第6話【レジスタンス】


それからどれくらいの時間が経っただろう。

何も見えない中、わずかに感じ取れる情報といえば、時折ボソボソと聴こえてくる何者かの小さな話し声や、自分を抱えている者の歩幅くらい。

硬く縛られた縄が手首に食い込んでズキズキと痛み、すぅと息を吸うたび、袋が口元に張り付いてきて気道を防いでくる。

ひたすら続く息苦しさにノイが堪えていると、ふと何者かの足が止まった。

どうやら目的地に着いたらしく、そのまま地面の上に体を置かれる。

いや、ベッドの上だろうか。

ゴツゴツとした硬さはなく、柔らかな布の感触がある。

ややあって、顔を覆っていた袋が取り外され視界が広がる。

ようやく訪れた解放感に、ぷはっと勢いよく深呼吸をすると、冷たく澄んだ空気が一気に肺を満たした。

そんな中、真っ先に目に飛び込んできたのは、父によく似た老人が椅子に座ってこちらを向いている姿だった。

どうやらここは民家の中らしく、吊り下げられたランタンの火がくすんだ木目調の壁を照らし、部屋の中にいる人物達の姿を浮かび上がらせていた。


長身で、髪が腰ほどまで伸びた妙齢の女。

ショートヘアで眼鏡をかけた童顔の少女。

目つきが鋭く、毛先の尖ったボサボサ髪の青年など。

いずれも十代後半くらいの若者で、揃って褐色の肌をしている。

だがそんな中でただ一人だけ、陶器のように白い肌を持ち、異様な存在感を放つ青年がいた。

切りそろえられたサラサラの髪の毛は金に近い薄茶色で、シミや汚れがほとんどついていない清潔感のあるワイシャツを着ている。

そんな独特の雰囲気を持つその青年にノイが釘付けになっていると、視線に気付いた彼がふと顔を上げ、目が合ってしまう。

すると青年は突然ポケットから折りたたみ式ナイフを取り出し、こちらに近付いてきたではないか。

鏡のごとく鋭く磨かれたナイフの刃が、恐怖に歪んだノイの表情を映し出した。


(殺される…!)


青年の冷たい指先が腕に絡まり、思わずブルリと体が震える。


「…ごめんね」


吐息が耳たぶをかすめ、ノイはギュッと目を閉じた。

しかし彼女の予想に反してそのナイフが体に突き立てられることはなく、代わりにずっと手首を支配していた圧迫感がフッと消え失せ、切断されたロープがハラリと床に落ちる。


「…え?」


自由になった両腕を見て、これは一体どうしたことかと視線を泳がせていると、老人が穏やかな声で語りかけてきた。


「手荒なマネをしてすまんなノイ。だがこれもお前を守るためなんじゃ。どうか許してくれ」


「…あなた誰?どうして私の名前を知ってるの?」


不思議そうに首をかしげるノイに、老人はホッホッホッと何故かおかしそうに笑った。


「儂の名はメトシェラ。レメクの父親であり、お前のおじいちゃんじゃよ」


「おじい…ちゃん?」


そんなまさか、と呆気に取られるノイ。

何故なら自分に祖父がいるなどという話は、父から今まで一度たりとも聞かされたことがなかったからだ。

だが、どこか父の面影を感じさせるこの老人はきっと嘘をついていない気がした。

老人の正体を理解できた一方で、同時に新たな疑問が生まれる。


「どうして…」


「どうして今まで会いに行かなかったか?お前がそう思うのも無理はない。だがレメクと儂の間には複雑な事情があってな…。ずっと疎遠になってたんじゃよ」


「…単なる親子喧嘩」


長髪の女がボソリと呟き、隣にいた眼鏡の少女がプッと吹き出す。


「やかましい!二人とも引っ込んどれ」


メトシェラに怒鳴られた二人が反省するふりをしつつ、こっそりとグータッチしているのをノイは見逃さなかった。

ゴホンとわざとらしく咳払いをしながら気まずそうに向き直るメトシェラ。


「…ともかく今日からは儂らがお前のことを家族として迎え入れ、守ると誓おう」


「ごめんなさい、私には何がなんだか。他の人達は誰なの?」


ある日突然誘拐され、現れた老人は自分の祖父だと言い、大勢の見知らぬ人達に囲まれているこの状況を理解するにはまだまだ知らないことが多すぎる。

目の前の人達がはたして信用に値するのか、ノイはいまだ決めあぐねていた。

そんな反応も想定内とでもいうかのように、メトシェラは彼女の疑問に答える。


「儂らはレジスタンス。高地の連中を討ち滅ぼし、方舟を奪還するために集った同志じゃ」


「方舟って?」


「なんだそんなことも知らねーのか?」と、ボサボサ髪の青年が口を挟む。


「方舟ってのは、いつか陸地がなくなった時のために、高地の連中が作ってるバカでかい船のことだよ」


「うむ。奴らは儂ら低地の民を見捨て、自分達だけがそれに乗って生き延びるつもりじゃ。その方舟を奪って低地の民を乗せる。それが儂らレジスタンスの目的じゃ」


「………」


説明を受けて、何となく見えてきた全容。

それでもまだ父を失ったばかりで心の整理すらついていないノイにとっては複雑な話だ。

とてもではないがすぐに返事をできる状態ではない。

うつむくノイの肩に、ポンと手を置くメトシェラ。


「…いきなりこんな話をされてお前も混乱してるじゃろう。とにかく今日はもう休みなさい。また明日ゆっくり続きを話すとしよう」


そう言うとメトシェラは白い肌の青年に向かって声をかける。


「アベル、しばらくの間お前がこの子の面倒を見てあげなさい」


「分かりました、おじいさま」


「それじゃあ、あとは頼んだぞ」


メトシェラに促され、集まっていた面々がぞろぞろと部屋を後にする。

足音が徐々に減っていき、静まり返った部屋に取り残されたのはアベルと呼ばれた青年と、ノイの二人だけだった。

ノイがずっと顔を伏せて床を見つめていると、コツコツとアベルの足音が近付いてきたため、思わず肩をすくめた。

彼の足が目の前で止まる。


「えっと…君は確か、ノイだよね?僕はアベル。よろしく」


「………」


差し伸べられた手を、ノイは握り返さない。

代わりに自分のシャツの袖をギュッと掴むと、染み込んでいた海水がじわりと指の隙間から零れ出た。

行き場を失ったアベルの手が虚しく空を掻いて引っ込む。


「ごめんね、無理やりこんなところに連れてきたりして。怖かったよね…」


「………」


「今日からここが君の部屋だから、好きに使ってくれて大丈夫。…と言ってもベッドとテーブルくらいしか無いんだけど」


「……たい」


「え?」


「一人になりたい」


ようやく発したノイの言葉を聞いて、「あ…」とアベルは口をつぐむ。

考えてもみれば、まだ信頼も置いていない男と二人きりにされ、落ち着かないのは当然のことである。

ましてや父親との別れや誘拐まがいの体験をしたばかり。

彼女に今必要なのは話相手ではなく、一人の時間なのだとアベルはすぐに理解した。


「そうだよね…。うん、分かった。それじゃあ、僕は行くよ」


どこか迷う素振りを見せながらも、アベルは踵を返してそのまま部屋を出たのだった。

パタンと扉の閉まる音を聞いて、ノイもようやく顔を上げる。

しかし他人の目が無くなったとはいえ、見知らぬ場所で心が安らぐはずもない。

室内をあらためて見渡してみても、ここには窓すらなく、外に繋がる出入り口は正面の扉だけ。

立ち上がって、ためしに扉に手をやる。

鍵はかかっていなかった。

扉がギシギシと軋みながら動き、外から風がびゅうと入り込んでくる。

恐る恐る顔を出して外の様子を確認してみると、暗がりの中で松明を持って歩き回る大人の背中が見えた。

ひょっとして、見張り役だろうか。

その人物がこちらに振り向きそうになったためノイは慌てて扉を閉め、ふーっと大きな溜め息を吐いて扉に寄りかかった。

どこにも逃げられそうもないな、と思ったものの、はたして本当に逃げ出したいのかと問われると、それは自分でもよくわからない。

どのみち行きたい場所も帰る場所もありはしないのだ。

ならば祖父だと名乗った人物の言葉を信じてここに留まった方がいいのか、それともやはり父の言いつけを守って海に逃げるべきなのだろうか。

巡る思考の中でふと、深海で光る二つの目を思い出して首を横に振るノイ。


(やっぱり海には行きたくない…)


扉に背中をつけたままズルズルとその場にしゃがみ込むと、まるでナメクジが這った跡のように、水気を帯びた背中が木目の色を濃く塗りつぶした。

海から出たあと、全身がずぶ濡れの状態でここに連れてこられたのだから無理もない。

海水をたっぷり含んだ重いシャツがじっとりと皮膚に張り付き、体温を奪ってゆく。


その時、背中越しにコンコンッと扉が音を立てたことに驚いて、ノイは扉から飛び退く。

彼女の目の前でギィーとゆっくり扉が開き、現れたのは先ほど出ていったはずのアベルであった。


「…ごめんね、入るよ」


左手に畳まれた衣類、右手に木製のコップをそれぞれ携え、肩と背中を使って器用に扉を支えながら部屋に入ってくるアベル。


「寒いかなと思ってセナから着替えを借りてきたんだ。あ、セナっていうのはさっきここにいた背の高い女の人のことね。だからちょっとサイズが大きいかも」


そう言いながらアベルはノイの前までやってくると、「はい」と丁寧にそれらを手渡してきた。


「あとはお水。本当は何か食べさせてあげたかったんだけど、食事の時間以外に食べちゃいけない規則だから、ごめんね」


思いもしなかった出来事にキョトンとしながらも、どこまでも穏やかで優しい声と表情を向けてくるアベルにノイの緊張もほぐれ、ずっとこわばっていた肩から力が抜ける。


「それじゃあ今度こそ行くよ。僕は隣の小屋にいるから、何かあったらすぐに呼んでね」


「あ…」


出ていこうとする彼の背中を見て、ノイはとっさに声を上げた。


「?」


「…あ、ありがとう」


振り向いたアベルの顔を直視できず、伏し目がちになりながらも精一杯お礼を言うノイ。

まだ面と向かって話せるほど警戒は解けていないにも関わらず、それでも必死に気持ちを伝えてくれたことが嬉しくて、アベルも自然と頬が緩む。


「どういたしまして」


ニッコリと照れくさそうな笑顔を見せながら、彼は部屋を後にした。

これでまた部屋で独りきりになるノイ。

先ほどまでと違うのは、着替えの衣服と、水の入ったコップがあること。

ノイはふとまず衣服を床に置き、両手でコップを握り締めて傾ける。

ゴクゴクと水を流し込むたび、喉の渇きが癒えて不安まで押し流れていくようだった。

あっという間に水を飲み干したノイはホッと一息つくと、今度は服を脱ぎ始めた。

湿った服の下から日焼けをしていない艷やかな白い肌があらわになり、床に落ちたシャツやズボンがビタッと布とは思えないほど大きな音を放った。

用意された着替えに腕を通してみると、それは彼が言っていた通りブカブカで、指が外に出ないほど大きなグレーの長袖だった。

オーバーサイズなだけあって、ただのシャツにも関わらずお尻まですっぽり隠れたが、下に何も履かないわけにはいかないので、ズボンにも足を入れる。

迷彩柄の長ズボンである。

案の定それも緩かったため、腰の紐をギュッときつく縛ってずり落ちないよう強引に固定した。

そうして着替えを終えたノイはそのままベッドに倒れ込み、薄い布切れ同然の布団をかぶる。

途端に強い眠気が彼女を襲った。

たった一日で多くのことを経験しすぎて、心身ともに疲れ果てていたのだ。


(こんなの全部、夢だったらいいのに…)


朝起きたら隣に父がいて、一緒に漁に出て、帰って食事をする。

そして今日見たことを全部父に話して、「それはただの夢だよ」と笑い飛ばしてもらうのだ。

そんなことあるわけないと知りつつ、今までどおりの日常が戻ることを夢見て、ノイは深い眠りについたのだった。






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