なのか? あの殺人機械どもでさえ侵入を躊躇う場所に、俺たちは飛び込んだのか?



「……降ろして……」



 女の声が現実へ引き戻す。



 慌てて彼女を降ろす。



 樹幹に寄りかかる彼女の顔色は、先ほどにも増して蒼白だった。ひび割れる寸前の石膏像のようだ。



 だが、その琥珀色の瞳だけは、霧の深淵を死に物狂いで凝視している。



 そこには、巨大な影が霞んで見えた。



 塔のようでもあり、大地に突き刺さった黒い長槍のようでもある。



「あれは……何だ?」



 鼻血を拭いながら、震える声で問う。



 女は喘ぎながら、恐怖と巡礼者のような狂熱が入り混じった眼差しを向ける。



「……黒い塔ザ・ダーク・スパイア……」



「……旧き神オールド・ワンの……墓標……」



 翰文ハンウェンは膝が笑うのを感じた。



「墓標? 虎の口から逃げて、今度は墓穴に入ったって言うのか?」



「……違う……」



 女は辛そうに首を振る。初めて、彼を値踏みするような視線を向けた。



 解けない謎を見るような目で。



「……あそこにしか……道はない……」



「……かいの底へ続く……道が……」



 翰文ハンウェンは絶句した。界の底?



 さっき脳内で感じた、生き埋めにされるような窒息感を思い出す。



 あの寄生虫パラサイトが見せたのは文字ではない。絶望的な残像だ。神を引きずり下ろそうとして、灰になった無数の手。



 その時。霧の奥に佇む巨大な影が、前触れもなく収縮したように見えた。 それは光の加減ではない。空間そのものが痙攣し、周囲の濃霧を強引に引き千切ったのだ。



鼓膜の濾過を無視するほどの鈍重な巨音が、何の前触れもなく胸腔の内部で直接炸裂した。



 肋骨が共振し、軋むような痛みを訴える。



 地底深くに埋葬された太古の心臓が、分厚い地殻越しに怒りの鼓動を放ったかのようだ。



 振動は聴覚をスキップし、魂を揺さぶる。



 体内に巣食う見えない「ナニカ」――焼け焦げた記憶の集合体――が、磁石に出会った砂鉄のように狂ったように震え始めた。



 共鳴している。この塔が、脳内の忌々しい寄生虫パラサイトを呼んでいるのだ。



「……どうやら、本当に選択肢はないみたいだな」



 翰文ハンウェンは自嘲気味に笑い、女を抱え上げた。



「行こうぜ、鳥人とりびとの嬢ちゃん。その……神様の墓標とやらを観光しにな」



 彼が一歩踏み出した、その瞬間だった。



 霧の境界線で、執拗に追跡を続けていた三体の黒い死神デスが、不自然な動作(ラグ)を起こして停止した。



 まるでその霧が鋼鉄を腐食する強酸であるかのように、整然と後退を始める。



 スリットの奥で冷徹に輝いていた白光が、心停止を誘発するような禍々しい真紅へと「充血」した。



 ジジジという電流音と不協和音が交錯する。



 規則正しかった金属の駆動音は変調し、拒絶を示す神経質な蜂の羽音のような高周波へと変わった。



 翰文ハンウェンの脳内の痛みも質を変えた。燃焼感ではない。門前払いを食らったような冷たい感覚だ。



 寄生虫パラサイトは機械たちが発する論理信号を傍受し、翰文ハンウェンが理解できるノイズ混じりの恐怖へと翻訳した。



『停止』



『前方は断崖』



『前方は律法の死角』



『追跡するな』



『奴らを閉じ込めろ』



『奴らを……中で腐らせろ』








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